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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第20章 挑む
304/311

20-8.映帯

 そろそろ東の空が白み始める。

 夜の色が残る薄暗い部屋の中、フィルはアレックスの腕の中から、彼の寝顔を見つめる。

 長い睫に縁取られた、切れ長の目はきっちり閉じられて、その中の青く美しい輝きを隠してしまっている。

(少し白くなった、かな……)

 第二十小隊への異動後、屋外での仕事が減っているせいだろうか。

 顔にかかっていた漆黒の髪をそっとかき上げ、頬を指で撫でてみれば、彼は眉を顰めた。幼く見えるその顔に、思わず微笑をもらす。

「……」

 彼を撫でていた腕を引っ込めようとした瞬間、二の腕の内側につけられた赤い斑点が視界に入った。

『フィルが俺のものだという証拠――俺以外の誰にも見せないで』

 この印を見るたびに、いつだったかのアレックスの言葉を思い出してしまい、一人真っ赤になる。

「……」

 視線を自らの体に向ければ、同じ印が胸元から太もものうちにいたるまで、全身を覆うように付けられている。

 自分の上に覆いかぶさり、彼の赤い舌と唇が、白い肌を愛撫していった昨夜の光景。

 いつも以上に激しく与えられる強烈な快感に翻弄されて、少しで良いから止まってほしくて懇願を口にすれば、獣めいた色を帯びた、青い視線が近づいてきた。そして、深くて執拗な、でも優しい口付けを受けて、さらに意識が朦朧となっていった。

 与え続けられる甘い刺激に、堪えようと思うのに口から嬌声が零れる。

 尖った胸の頂を食み、水音を立てて下肢の付け根をさぐっていた彼が、濡れた指を見せ、「……気持ち良い、フィル?」と耳朶に囁きかけてきた時ですら、羞恥を覚える間もなく肯定を返してしまった。喉の奥で笑った彼が、濡れて光る指を見せ付けるかのように舐めあげていく、その向こうで自分をじっと射抜く碧玉の強さに、さらに体が熱を帯びた。

 当たり前のように、自分の内に彼を受け入れる。繋がっている場所から一緒に溶けていってしまう様な感覚に、自分と彼の体の境界を見失って、場所も、時間も、重力の方向さえわからなくなってしまうような熱に溺れる。

 自分が自分でなくなる感覚が怖いとも思うのに、何度も何度もアレックスに求められ、それに陶酔感を覚え、要求されるまま彼を求め返す。

 それがすごく幸せで……――だが、それが許されるのは、一緒にいられる間だけだ。


「アレックス、アレク……」

 小声で、大事な、大事な名前を呼ぶ。

 ずっと会いたくて仕方のなかった人。ようやく会えてからは、愛しくて仕方なくなった、フィルの大切な、大切な人――だからこそ、話をしなくてはならない。


 まだ目覚めない彼の頬に、口付けを落とす。

 いつも彼がフィルにするように、額にも、目蓋にも、唇にも、無数のキスを落としていたら、胸が締めつけられるような感覚が生まれた。

 好きだと全身が訴えてくるような気がして、涙が零れる。

(どうしよう、泣きたいくらいに好きだ。もう、どうしようもなく彼に溺れてしまっている――)

「……ん、フィル?」

 瞼が開いた。恋焦がれてきた深い青色の瞳がフィルの姿を映す。

 ごめんなさい、起こしてしまって。

 そう言うべきなのに、今、口を開いたら泣きそうな気がして、フィルはその言葉をのみ込んだ。

「アレックス……」

 代わりに、彼の名を呼ぶ。

 いつもは落ち着きを運んでくるその音が、今日は胸に突き刺さった。


 小さく眉根を寄せたアレックスを前に、フィルはゆっくりと呼吸をする。なんとか笑い顔を作ると、口を開いた。

「ミドガルドに行ってこようと思います」

 言おうと決めていた言葉は、薄暗い、静かな部屋の中で思いの他大きく響いた。

「兄さまの薬というか、その材料となる植物の種子が欲しいんです。彼の命が他人に弄ばれている今の状況は耐え難いですし、他の人たち、なんにも知らない人たちがザルアナックとかロンデールとか、そういうのに巻き込まれて人生を狂わされていくのも、もう嫌なんです。だから、ちょっと行ってきます」

 悲壮な響きにならないよう、フィルはできるだけ明るく、早口で話した。笑顔が引きつっているだろうという自覚はあったけれど、そうしていないと泣き出してしまいそうだった。

「……」

 無言のままそんなフィルを見つめていたアレックスは、長く息を吐き出すと、身を起こした。静かに口を開く。

「俺の実家の事情――公爵位を持つ者とそれに血を連ねる者はカザック国境を越えられないということを知っているか」

 無表情に出された問いに、フィルは息を殺す。

 昔、ザルアの別邸に遊びに来たアド爺さまが、「アルが公爵、そうでなくても侯爵ぐらいになってくれていればもっと楽だったのに」と愚痴るたびに、祖父が笑いながら言い返していた。「気軽に山越えもできないような身の上は死んでも嫌だ」と。

 先の王権下の高位貴族たちが、事あるごとに外国と接触し、この国への介入を招いていたことが原因らしく、ロンデール公爵家などを見ているとその取り決めの意味も分かる気がするのだが……。

「知っています」

 そう頷いて同様に身を起こせば、温まっていた素肌が入り込んできた空気に急速に冷えていった。体の芯へと寒気が広がっていく。


 外では、小鳥たちがささやくように朝の歌をさえずり始めた。

「……」

 アレックスの青い瞳が、明るくなってきた窓の外の明かりに、透き通った輝きを見せた。だが、いつものように綺麗なそれには、今なんの感情も映っていない。


「――で?」

「……え?」

 不意に投げかけられた言葉に、フィルは完全に虚をつかれた。

「……」

 青い、底の見えない瞳が、じっと自分を見つめている。

 その視線に、色々考えてその上で心の奥底に封印した感情が揺り動かされる気がして、フィルは慌てて顔を伏せた。


『フィル、愛している』

 昨日彼に抱かれながら何度も囁かれた言葉が甦って、フィルは唇をぎゅっと噛む。

 同じだ――フィルもアレックスが好きだ。

 好きすぎて、彼を傍らに感じられない生活なんて、人生なんて考えられない。だから、本音をさらすことが許されるなら、彼とここでずっと一緒にいたい、一瞬でも離れるなんて嫌だ。

 そして、信じられないくらい幸せなことだと思うけれど、アレックスもずっとそう言ってくれている。

 けれど、兄も父も苦しんでいて、他の人もそれに巻き込まれていて、自分は多分それをどうにかできる。そういう状況で何もしないのは、と思ってしまう。

 だが、そうすれば自分とアレックスは、一緒にいられなくなるわけで……。

(結局私は一番大事にすべき人に、最悪にわがままな、ひどいことをしようとしている……)

 そんな自分に、彼に対して何かを望む権利は、もうないのではないかと思う。というか、どの面を下げて、自分の望みを口にできるというのだ。

「『で?』と言われても……」

 それだけじゃない、責められてもまったく不思議じゃない。逆にアレックスにはその権利があるのだから。


「……」

 罵りや非難の言葉を覚悟して、身を縮めたフィルの頭上で、また彼が長く息を吐き出した。

 窓越しに、動き出した街の朝の賑わいが伝わってきて、重い沈黙の中に響く。

「……わかった。好きにするといい」

 アレックスはそれだけを口にして、寝台から足を下した。

「……」

 鍛えられた筋肉に覆われた背に、拒絶が見えるのは多分気のせいではないのだろう。フィルは視線を伏せる。

 彼は黙ったまま制服を身にまとい、部屋から出て行った。



 * * *



「退団……?」

「はい。勝手な話でご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありません」

 騎士団長室の奥に据えられた机に座るコレクト団長に、フィルは頭を下げた。

 脇には、フィルの所属先の隊長であるウェズが不機嫌そのものの様相で立っていて、その隣ではポトマック副団長が渋面を作っていた。


 隣の大陸に行くことに決めたフィルが次にすべきは、騎士団に退団を願い出て正式に受理されることだった。

 騎士という肩書きを持った者には必要不可欠なことだ。それが無ければ、「逃亡」とみなされてお尋ね者になってしまうから、出国後カザックに戻ってくるために欠かせない。

 そう思って、最初ウェズに退団を申し出たが、まったく取り合ってもらえなかった。食い下がったら、ようやく本気だと理解されたが、今度は怒られて話にならなくて、ポトマック副団長の元へ連れて行かれ、そこでも許可が下りず、最終的にこうしてコレクト団長の元へと連れてこられた。


「理由はラーナック殿の件か」

 侯爵でもあるという団長は、その辺の事情を知っていたらしい。眉間に深くしわを寄せた。

「はい、西大陸に行ってきます」

 フィルの答えに団長は深く溜め息をつき、丸々とした身体を窮屈そうに動かして椅子の背へともたれかかった。

「ザルアナック伯爵は承知の上か?」

「いいえ」

「ディラン、それは――」

「もう決めました。私であれば可能です。ならば、人に任せて待つだけというのは性に合いません」

「……どうしても、か」

「はい」

 彼は口を幼子のように尖らせると、天井を仰いで目を瞑った。

 それから、さらに背を反らして、背後に掲げられている祖父の肖像画を見、再度息を吐き出した。

「前に前に進んでいくところも頑固なところも、本当にそっくりだな……」

 なんですぐ気がつかなかったかなあ、私はやはり鈍いのかなあ、と独り言のようにぼやき始める。

「もし、アルさんが生きていても同じことをすると思うが……」

 彼が視線を移した先の副団長も、しかめっ面のまま頷いた。

(アルさん……って爺さま……)

 フィルは眉を跳ね上げた。

 意外な呼び名だった。祖父はこの人にそんなふうに呼ばれていたのだろうか?


「その、フォルデリークは知っているのか……?」

「……はい」

 聞きにくそうにアレックスについて訊ねてきた彼に、フィルは顔を伏せた。

 その話をした後のアレックスを思い起こして、唇を引き結ぶ――彼のあの様子は、怒っているとか、呆れているとか、そんなわかりやすいものではなかった。

 ウェズ小隊長が「あの馬鹿」といつになく低い声で呟くのが聞こえてきたし、ポトマック副団長の視線が自分に突き刺さっているのも感じたから、余計顔を上げられなかった。


 フィルは兄を諦められない。

 兄は昔からフィルにとても優しかった。その優しさには何か影があるような気もしていたが、先日その理由も知った。

 気にしなくて良いのに、彼のせいじゃないのに、むしろフィルのせいだと思うのに、彼は彼で、家族としてフィルと一緒に暮らしてこなかった自分を責めていたらしい。それを知ったら、ますます諦められないと思った。

 だから、彼の命はもちろん、彼が他人にその人生を道具扱いされて、軽んじられることにも耐えられない。

 父たちも同様に彼が大事なのだろう、彼のために苦しみ、色々手を打ってきたようだ。

 そして、それに様々な人たちが関わり、巻き込まれ、傷ついていく。その人たちにも、その人たちを大事に思う私や父のような人たちがいるはずなのに。

 もうこれ以上誰かが苦しむのはたくさんだと思うから、自分は自分のできることをしようと思った。それがミドガルド行きだった。

 だが、そうなるとフィルはアレックスと離れなければいけない。どうしても離れたくないと思っている人なのに。

 わがままを承知の上で本音を言えば、アレックスに一緒に来て欲しいと思う。狂おしいくらいにそう願ってしまう。

 でも、理性がそれを咎める。

 それは最悪なわがままだ、と、彼には彼の生活と大事な家族があって、その上ここでこんなに多くの人に必要とされているのに、自分の都合で振り回す気か、と。

 ただでさえ公爵の身内である彼は、国外に出られぬよう、縛りをかけられているというのに、彼に罪を犯させる気か、と。


 それ以上を口にしないフィルに微妙に顔を歪ませ、団長も再び黙り込んでしまった。

 視界の隅に入るウェズの眉間のしわが一際深くなる。

 騎士団本館の最上階に、鍛練場の声が小さく届いてきた。なんだかすごく遠い気がした。


 コレクト団長は長息を五回ほど繰り返した後、やっとその口を開いた。

「御前試合の後だ。代表にまで選ばれておきながら出ない、では、誰も納得せん」

「承知いたしました」

「団長!」

「それから、そうだな、退団の旨、誰にも告げぬように」

「はい」

 元よりそのつもりだ。


 ウェズが「本気ですか?」と団長に詰め寄るのを、フィルは居心地悪く見つめた。

「そう怒るな、シェイアス。駄目だと言いたいところだが、ディランのこの性格、加えてアルさんの血を引いてるんだ。言ったところできかんだろうし、そんな孫を強制してどうこうしようものなら、誰にと言わずとも切り殺されそうだし……」

 苦笑いしながら呟く団長に、フィルは目をみはる。

 正直に言えば、フィルは彼が少し苦手だった。でも、祖父は多分この人を結構気に入っていたのだろうと、彼の口調から悟る。


 ウェズがむっとして口を噤んだ。そして、怒りを隠そうともしない荒々しい所作で古い扉を押し開き、部屋を出て行く。

 鉄面皮で名高いポトマック副団長は副団長で、フィルを見、怒っているような、心配しているような複雑な表情をしている。


(……本当にいい人たちだ)

 そのすべてに、フィルは泣き笑いをこぼした。

 十六で不安とともにやってきたフィルを受け入れてくれた大切な場所――西大陸から無事帰って来られたとしても、フィルの居場所はもうここになくなってしまうけれど。


「ありがとうございました」

 フィルは浮かんだ感傷を振り払うように深々と頭を下げ、団長室を後にした。

 石造りの廊下を照らす、窓からの光には、かすかに春の気配が見えている。


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