20-10.剣峰
建国を記念して四年から五年に一度開かれる御前試合。その会場となるカザレナ闘技場の控え室には、出場者たちが集まり始めていた。
降り注ぐ日差しには春の兆しが見えているが、古い石造りの建物の内部は、朝の冷気を保って、ひんやりとしていた。これから殺伐とした闘いを迎える者たちの控えの場としては、ふさわしいのだろう。
予選を勝ち抜き、一般参加枠の出場者となった者たちが、屈強な筋肉と体中についた傷痕をこれ見よがしにさらしている。彼らは野にいる戦士たちによく見られる、殺気だった視線を、フィルを含めた騎士たちへと向けていた。
「……」
試合前の緊張と高揚、間合いに入った瞬間に切り付けられそうな鋭い空気――フィルにとって本来心地良いはずのそれが、今は焦りの原因となっていた。
(……まずい、集中できない)
膝の上においた愛剣を見つめ、フィルは口内にたまった唾液を飲み込む。その音が異様に大きく響いた気がして、フィルは眉間に深いしわを寄せた。
こんなことは初めてだった。
どんなに悩んでいても、剣を持ちさえすれば、雑念は頭から振り落とされる。生き延びるために必要なことだと祖父が口を酸っぱくして諭していたし、実際これまでそれができないことなどなかった。
御前試合は、剣技大会のようなお遊びとは訳が違う。
得物は自由、真剣を使用する。相手を殺傷することは好ましくないとされているが、たとえ殺してしまった上での勝利であっても、咎められることはない。
騎士団六名と近衛騎士団二名の他に、一般の予選通過者八名が参加することになっていて、彼らが優勝した場合に与えられる賞金は破格、国王や高位貴族たちの目に止まれば、私的な兵として抱えられることや特別な褒賞を得ることも多いとあって、どの試合も白熱する。怪我人が出ることが当たり前なら、死者が出ることも珍しくはない。
そんな中で、おそらくフィルだけだろう、こんなふうに集中できていないのは。
「……」
フィルは額にかかった髪の毛をいらいらと掻き上げた。
集中できない理由はもちろんわかっている。
昨日のフェルドリック、正確にはアレックスだ。
フェルドリックの言うとおり、アレックスはおそらくフィルを見限り始めている。
「……」
あれこれ考えて、いろんな可能性を探って、楽観的になろうともしてみたけれど、結局その結論にしか行き着けなかった。
自業自得なのだから、受け入れるしかない、と昨日から何度も自分に言い聞かせているのに、また胃の腑が覆るような感覚を覚えた。
不快感をやり過ごすべく、フィルはギュッと瞼をつむり、剣を力いっぱい握りしめる。
フェルドリックは、いつだってフィルがつかれたくないと思っていることを、正確についてくる。悔しいことに、それはいつも真実を捉えていて、その度にフィルは逃げ回っていることに向き合わざるを得なくなる。昨日のもそうだ。
向き合ってしまえば、彼は正しいと認めざるを得なかった。
アレックスは、フィルの西大陸行きを止めようとはまったくしなかったし、待っていると口にすることもなかった。それどころか、明らかにいらだち、フィルの存在自体を避けた。
そして……それはアレックスの当然の権利だった。
当たり前だと自分でも思うのに、いざ事実を突きつけられると、どうしようもなく苦しかった。空気に毒が入っているようで、呼吸のたびに苦くて辛くて、いっそ息の根が止まってしまえばいいのに、とすら思う。
なんでこんなことになってしまったんだろう、と何度も考えた。考えても仕方がないことなのに、そう繰り返してでもいないと、おかしくなりそうだった。
自分が西大陸に行くと決めたせいで、アレックスもこんなふうに感じたのだろうか、と考えて罪悪感を覚え、もしかしたら彼はもうそんな価値を自分に見ていないかもしれない、と思いついて、さらに苦しくなった。それはひどく現実的なことに思えたから。
だが、彼は別れを口にしない。まだ希望があるのではないか、と思い直そうとしたが、自分の中の冷静な部分が、それを否定した。
彼が別れを口にしないのは、フィルがこんなふうになるのを見越しているからではないか。彼は敏い人で、フィルのこともフィル以上に知っている。そして、優しい人だから、フィルを動揺させまいとしてくれているだけなのかもしれない、と。
そんな人に、自分は必要とされなくなりつつある――それは常闇に放り込まれるような感覚だった。
いっそ自分からアレックスに別れを告げてしまおうか――一睡もできないまま、夜明けを迎えた時頭に浮かんだこの思い付きに、フィルは憑かれた。
そうすれば、彼を待たせなくていい。待っていてくれることを期待しなくていい。
そうすれば、あんなふうに彼をいらだたせなくていい。自分ももう見限られたと怯えなくてもよくなる。
そうすれば、彼はフィルに気を使うことなく、他の人を探せる。そうしたら、自分も、彼が他の誰かを選んでも諦めがつくかもしれない。
(そうだ、きっと大丈夫、アレックスと別れたって、私は多分なんとかなるし、彼だってもうそう考えてる。大体付き合っていた人と別れることなんて、別に珍しい話じゃない。みんな苦しんだってなんとか立ち直っていくじゃないか。私だってきっと……)
「……」
もう何回目になるかわからないことを、フィルは自分に言い聞かせる。
それはとんでもなく卑怯な逃げだと、頭の片隅から非難の声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。
(そう、これでいい。後はもう御前試合に集中しよう。あんなになろうと思ってなった、それでこんなに好きになった騎士として過ごせる最後の時間じゃないか……)
「っ」
――アレックスだ。
だが、無理やり取り戻した平静も、一瞬で無に帰してしまった。
控え室のドアが開いた瞬間、びくりと体を震わせたフィルは、次に自嘲を顔に乗せる。姿を確認してもいないのに、彼だとわかってしまうことが、ひどく悲しかった。
室内の殺気立った空気が一斉に彼へと注がれたようだ。貴族の出自を罵る、訛りの強い小声が、そこかしこから聞こえてきた。
だが、彼の歩みに変化はない。まっすぐフィルへと近づいてくる。
「……」
チカヅイテコナイデホシイ、ソウスレバ、サヨウナラヲサキノバシニデキル……――。
思い浮かんだ考えに、フィルは半泣きになった。この期に及んで、そんなふうに思ってしまう自分が情けなさすぎた。
「フィル」
ついに声がかかる。だが、顔をあげられない。
「……フィル?」
(まずい、不審がってる。まずどうすればいい? 顔を上げる? どんな顔をすればいい? ああ、そうじゃなくて、話……けど、どうしよう、今ここで? なんと切り出せばいい? でも、この場で話すのは、余計迷惑となるのでは? いや、私との別れ話なんてアレックスにとっては今さらかもしれない。そもそも彼はもう私のことなんてどうでもよくなっているかもしれないじゃないか。けど、元はといえば全部私の非だ。それでは無責任……)
「フィル、どうした」
「っ」
だが、頭の中で嵐のごとく飛び交っていた言葉は、膝を落としたアレックスの青い双瞳を見た瞬間、霧消した。
「……」
綺麗な、綺麗な青い色。いつか見た海と同じ、深い、深い青。ずっと焦がれ続けてきた色――。
「フィル?」
大したことではないと、この先、自分にも彼と同じくらい好きになれる人が現れるかもしれないと、思い込もうとしていた。そして、『きっと大丈夫』と思えるところまで行っていた。
無言で呆けたようにアレックスを見つめ続けるフィルに、アレックスが眉をひそめる。
「何があった」
膝を寄せながら、彼は心配を含んだ表情でフィルの顔を覗き込んできた。
何かあったのか?とは訊かないんだ、と思ってフィルは泣き笑いを零した。
美しい瞳にはいつだって優しさが湛えられていて、十一年前その目に見つめられると、嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。寸分違わぬその色が、今泣きたくなるくらい愛しい。
「……何も」
――この瞳に他の女性が映っても平気だなんて、死んでも言えない。
フィルは自分の愚かさを噛みしめる。
どうしようもなくアレックスが好きだ。顔を見てしまえば、こんなに簡単に分かることだった。
(このまま諦めることなんてできない。たとえ彼が私をもういいと諦めてしまっているとしても、私にはできない)
「……」
両腕を伸ばして彼の首に巻きつける。
一瞬彼が戸惑ったのが分かった。一般参加者たちがこちらを見ているのも感じる。
だが、すべて無視して、フィルはアレックスをぎゅっと抱きしめた。戸惑いは悲しいが、まだ振り払われない。その事実に少し安堵を得て、自らを勇気づけるように口角をあげる。
忘れていた――可能性がある限り、勝ちに行く、それが信条だ。
「アレックス、」
では、可能性がない場合は……?
「今日、優勝するのは私です」
――可能性をもぎ取るために、勝ちに行く。
静かな声で宣言して、アレックスから身を離せば、その向こうに見える参加者たちの顔が、明らかに癇に障った、というふうに動いたのが目に入った。
目の前のアレックスに視線を戻せば、目をみはっていた彼は、次の瞬間寒気がするほどに鮮やかな、鋭い笑みを顔に浮かべた。
その全員に対し、フィルはフィルで不敵に笑い返す。
(そうだ、結果がどうなるにせよ、私は最後まで私らしくいよう――)
* * *
「優勝候補筆頭は、言わずと知れた前回の優勝者、騎士団随一の騎士、若獅子ウェズ・シェイアス!」
「対抗馬は、同じく準優勝者、貴族の中の貴族、貴公子アンドリュー・バロック・ロンデールだ!」
「ところが、今回はちょっと予想が厳しいよっ」
こういった催しに付き物なのが、賭け事だ。
王都カザレナの闘技場前では、今年も賭け屋が集い、盛り上げるためにだろう、それぞれが抱える予想屋たちが声を張り上げている。
ヘンリックはメアリーを伴い、予想屋の演説に聞き入る群衆を輪の外から眺めていた。
「なんと言っても、我らがカザック王国騎士団の誇る女性騎士、戦女神エルサナの再来、フィル・ディランだ!」
(賭ける側が儲からないから賭け事が成立するんだ、そんなことに投資するなんて、これだから一般人は……)
商売人の子そのものの冷めた目でその場を通り過ぎようとしていたヘンリックは、聞こえてきた親友の名にぴたりと足を止めた。
横でメアリーが同じように立ち止まる。
息ぴったりって感じで嬉しいけれど、今の問題はそこじゃない。
「物珍しさで目立つだけかと思いきや、王都を騒がせた盗賊を一刀両断にし、あの悪名高き狂将軍、隣国ドムスクスのイラー・デンをも再起不能に叩き込んだ実力派だ! ついでに驚愕の事実、聞いて驚くなかれ――彼女は、かの大英雄、アル・ド・ザルアナックの愛孫だ!」
予想屋のセリフに、一部の群衆からどよめきが上がった。
王都住まいと思しき人々が、そんな彼らに得意げに何かを語り始める中、別の予想屋が声を張り上げた。
「あっちじゃあんなこと言ってるが、それでもディランは所詮女、ザルアナックさまには未来永劫なれっこないさ。それに引き替え、闇と知恵の神エーデルの化身、アレクサンダー・エル・フォルデリークはどうだ!? 派手さじゃフィル・ディランに劣るが、最年少で騎士団試験を突破、あの体格に加え、あっちこっちの騒乱で腕っ節のよさも保証済み! 今じゃあのウェズ・シェイアスを抜いて騎士団最強ってもっぱらの噂さっ。加えて駆け引きもできる。頭のよさは随一だよ!」
「いやいや、大穴は、戦斧の傭兵ソドムズさ! どでかい斧を体の一部みたいに振り回す怪力は、フィル・ディランの細っこい剣じゃ受け止められないってもんだ!」
「一番人気は、ウェズ小隊長……ヘンリックたちの話を聞いていると忘れそうになるけど、やっぱりすごい人なのね。お母さんは昔のポトマック副団長のほうがすごかったって言っていたけど」
喧々諤々と予想が続いていく中、メアリーは、張り出されているオッズを見て呟いた。
二番はウェズから大分離されているものの、ロンデール副近衛騎士団長だ。それ以外の上位は、ほぼ騎士団の代表が独占している。その中でフィルは最下位の九位で、アレックスは四位だ。
同じオッズに見入っていたヘンリックに、メアリーが「ごめんね、ヘンリック。ちょっと待ってて」と微笑みかけてきた。
そして、「ああ、今日もかわいい……」とデレるヘンリックをきれいに無視して、賭け屋に向かっていく。そして、そこに集う風体の怪しい男たちを勢いよく押しのけ、札をバンっとカウンターに叩きつけた。
「フィル・ディランに千キムリ!」
「っ」
「おー、お嬢ちゃん、そんなかわいい顔して豪気だねえ」などと賭け屋の親父が鼻の下を伸ばしたのを見て、さすがのヘンリックも我に返る。
慌ててメアリーの側に行き、彼女をいかがわしい視線から引っ張り出した。
「気に入らないわ、なんでフィルの配当があんなに高いの? フィル、強いし、一番かっこいいのに」
ぶつぶつとつぶやくメアリーの手には、それでもしっかりフィルの賭け券。
「まあ、フィルは目立つけど、実戦の経歴がさほどあるわけじゃないから。おまけに初戦の相手が悪いよ。戦斧と細剣だもん。配当の低さを言うなら、俺にはアレックスの高さの方が……」
不思議だよ、と続けようとして、ヘンリックは奇妙な気配に言葉を止めた。
「ヘンリック?」
「……」
人生初、メアリーの声に反応することなく、ヘンリックは先ほど離れたばかりの賭け屋を振り返る。
そこにいたのは、フードを目深に被った若い男。
「アレクサンダー・エル・フォルデリークに、五万キムリ」
その金額の高さに群集からどよめきが上がった。
すらりとした長身、優雅な物腰、そして、何よりその声……――。
「……」
呆然とするヘンリックの前を、賭け券を受け取ったその男が通り過ぎていく。
「!!」
その瞬間、彼はヘンリックと目を合わせてニヤッと笑った。
「ちょっと、ヘンリック!?」
ヘンリックは彼の腕を取ると、その場から全力で走り出し、路地へと引きずり込んだ。メアリーを置き去りにするなんて、一生においてきっとこの時限りだろう。
「な、なななななな、なにしてらっしゃるんですか!?」
「何してるの! は、ヘンリックでしょう!?」
メアリーが息を切らしながら追いついてきて、「まさか彼から賭け券でも奪う気!?」とヘンリックに詰め寄る。
そのヘンリックの向こうで、男がフードの下に見える、形のいい唇の両端を上げた。
長い指が頭の覆いを取り去り、豪奢な金髪が露わになる。その間からのぞくのは、この世のどんな宝石より美しいと評される、緑と金の混ざった不思議な瞳。何より、華やかに整ったその目鼻立ち。
この国に住む者ならば、一度はその姿を彫像なり姿絵なりで見たことのある……、
「って、お、王太……っっ」
メアリーの叫び声は、ヘンリックの手で辛うじて防がれた。




