20-11.開幕
建国を記念して開かれる御前試合の一回戦第一試合――。
ウェズは会場の最下層、つまりは闘いの場となる丸い闘技盤を、控え室から続く通路から眺めている。
闘技盤を囲む観客席、その最上段は痛いくらいに空を仰がねば、目が届かない。御前試合が催される今日は、その末端の末端にいたるまで空席なく観衆で埋まっていた。四方から人々が覆いかぶさってきて、押しつぶしてくるような錯覚に陥る。
場内に満ちているのは、人々と鼓膜をつんざくような彼らの歓声だけではない。祭り特有の熱狂と、これから血が流れることを期待する獣じみた興奮が、殺気のように中央の闘技盤へと注がれている。
過去に少なくない数の者たちが――いずれも歴戦の勇士のはずだが、その者たちでさえこの異様な雰囲気にのまれて、本来の動きを失い、ある者は敗れ去り、ある者は命を落とした。
今そのただなかに身を置いているのは、今回初出場となったフィルだ。
「……ああいうところはほんとかわいげがねえ」
この二年間、ウェズの手元で育ててきた彼女は、普段呆れるほど表情豊かで、考えていることがそのまま顔に出る。だが、こうして剣を握った時だけは別人と化す。
そうかもしれないと予想していた通り、周囲から浴びせられる異常な熱気をまるっと無視し、フィルは静かな表情で、第一試合の相手となる歴戦の傭兵ソドムズと対峙していた。彼の顔には、明らかな高揚が見てとれて、それが余計にフィルの平静さを際立たせる結果となっている。
「……」
音もないまま、ウェズの横に長身が並んだ。
自分より頭一つ高い、その横顔へと視線を向ければ、こちらはこちらで何の表情もなく、闘技盤の上を見つめている。
(こいつの体もほぼ出来上がってきた……となると、俺もうかうかしていられなくなるな)
アレックスの首筋とその付け根の盛り上がりの筋肉に、ウェズは思うともなしにそう思い、それから口をへの字に曲げた。
彼のほうとはもう六年以上の付き合いだ。氷の彫像と揶揄されることもあったほど感情を表に出さないやつだったが、フィルが騎士団にやってきて、少しずつ感情が読めるようになった。
だが、それも彼女の退団が決まって、こうしてまた元に戻ってしまった。
特に異様なのは、彼女を見るアレックスの視線だ。彼女を前にして、彼にこれほど感情が見えないことはこれまでなかった。
ウェズは、その件でアレックスに詰め寄った日のことを思い出す。
気色ばんで、フィルの退団を止めない理由を問いただしたウェズに、アレックスは無表情に、平坦な声で答えた。
『俺が何か言って、彼女が考えを変えると思いますか』
それは反語のようにも聞こえたが、ただの質問のようにも聞こえた。
ただ事実と思うことを述べているだけなのか、投げやりになっているのかもわからなかったし、怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのか、それともそのいずれでもないのか、それさえわからない。
もっというのであれば、フィルへの興味の有無すら、その反応からは伝わってこなかった。これまでのアレックスのフィルへの態度を考えると、異常としか言いようがない。
「……」
(本当に別れたか、それともこれから別れるつもりか……。控え室での二人の様子、というよりアレックスの様子も、おかしいと言えばおかしかったしな……)
最近騎士団でまことしやかに囁かれている噂話を思い出して、ウェズは今度は顔をしかめる。そして、闘技盤上のフィルに目を戻し、「能天気に勝つの勝たないの言ってる場合じゃないだろうが」と小声で毒づいた。
審判が片手を頭上に振り上げた。その瞬間、あれほどのざわめきが嘘のように鎮まりかえる。
「――始め」
その手が落ちるのと同時に、開始の声が響き渡った。
直後、野太い雄叫びが走った。ソドムズの戦斧が、フィルの頭上へと振り下ろされる。
会場から甲高い悲鳴が上がった。
フィルは構えていた剣を動かすことなく、滑らかに動いて、その一撃を避ける。だが、空ぶったそれは、大きな音を立てて闘技盤の硬い岩を砕いた。
会場の大方の者は巨大な戦斧の威力に蒼ざめ、言葉を失ったようだ。開始後の喚声は再び失われてしまった。
その沈黙に自尊心を満たされたらしいソドムズは、フィルへと不気味な笑いを見せた。
「お前、カザック王国の英雄の孫なんだってな。持ち上げられていい気になってるとこ、わりぃが、現実ってもんを教えてやるよ」
目の前のフィルをか細い小娘と嘲り、脅しているつもりなのだろう。
だが、当の彼女は怯えどころか、口の端に笑みを浮かべた。
「……ああん? 何笑ってんだ、殺すぞ」
(ありゃ駄目だな)
フィルが笑う理由がわからない時点で、大男に勝機はない、とウェズは肩をすくめる。
『大型の得物は、恐怖を与えて相手の動きを鈍くすることで初めて有利になる。一対一の場合は特に』
ハフトリー元辺境伯の制圧の際、大剣を扱う傭兵をあっさり倒したフィルは、同期たちに怖くはないのかと訊かれてそう答えていた。続けて、『逆に冷静でさえいられれば、ナイフどころか素手でだって勝つことは可能だ。あんなものを持って素早く動ける人間はいない』と。
二手目を仕掛けたのもソドムズだった。先ほどのフィルの表情が、自分を馬鹿にするものだったことは分かったらしい、憤怒によってか、顔が紅潮している。
横殴りに自分へと繰り出されてきたそれを、フィルはまたも紙一重で避けた。風圧で髪が乱れる距離しかないというのに、顔色一つ変えない。
(あの傭兵、あの大きさの得物を操っていながら、あの程度の体勢の崩れで済むのは、大したもんだが……)
馬車の車輪ほどのサイズの斧頭を支えきり、即座に次の攻撃態勢に入ろうとしたソドムズだったが、ウェズの予想通り、フィルは大振りの隙を逃さなかった。素早く相手へと踏み込むと、流れるような美しい所作で、相手の喉元へと剣先を突きつけた。
会場は再び天を割らんばかりの喚声に包まれた。
性差と体格差、獲物の相性の悪さから圧倒的にフィルが不利との大方の予想を裏切って、開始直後にあっけなく終了。熱狂的な声援と、賭けを失った者の罵声が大きく響いている。
だが、フィルに変化はない。試合後の礼を終えた後、当然という顔つきで、踵を返した。
「……っ、ふざけんな、俺は認めねえっ」
呆然としていたソドムスが我に返るなり審判に詰め寄った。そして、フィルに向かって「おいっ、待てっ、もう一回だっ」とがなり立てる。
「かまわないが……お前の言葉を借りるなら、次は『殺す』が?」
「っ」
蒼ざめて足を止めたソドムズを冷たく一瞥し、フィルは再び歩き出した。こちらへと向かってくる。
「……強いな」
独り言を発するアレックスの顔に、相変わらず表情はない。
「まあな。マジでやばいやつだよ。本当、アル・ド・ザルアナックはあいつに一体何を教え込んだんだか……」
剣技大会などで見てきたとおり、フィルはこういった試合の前には少なからず緊張する性質のようだった。これを最後に騎士をやめることが決まっているせいか、今回はそれが特にひどく、控え室での様子もおかしく、青い顔をして泣きそうにしていた。眼前の彼女が先ほどと同じ人間だと、誰が信じられるだろう。
(フィルを復活させたのは、アル・ド・ザルアナックの教えだけじゃなくて、アレックスのせいでもあるはずだが……)
フィルが調子を取り戻したのは、アレックスに声をかけられてのことだが、二人の間には、その時も妙な緊張があった。
訳が分からん、とウェズは頭を掻く。
「お疲れ」
「……」
フィルが目の前まで来た。声をかけたウェズへと、一段高い闘技盤の上から頭を下げる。
そして、無言のままアレックスを見つめた。中空へと差し掛かりつつある日の光が彼女を背後から照らして、表情がよく見えない。
目を細めて、光に目を慣らしたウェズは、目をみはった。
フィルはアレックスに対して、薄く微笑みを浮かべている。
絶対に勝ち上がる、誰にも負けない――そうはっきり宣言している。
その顔といい、先ほどの宣戦布告としか思えない勝利宣言といい、フィルらしいと言えば、とてもフィルらしいが……。
「……」
対象のアレックスの顔に、ようやく表情が乗った。彼は彼で背筋が凍えるような好戦的な微笑で彼女に応じている。




