20-9.破砕
借金のかたにフィルが弟子入りしたことになっているウェインは、ほんっとうに変な人だ。お前が言うなと言われるのを覚悟で言うが、変なものは変なのだ。
西大陸の知の大国ミドガルドに留学したという経歴に相応しく、人文科学から自然科学、雑学、くだらない豆知識にいたるまで、驚くほど広範な知識を持っている。
考え方は論理的かつ進歩的。裏町のあんなお化け屋敷で飄々と生きていることが不思議で仕方がない。望めば、王宮つきの高級官僚にすぐにでもなれそうなのに。
ついでに、あの邪悪さがあれば、フォースンさんのように、フェルドリックに虐げられることも無いだろう。王宮は更なる魔窟と化すだろうけど。
元々はオーセリン海洋国の出身だそうだ。
隣の大陸に留学できるくらいの家の出なのだから、生まれ育った家は相当に裕福なはずなのに、言動は粗野そのもの。
性格は邪悪だし、我がままだし、邸は汚いし、お金に執着するし、嘘も平気でつくし、しかも騙される奴が悪いとか言い切るし。
かと思うと、親切だったりもする。
そもそも彼はなぜフィルにこんなに親切にしてくれるのだろう?
いや、確かに最初は勢いで手伝いをさせられて、次は詐欺、その後は借金の返済名目の弟子入りが条件なわけだが……。
なんせ変な人だと思う。
「これをミドガルドのアンソニー・クラークに渡せ。そうすれば、後は彼がうまく計らってくれる」
今日そんな彼から手渡されたのは、彼の師への紹介状だった。
「ありが――」
「50000キムリ」
「……」
「彼が死んでいた場合は、自分でなんとかしろ。その場合も返金はしてやらんが」
「……」
そんなことを言いながら、続けてミドガルド王宮にこんな人がいる、あんな人がいる、城下には……とぶつぶつ呟き出したウェインに、フィルは引きつらせていた顔を元に戻した。
(実はかなりのお人よし……悪ぶっているだけなのかも)
そう思いついて、こっそり笑った。
だから、フィルのミドガルド行きを悲壮な顔で止めに来た兄ラーナックに、ウェインを押し付けてみることにした。そんなに申し訳なく思うのなら、代わりにウェインに弟子入りしておいてくれ、と。
そうしてウェイン邸に兄を案内したわけだが、その時の彼の悲愴な顔は見ものだった。美人が台無しだった。
クモやら虫やらを見てめまいを起こし、埃に咳き込み、血を見て失神する彼にとってのウェイン邸は、フィルにとってのミドガルドとさほど代わらない困難さかもしれない。
ウェインのほうは、最初こそびっくりしたようだったが、喜んで兄を迎え入れてくれた。曰く、フィルよりよっぽどまともな頭の主の兄は、弟子にうってつけらしい。
あのウェインに期待される――すごいと思うと同時に、『……がんばれ、兄さま』と真剣に思っている。
結局、兄は彼らしいことに、律儀にウェイン邸に通い出した。フィルの見込みどおり、掃除だ、片づけだ、屋敷の補修だ、と色々苦労しているらしい。でも、舶来の貴重な書籍や(変だけど)博学なウェインとの時間は、楽しいらしい。
「……良いね、ミドガルド。僕も行ってみたいな」
「うん、知らないところって、楽しいよ。私も楽しみなんだ」
兄がそんなふうに呟き出す頃には、彼の顔からフィルへの罪悪感がわずかながら薄れていて、ほっとした。
悲劇を気取るのは嫌だ。『かわいそうな自分』に酔うのも好きじゃない。
ミドガルド行きは、兄のためと言うより自分のためなのだ。自己犠牲なんかじゃなく、フィルが行きたくて行くのだから、これでいい。
父とは相変わらずだ。
彼は、アレックス伝手にフィルのミドガルド行きを聞いて、短くない時間固まっていたらしいが、その後即騎士団にやって来て、面会室の外に見物人が集まるような大喧嘩をフィルと繰り広げて帰っていった。
残業していたポトマック副騎士団長がやって来て、止めに入ってくださらなかったら、殴り合っていたかもしれない。
その場合勝ったのは、当然自分だとも思っているが、『初の親子喧嘩だ、真っ向から言えた、父も言ってくれた』と後で気付いて感動した。
頑固で偏屈者の父らしいことに、彼は今も納得していないらしいが、喧嘩して家出して、帰ってきてから話し合って理解し合うのだ、とリアニ亭の皆が言っていたし、そもそもお互いよく知らないのだ。順調に行ったところで、フィルと彼が理解し合える日なんて十九年後だ。
だから、気にしないことにした。無事に帰ってくれば、それできっといいのだろうと思うことにする。
丈夫で質素な服を準備した。
愛用の剣の他に、短刀数本とナイフを十数本。薬も持った。携帯食も当面の分は十分。
一人旅は避けるべきだと思うので、基本的に隊商の護衛でもして、目立たぬように移動するつもりだから、馬は不要。
男性として通すために、少し伸びていた髪は再び短くした。
色気もそっけもない、実用一辺倒の大きなカバンは、祖父の愛用品だったというのをオットーが引っ張り出してきてくれた。
彼もターニャもため息をつきつつ、「まあ、お嬢さまならそうなさるだろうとは思っておりましたけど」「そして私どもはお嬢さまのことだから、きっと大丈夫だろうとも思っておりますけど」と言ってくれた。
だが、その後に、
「でもくれぐれも気をつけてください――よくよく、本当によくよく考えてから行動するんですよ、いいですね?」
「ふらふら気になる方へ方へと歩いていくその習性は、厳禁です」
「見かけない食べ物を、ほいほい口にするその癖もダメですからね」
と口を酸っぱくしていたあたり、良くも悪くも彼らはフィルをよく知っているということなのかもしれない。結構耳が痛い。
旅の資金として、これまで自分で貯めた給料すべてと、祖父の残したへそくりちょっとを、金と西方で希少だという青い宝石に変えた。
それらを服のあちこちに縫い込む。
その宝石の中にアレックスの瞳の色にそっくりの物を見つけてしまって、なるべくこれは換金しないでおこう、などと考えたのは秘密だ。
それでも旅費が足りなくなったら、賞金稼ぎでもする。
……そう言ったら、ヘンリックが呆れて、お父さんから紹介状をもらってきてくれた。なんでもこれを大きな都市の商工組合などで見せれば、資金などを融通してもらうことができるらしい。本当に良い奴だ。
フィルの机の上には大きな地図があって、これも持っていく。
ヘンリックが実家の人に頼んで手配してくれたそれは、ウェインの手で修正が加えられている。
そして、この地図に合わせて、宝物――昔アレク、アレックスが贈ってくれた方位磁石も、一緒に隣の大陸まで旅をする。
知らない土地。知らない文化。知らない人々。
遠い外国に行ってみたい、と祖父は子供のように楽しそうに語っていた。祖父が果たそうとして果たせなかった機会を得たフィルはきっと幸せなのだ、と思う。
きっとこの旅は楽しいものになる。
カザレナでの、騎士団での残りの日々を過ごしながら、そう自分に言い聞かせる。
その騎士団のほうは、あまりうまくいかなかった。
ウェズ小隊長は相変わらず反対していて、しかも怒っていて、それが悲しい。
そのせいだろう、第一小隊のみんなも何かを勘ぐっているようで、この間詰め寄られた。
「おまえだけじゃない、アレックスも様子がおかしい」
そう言ったオッズの顔が珍しく真剣で、心配してくれているとわかって泣きそうになった。
「フィル、一体最近どうしたんだ?」
同期たち、特にカイトやロデルセン、エドとか仲のいい者たちは、何度も何度もそう聞いてきた。
そのたびに誤魔化したけれど、良心が痛んだ。
いきなりいなくなったら、みんな怒るかもしれない。そして、ひょっとしなくても嫌われるのだろう。
大好きな人たちとそんな別れ方をしなくてはいけない、それがとても悲しい。
「もうすぐ、だ……」
そうして準備する傍ら、月日は瞬く間に過ぎていった。
明日はもう御前試合で、その三日後にフィルはここを出て行く。
窓枠に背を預けながら、フィルは自室を見渡した。
外の明るい日差しとの対比で、部屋の中は薄暗く見える。自分の側の机や本棚、クローゼットはほとんど片付けられて、寂しくなっていた。
性別と素性を隠して、怯えながら、この部屋に足を踏み入れた日から、三年近くが経とうとしている。
あの日から、ここがフィルの居場所になった。そして、そこにはいつもアレックスがいて……――だが、今はそうではない。
「……」
フィルは逃げるように、窓の外へと顔を向けた。
あの朝ここで別れてから、アレックスと一緒に過ごす時間はあまり無かった。
フィルはフィルで準備に忙しかったし、彼は彼で、今なお兄のため――というよりむしろ私のためかもしれない……――奔走してくれているらしい。
加えて、それぞれの仕事もあるし、御前試合も近いせいでお互い鍛錬も欠かせないし、さほど時間があるわけもなく……。
「……」
フィルは長々と息を吐き出した。
自分でもわかっている。いい訳だ、これは。
(本当は……)
「呆れた。本当に行く気なんだ。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、いつも上を行くよね」
背後から憎たらしい声が響いた。フィルはもう一度息を吐き出す。確認するまでもない声の主は、我らがカザックの王太子殿下だ。
「……ノックくらいしませんか」
「必要性を感じない」
いつものごとく突然訪れ、勝手に部屋に入ってきたフェルドリックは、振り返ったフィルにしれっと言い放つ。
そして、「あ、やっぱりアレックス、帰ってないんだ」と呟いた。
「……」
胸が小さく軋む。
「お茶をご用意します。お好きに寛いでいてください」
それを悟られたくなくて、フィルは茶を淹れるために、窓辺から離れた。
だが、フィルの机の上の地図を眺めているフェルドリックとすれ違った直後、彼から投げられた言葉に、フィルは足を止めた。
「それにしても、余裕、だよね」
棘と毒を含んだ声――背筋に冷たい汗が流れた。
「なんのことでしょう」
アレックスのベッドの上に、身を投げ出すように腰掛けたフェルドリックを、ゆっくりと、不自然ではないように振り返った。
だが、敏い彼はフィルの声の震えに気付いたらしい。残酷な微笑を顔に浮かべた。そんな顔をしていても、彼は神々しいまでに美しい。
「もちろんアレックスのことだよ。彼を狙っているの、ニステイス伯爵家だけだとでも思っているわけ? コイストム侯爵家、ベンドッテン伯爵家、オンソルス伯爵家、カリフア子爵家、婿入りを願う有力なところだけでこれだけある」
フェルドリックは長い指を折りつつ、いちいち数えあげた。その手の向こうで、フィルを見すえている目は、まったく笑っていない。
「……」
呼吸が浅く、速くなっていくのがわかって、フィルは無意識に胸を抑える。
「何も貴族だけじゃない。あの容姿に加えて騎士団の出世頭で、将来団長間違いなし――爵位が無くたって構わないって女性は無数だよね」
「……」
戦慄き出そうとする唇を、ぎっと噛んで止める。だが、顔から血の気が引くのまでは止められなかった。
フェルドリックは、そんなフィルを見て、皮肉な笑いを浮かべた。
ベッドから立ち上がり、立ちつくすフィルのほうへと、ゆっくりと歩いてくる。
「少々放置したところで、アレックスが自分以外を選ぶはずが無いって? ずっと想われ続けてきた余裕ってやつ?」
「……」
否定しようとして、フィルは口をつぐんだ。
否定すれば、自分にとってもっと都合の悪い事実と向き合わなくてはいけなくなる――。
口内と喉が干上がっていく。
そんなフィルにフェルドリックは「本当、残酷だよね」と言った後、その言葉そのものの顔で微笑んだ。
「まさかとは思うけど……この先も彼の気持ちが変わらないなんて、本気で思っているの」
「っ」
(ああ、そうだ、この人はいつもこうだ、いつも私が一番触れられたくないところを――)
「自分を放って、兄のために帰ってこられるかもわからないような外国に行っちゃおうって女だよ、君は。いい加減愛想が尽きてもおかしくないと思わない?」
――ヤメテ
「仮にアレックスがそうじゃなかったとしても、周囲は放ってはおかないよ」
――キキタクナイ
「まあ、フォルデリーク公爵家に強制できるような家はそう無いけれど、それでもゼロじゃない。例えば、僕がアレンジしたっていいんだ。ナシュアナの相手にするにもアレックスは結構いいよね」
――タノムカラ
目の前の、美しい緑と金の瞳の主は、フィルの反応などどうでもいいというように、矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
聞きたくないと思うのに、それらは頭の中に直接流れ込んできて、体をえぐっていく。
「ああ、そうか。君自身、もうアレックスはいらないとか」
「っ! 違うっ」
だが、続けられた言葉に、フィルは硬直を解いた。強く否定する。
「それだけは違うっ」
この先何があっても、自分は一生アレックスを愛しているだろう、そんな不思議な、でもフィルの中では既に当たり前になってしまった確信がある。この先彼以上に想う人には絶対に出会えない。
だから、ちゃんと戻ってくるから、自分を待っていて欲しい。誰のものにもならないで、自分の、自分だけのアレックスでいて欲しい。
「絶対に、違う……」
でも、フェルドリックの言うとおりだ。自分の勝手でアレックスを置いていこうとしているフィルに、そんなことを望む資格はない――そう思った瞬間、声がしぼんだ。
フィルがアレックスをここのところ避け続けていた理由はこれだ。資格がないとわかっているのに、彼の顔を見てしまったら、みっともなく狡賢く縋ってしまいそうだったからだ。
しかもそれだけじゃない――。
「……」
フィルは泣き出しそうになるのを全力で抑え、フェルドリックを睨みつけた。
だが、フェルドリックは「ふうん、君はそうなんだ」と言いながら、半眼で笑う。
そして、次の瞬間フィルがこれまで見たことのない、酷薄な表情を見せた。
「……っ」
彼のその表情に、フィル自身避け続けていた、とある事実すらも、彼が既に知っていることを悟って、フィルは顔色を失った。
「けど……アレックスは?」
「っ」
全身が悲鳴を上げる。
「ねえ、彼は、君のその話を聞いて、」
「フェルドリックっ」
なんとしてもさえぎりたくて、フィルは初めて彼の名を呼んだ。だが、彼はそれに薄ら笑いで応じてきた。
「それ以上口を開くな……っ」
咎められること、そしてそれで話が止まることを期待して、ありえないほどの無礼を口にする。
なのに、彼はそれにすら笑いを深めた。
「――君の帰りを待っている、と一言でも言ったかい?」
「っ!」
見ない振りし続けていた事実をはっきり言葉にされた瞬間、自分の中の何かが粉々に砕ける音がした。




