20-7.距離
「……」
その日の仕事を終えたフィルは、騎士団宿舎の自室から窓の外の光景を見つめる。
冬の夕暮れは早い。傍らの大きな木の向こうに見える、真っ赤に染まった空には、分厚い雪雲が黒々とした影を成している。
その下では、ぽつぽつと明かりの点り出した家々が、視界の端から端まで広がっていた。
信じられないくらい大きいこの街の中には、その大きさに相応しくたくさんの人がいて、それぞれの人がそれぞれの人生を抱えて生きている――フィルの故郷のザルアとはまったく違う種類だけど、やはり美しい光景だと思う。
ドアの開く音に、フィルは背後を振り返った。
「ただいま、フィル」
低い、よく響く声は、いつもそう呼びかけてくれる。なぜだろう、彼の声で呼ばれる度、自分の名が愛しくなる。部屋の入り口に、長い足がさしかかった。
「……おかえりなさい、アレックス」
いつも彼は、フィルのそんな当たり前の返事に、嬉しそうに目元を緩めてくれる。
だが、今日この瞬間も彼がその顔をしてくれているか、確認する勇気はない。
フィルは視線をアレックスの胸あたりにすえたまま、窓辺から離れて、彼へと近寄った。緊張のせいか、口内に唾液が溜まっている。フィルは彼に気づかれないよう、それを静かに飲み込んだ。
「今日はウェイン氏の召集はないのか?」
「はい、昨日たまになら休んでいいと……今日大雪になるかと思ったんですが、晴れてしまいました。だからきっと明日、今日の分までこき使われるんだと覚悟してます」
フィルの答えに、アレックスがくすりと笑って、部屋へと入ってきた。
目の前までやって来た彼の体躯は、ただでさえ大きい上に、徹底的に鍛え抜かれた人のもので、圧倒的な存在感がある。
「……」
(もし彼が本気になって、私の自由や生死を奪おうと思ったら、勝てるだろうか)
彼が上着をぬぎ、クローゼットにかけるのを見ながら、そんなことをふと考えて、フィルは苦笑した。
きっと“普通”の女の子は、こんなことを考えない。
(もっとも私の考えることは、そんなことばかりだけど)
「だが、ミドガルドに何十年もいた人なのだろう? 俺も一度会ってみたいな」
「……え? ええと、会いたい……って、彼に? え、えええええと、まあ、い、いずれ」
アレックスには、ウェインのことを『兄ラーナックの治療法が無いか聞きに行って、その都合で手伝いをすることになった』『色々教えてもらっている』と話した。
まさか隣の大陸にまで留学した人物が、ああも怪しい上に、奇天烈な人だとは思わないようで(予想できたらそれこそ怖い)、特に不審がられることもなかった。
――もっとも、彼は彼で何か考えていることがあって、それどころではないのかもしれないが。
「?」
歯切れの悪い答えを返したフィルを不審に思ったのだろう、アレックスがちらりとこちらを見る。
青い影の忍び込む部屋の中で、彼の瞳が色合いを深めている。
「……」
その目を見た瞬間、胸をつかれた。大好きな色だ。もう十年も、ずっとずっと、この色を追ってきた。
「え、えと、アレックスこそ、今日は実家のほうはいいんですか?」
「……ああ」
取り繕うための言葉に、クローゼットを閉める彼の動きが一瞬止まった。が、すぐ何事もなかったかのように動き出す。
「……」
斜め後ろからうかがえるその表情には、これまで見たことのないぎこちなさがあった。考えなしにそんな話題を口にしたことに、後悔が湧き上がる。
「じゃあ、一緒に鍛錬場に出るか? 御前試合も近いことだし、久々に二人で手合わせでもす……」
一度腰から外した剣を再び手にしたアレックスは、フィルがその大きな背に身を寄せた瞬間、全身を硬直させた。
「……フィル?」
硬い腹部へと両の腕を回し、シャツ越しにアレックスの背へと顔を押し付ければ、ここ数年ですっかり馴染んだ香りが鼻腔に届いた。
「どうした……?」
「……」
返事の代わりに腕に力を込めれば、彼の手がフィルの手に重なった。身を捩ったアレックスに、緩く、けれど力強く抱き寄せられ、同時に顎に手がかかる。彼の吐息が唇にあたって、フィルは体を震わせた。
期待通り唇が重ねられる。
角度を変えながら、彼の舌が焦らすように、唇を舐めては啄ばむ。そして、奥深く、口内に入ってきた。
「っ」
熱い塊が口蓋を撫でた瞬間、全身にしびれが走った。
そのまま続く刺激に、フィルはひざを震わせて、アレックスにすがりつく。彼の長い腕が腰を支えてくれなければ、立っていることも危ういのではないかと思う。
湿った水音が隠微な響きを帯びて、室内に広がっていく。
「ふ、ぁ……」
「フィル……」
乱れていっているのは、フィルの呼吸だけではない。湿って敏感になった唇にあたる、彼の激しい息遣いに、体の中心が熱を帯び、潤みが生まれてくる。
自分の体なのに、彼から与えられる刺激でコントロールが効かなくなる。脳がしびれて、重力の方向が分からなくなって、彼の思うままにされる。それが怖くて、身も舌も彼から逃げようとしてしまう――普段なら。
朦朧とし始める意識の中で、促されるままに自らの舌をアレックスのものへと寄せれば、それは一瞬動きを止めた。
「っ」
が、すぐに激しく動き出し、歯列や歯ぐき、口蓋をあますところなく撫で上げていく。舌が舌に絡みつき、吸いとられては、刷り上げられる。
後頭部を押さえられ、何度も角度を変えて、そのたびに結合は深められた。
どちらの物ともつかない体液が、顎へとこぼれていくのに、それを止めることもできない。
「……?」
顔が離れた。
右の親指で下唇を撫でられて、顎を持ち上げられ、「目を開けて……」という声が直接鼓膜に届いた。
「……」
「……」
目の前に、美しい、深い青の瞳。
だが、しばらくしてそこに逡巡と苦味が混ざり、同じ場所に映っていたフィルの姿は掻き消えた。
直後に、フィルを包んでいたアレックスの体の温もりが消える。
「アレックス……?」
「……いや、久しぶりに二人でゆっくりできそうだし、訓練じゃなくても、外に出て食事したりしないか?」
一歩離れ、彼はこれまで一度も見せたことのない顔でぎこちなく笑った。
「……」
思わず眉根を寄せれば、彼はそれに気づいたのだろう、すぐにその表情を消し、にっと笑って、また距離を詰めてきた。
「最近たまに帰っては、フィルを夕方から朝まで抱いているだろう。それだけが目的かと思われるのは不本意なんだ。それとも……――誘っている?」
「え、ええと、」
「俺としては大歓迎だが」
からかうようにフィルの顔を覗き込んでくる目は、いたずらを仕掛けてくるときもの。
「さそ、う……っ、さささ誘うって」
言葉の意味を理解した瞬間、フィルは真っ赤になった。
アレックスはそんなフィルに、音を立てて吹き出す。
「うー、またからかった……」
「悪い」
だが、そう言いながら笑い続ける彼への抗議の言葉は、出てこなかった。
それどころか、すとんと納得してしまった。そうか、アレックスの言うとおりだ――彼が欲しいのだ、自分は。
「……」
納得の一方で、彼に溺れていることを警告する音が、頭の中に鳴り響く。彼無しにいられなくなっている、いい加減にしないと、と。それなのに……――。
「……?」
今度はアレックスが怪訝な顔をした。
フィルはその視線から逃れたくて、俯く。
「……そう、なんだと思います」
「っ」
静まり返った室内にフィルの小声と彼が息をのむ音が、大きく反響した。
「……なら、もう容赦の必要はないな」
フィルにとってひどく長く感じられた沈黙を破ったのは、低い、何かを押し殺したような声だった。
「っ」
同時にフィルの全身は、息もできないほどの強さで、アレックスの長躯へと包み込まれる。
ひたむきで、いつになく荒々しいキスの後に押し倒されたベッドの上。自分に覆いかぶさる彼から向けられる、憎しみに程近いような、激情を含んだ視線。闇の中でも鮮烈なそれに射貫かれる。
「……」
フィルは全身を震わせると、瞳をぎゅっと閉じた。
「あ……」
だが、体の硬直は、先ほどの言葉どおりにフィルの全身に触れる彼の指と舌、自身の動きに乱されて、掻き消えていく。最奥で感じる彼の感触がひどく熱い。




