20-6.延焼
「あきらかに不審がってたよね……」
情報料として労働を提供することになったフィルが、あの危険な異空間を整理するべくお化け屋敷、もといウェイン宅に通うようになって既に六日――ついにアレックスに勘付かれてしまった。
「うう、また顔引きつってた……」
大事で大好きな人にあんな顔をされるというのも大概情けない気がするが、深刻な問題は他にもある。
「まずい、また迷惑かけることになるかも」
フィルは、おんぼろかつ散らかり放題、その上埃だらけの邸の一室で、はたきを手に冷や汗を流す。
そのウェインだが、当初の印象や見た目ほど悪い人ではない気がする。多分、だが。加えて言うなら、思っていたより年若く、五十に手が届くか届かないかぐらいだと思う。
最初の患者こそあんなふうだったが、彼は善良な人々には結構普通だ。お金に困っている人には、その人が払える限りで診療してやることもあるようだし、泣き喚く子どもだって面倒くさがらずに診察している。
あの麻薬になる植物にしたって、おかしなことに使っているわけではなく、本当に麻酔に用いているようだ。
ちなみに、ごろつき兄弟の兄、ヤイムに麻酔を使わなかった理由は、あの怪我が「彼の自業自得」で、「そんな奴のためにあの植物を使うのは、もったいない」からだそうだ。それはそうかもしれないが、その考えを、(当時は)ただの通りすがりだったフィルを巻き込んで実行するウェインは、やっぱり何かがおかしいと思う。
だが、そんなふうでありつつも、彼はフィルが邸内の整理の傍らに訊ねる質問にも、いちいち親切に答えてくれる。
……その分、情報料=労働時間が加算されていくのは、激しく勘弁して欲しいのだけれど。
そう、問題は邸のおどろおどろしさでもなんでもなく、あの邪悪さだ。
フィル史上最凶のフェルドリックと並ぶと思うが、ウェインの方が歳を食ってる分だけ狡猾巧妙な気がする。
ついでに、完全無欠のアル中であることも確かだ。いっつも酒のボトルを抱えている。
「!!」
考え事をしていたせいで、本の雪崩に巻き込まれた。
「不覚……本の角って痛い」
フィルは崩れた、古今東西様々な本の山から這い出すと、窓の外、ベランダの鉢に植えられた、問題の植物を見た。
王都下町の家々の天辺だけを赤く照らしていた夕焼けが、地平の向こうに消えていく。その最後の光を受けて、その草は黄金色に輝いていた。
あの草は生成すれば、たちの悪い麻薬になる。タイプは違うけれど、以前問題なった「天使の息吹」と同じで、製造を見つかれば極刑にもなりうる第一種指定のものだ。
あれを麻酔にする方法があるなんてフィルは知らなかったし、たぶんカザレナの誰も知らないと思う。その事実だけをとっても、ウェインは本当にミドガルドにいたのだろう。
フィルはため息をついた。
もし、アレックスがあれを知ったらどうするだろう?
彼のことだ、見逃してくれる気もする。が、見逃したことがわかったら、騎士としてのアレックスの立場は、とてもまずいものになるだろう。
(そんなことを言ったら、私こそ既にどうしようもなくまずい状況にいるわけだけど……)
『おい、弟子』
「で、弟子入りした覚えはあんまりないような……」
眉尻と口角を下げてはかなく抵抗しつつ、フィルは部屋の入り口を振り返った。
目が合ったウェインは、ふん、と鼻を鳴らす。
『つまらないこと言ってないで仕事だ――飯』
「む」
『昨日みたいなおかしな物体作るなよ』
「ぐ。で、でも食べられたんだから、いいじゃないですか」
おなかが空いたと言うから、調理時間は短い方がいいかと考えて、細かく細かく材料を切り刻んだ。結果、出来上がったシチューは、形容し難い色のドロドロの液体状だったけど、味は普通だった。
いや、争点はそこではなく。
この際フィルの頭の上に降り積もったクモの巣でもなければ、眉間にひびが入って余計恐ろしげなお面持ちになって、フィルの目の前に転がっているヒュドラの剥製でも、「拷問大全」とか「毒殺事典」などというタイトルの本でもない。
「というか、なんで西方語なんですか」
『嫌がらせ』
「……」
欠片の躊躇もない、しかも真顔そのものでの答えに、フィルは顔を引きつらせた。
フェルドリックのようにきらきら笑顔でそんな答えを返してくるのもどうかと思うが、真顔は真顔で邪悪だ、邪悪すぎる。
『不満か? だが、勉強しておくに越したことはないだろう、お前の場合は特に』
(――見透かされている)
フィルは眉間にしわを寄せた。
そもそも、彼が思いついたかのように話をしてくれる話は、西大陸の地理やそこに至るルート、政情、文化、風俗などだ。
口を尖らせながら、顔についた煤をごしごしと手の甲で拭いて、フィルは下の台所へと向かった。
『ちゃんと食べ物の見た目になるように調理しろよ。元は正真正銘の食べ物だったものを、どうやったらあんな奇怪な見てくれにできるんだ。奇怪なのはお前自身だけで十分だ』
――こうでなければ、ただ感謝して終われるんだけど。というか、ウェインにだけは奇怪などと言われる筋合いはない。
* * *
「フィル? 偶然だね」
ウェインへの労働奉仕から解放され、貧民街を抜けようかという界隈で、目の前を行きすぎた、地味だが質のいい馬車の中から、声がかかった。
「ゼドゥさん」
ヘンリックによく似た背格好の彼は、身軽に馬車から降りると、「うぅ、風が冷たい」と言いながら、外套の襟を寄せた。
当たり前のようにフィルの横に並んで歩き始める。
「今日御前試合の選考会があったんだって?」
違和感に首をひねりながら、フィルは頷いた。
実を言えば、今日の朝、アレックスに言われるまですっかり忘れていた。
前夜さっさと片付けを終わらせてしまおうと、徹夜で大量の本や資料を運んでウェイン邸中を往復していたせいで、疲労困憊。当然集中も途切れがちで、あちこちに負わなくていいはずの傷を負い、相手にも負わせてしまったように思う。あんな状態で勝ち残れたのは運が良かったからとしか言いようがない。
傍で見ていたポトマック副団長から怒気が流れてきて、本当に怖かった。祖父が見ても絶対にあんな感じになっていたと思うのでなおさらだ。
ちなみに、アレックスも最後まで勝ち残って代表になった。
「……」
その時の様子を思い出して、フィルは黙り込んだ。正直に言えば、フィルはそれにひどく驚いた。
いや、彼が勝ち残ったこと自体に驚いたわけではなく、いつの間にあそこまで強くなったのだろう、と思ったのだ。
以前の彼にあった隙が綺麗になくなり、代わりにフィルが見たことのない動きをするようになっていた。力も技術も、以前とは比べ物にならない。
別々に過ごすことが増えて、彼を少し遠く感じていたのが、それで一気に加速した。
「フィル?」
「あ、ええと、そうだ、ヘンリック、いい所までいっていましたよ」
物思いから我に返ってゼドゥに告げれば、彼はそれを聞いて面映そうに、でも喜びを隠し切れないように微笑む――まさに『兄』の顔だった。
「……」
兄のラーナックが、フィルの活躍を聞いて笑う時と同じで、なんだか切なくなった。
その後しばらく他愛ない会話をしながら、フィルは彼と並んで、街を宿舎へと向かって歩く。
時間が経つにつれ、どんどん違和感が膨らんでいく。
「……」
「……」
会話も途切れがちになり、最終的に沈黙が降りた。通りすがりの人々や店からの雑音が途端に大きくなる。
黙り込んだゼドゥが見せている顔は、誰かの痛みを思って自分も苦しく思う表情で、それこそフィルや父などを気遣う兄ラーナックが、よく見せるものと同じだった。
ヘンリックに似ておしゃべりなゼドゥが黙ってしまった理由と、こんな顔をしている理由は……。
(偶然じゃないからだ)
フィルはそっと胃を押さえる。彼は何かよくないことを知らせるために、わざわざあの場所でフィルを待っていた――。
冷たい風が首筋を撫でていく。空を見上げれば、カザレナの明るい街明かりの向こうに、いくつかの星がか弱く瞬いていた。
「……父たちが送っている二つ目の隊商にも、問題が起きたのですね」
意を決して静かに確認したフィルに、ゼドゥのヘンリックに似た面立ちが歪んだ。
「その、なんて言葉をかけたらいいのか……」
「大丈夫です」
笑顔を顔に貼り付けて、「まだ手はあるので」と告げてはみたが、その声は掠れていた。
「大丈夫、もう一つある……」
フィルは視線を伏せ、自分に言い聞かせるように再度呟く。
(デモ、ダイショウモオオキイ……――)
もう一つ、心の内から響いてきた声には気づかないふりをする。
「あ、そうなのか、さすがザルアナック伯爵、やり手と噂なだけあるね。それから、その、まだそんな顔をしないで。その隊商の件にしたってまだ確定したわけでは、ええと、おそらく確かな情報だとは言ったけれど、過去に間違いが一度もなかったわけではないし」
気を使ってくれたのだろう、ゼドゥが色々言ってくれているが、うまく頭に入ってこない。
「……」
苦痛に耐えるように瞼をぐっと閉じる。その裏に浮かんだのはフィルとそっくりな形の、紫の瞳だ。
直後に、十年以上焦がれ続けてきた、美しい、青い瞳が浮かび上がる。
その深い青を包む切れ長の目が、こちらを捕らえた瞬間に優しく緩む光景を思い出したら、無性に悲しくなった。
あの瞳は、今度はどんな風に自分を見るのだろう……?
(今度は、今度こそは、もしかしたら……――)
ゼドゥに見られまいとフィルは顔を伏せる。
「フィルっ!」
「っ」
突然名を呼ばれた――今まさに思っていた人の声に、心臓が一瞬止まった。
音を立てて顔をあげて、夜の雑踏の中にその姿を探した。
「……っ」
目が合って、彼の名を呼んだつもりだったけれど、声にはならなかった。人を分けて、こちらに近づいてくる彼の顔が、自分を案ずる時のものだとわかったから、余計だった。
せめて物理的な距離だけでもつめたくて、フィルはアレックスへと駆け寄る。
差し出される長く、力強い両腕。その腕がフィルを捕えて、ぐっと彼へと導いてくれる。
「……っ」
息苦しくなるくらい強く抱きしめられて、幸せで、でもそれで余計苦しくなって、フィルも彼に抱きつく。
伝わってくる彼の温かみと香りに鼻の奥がつんとし始めた。
「フィル? ……どうした」
上体をそらし気味にして、アレックスが顔を覗き込んでくる。フィルは彼に顔を押し付けたまま、ただ首を振った。
「――何をされた」
押し殺したような響きの声が、直接体に伝わってきた。
「っ、ご、誤解だ、私のせいじゃないっ」
続いた、ゼドゥの焦り声に、フィルははっとして顔をあげた。
「アレックス、あの人はヘンリックのお兄さんのゼドゥさんで、何も悪くなくて……」
だが、言葉の末尾が力なく消えていく。そのせいか、アレックスがゼドゥへと向ける視線をさらに尖らせた。
「いや、だから誤解っ、本当に何もしてないっ、本当だってっ」
青い顔で首と手を振り続けるゼドゥに、アレックスが口を開く。フィルは彼の注意を自分に向け直すべく、「アレックス、もう知っているかもしれませんが」と呼びかけた。
彼と目が合って、胸に痛みが走る。
「もうひとつの隊商も襲われて……全滅したそうです」
「……」
彼は一瞬ですべての表情を消した。そして、無言のまま、何か知らないものを見るかのように、フィルを見た。




