20-5.小火
フィルの様子がおかしい。いや、おかしいのはいつものことなのだが(失礼は承知だが事実だ……)、挙動不審とでも言ったらいいのか。
……それも珍しくないといえば、その通りなのだが、今回は少々様子が違っている。
目が合うと視線を泳がせる、とても気まずそうに。今まで目を逸らすことはあっても、そんなことはなかったのに、だ。
アレックスはそれにいらつく……というより、恐れを覚えている。
また何かが彼女に起きているという気がするのだ。正確には――彼女が何かをしでかしている気がする、というべきか。
ここ数ヶ月ほど、アレックスは宿舎と実家、ザルアナック家、それから王宮を往復する日々を続けていた。
以前懸念したとおり、ロンデール公爵はやはりおとなしく引っ込みなどしなかった。
かの家は、嫡男ラーナックの薬を盾にして、ザルアナック家に再び法外な要求を出し始めている。
ざっと挙げられるだけでも、ラーナックとロンデール家の縁の娘との縁組、それに伴う莫大な支度金の要求、ザルアナック家が持つ南方貿易の商権の無償譲渡、王権の制約を謳い文句にした、国王並びに王太子廃位制度の整備への協力、騎士団の近衛騎士団への吸収統合への賛同などだ。
いずれもザルアナック家を政治的・経済的に生かさず殺さずのラインまで追い詰める要求だ。実現させることで自家に事を有利に運ぶことが目的ではなく、実現せずともザルアナックには確実にダメージがあるというものであるあたり、ロンデール公爵の性格が如実に出ている。
もちろんそれらを拒むために、こちら側も様々な手段を模索しているのだが、率直に言って旗色は芳しくない。事態を打開しようと駆け回っているのだが、そのせいでアレックスはフィルとの時間を削りに削られている。
幸い、素直なフィルは、アレックスが「実家の用事があって留守にする」といえば、それで納得する。にこりと笑い、あまつさえ「気をつけていってらっしゃい」などとの言葉と共に送り出してくれて、帰ってきた時も「疲れてませんか?」などと気を使ってくれる。
彼女がそんなふうに詮索してこない性格であることに、状況を打破するまでの猶予をもらっていたつもりだったのだが、世の中は、というか、フィルはやはり甘くなかった。
アレックスが、これまで彼女にそういった事情の説明をためらってきた理由は、二つ。
一つは、彼女の家族も他の誰もそれを望まなかったためだ。
フィルの父であるザルアナック伯爵は、「フィリシアにできることなどもう何もない。父に似たのか、シンディに似たのか、あれは馬鹿がつくほどお人よしのようだからな。わざわざ話して聞かせて、気を揉ませる必要はない」と言った。
言葉も仏頂面も相変わらず。けれどその目に浮かんでいたのは、以前のような、自身の思い込みが極度に入った頑なな拒絶ではなく、彼女への純粋な思いやりに見えた。だから余計にそれを無視していいものか迷う。
彼女の兄は兄で、「アレックス、あの子が僕の心配をしてくれるように、僕もあの子が心配なんだよ。あの子はもう十分すぎるくらいしてくれた。これ以上あの子をわずらわせたくないんだ」と言う。
アレックスの父と兄も、前回の件でフィルが大泣きしたというのが、ひどく印象に残っているらしく、フィルに話をしようという考えはないようだ。
もう一つの理由は……考えたくもないことだから、とりあえずおいておく。
もしそれが具現化した時――特に、彼女が自分に対してとる行動によっては――自分が平静でいられるか、アレックスにはまったく自信がない。
だが、フィルの思いを考えると、現状を彼女に説明すべきだとも思うのだ。
以前彼女は、ロンデール公爵家との縁談を秘密にされていたことをひどく悲しんだ。彼女らしいことに、自分を思いやってくれてのことだと考えて、怒りはしなかったが、代わりに泣いた。そして、父親や兄を始め、皆が話をできない状況を作ってきたのは自分だ、と自分を責めた。
今の展望が前回以上に芳しくない今回、彼女が前のように悲しむことになる前に話をすべきだ。アレックスの思いや恐れなど大した問題ではないはずなのだ、彼女があんなふうに嘆く羽目になることに比べれば。
フィルに話をしておくべきだという理由は他にもある。すなわち、フィルにはちゃんとした情報と指示を明確に与えておくほうが被害が少なくてすむという、騎士団幹部の間では既に定着しつつある常識だ。これまでの経験上、フィルには悪いが、個人的にもこれに賛同せざるを得ない。
今回、ロンデール家への対抗策のひとつとして、西大陸に独自に隊商を組んで送っていたのだが、それが襲われて全滅させられた。さらには、念のために送っていた二つ目の隊商も、今現在所在が確認できなくなっている。
それらについて、ロンデール家が自らの関与を匂わせると同時に嘲りと警告を送ってきていて、こちら側は近いうちに何らかの点で、かの家に譲歩せざるを得ない見込みだ。実のところ、ラーナックの薬はもう一年分もないのだそうだ。
状況は確かにひどく、それゆえ話をしたがらないザルアナック伯爵らの考えも分かるのだが、彼らが思うより遙かにフィルは強い。
直感頼りに考えなしで動く時は、フィルはいつだってこちらの予想にないことをしでかすが、こちらがちゃんと説明しさえすれば、現状を受け入れた上で、絶望することもなく必要な行動をとることができるとアレックスは思っている。その行動が自分にとって幸か不幸かはおいておいても、フィルにとって幸せであるのであればそれで良いはずだ。
だから、そういう意味でもフィルに積極的に話をすべきだ――逡巡の末に自身の憂いを振り切って、そう決意したアレックスが、フィルと向き合おうと試み出して既に三日。
「……遅かった、のか……?」
――肝心のその彼女が捕まらない。
一昨日、アレックスが鍛錬場にいるだろうと思って探した時、彼女は既にいなくなっていた。彼女の相方であるミルトによると、彼女は訓練終了と同時に、妙に焦った様子で走っていなくなったらしい。詳しく聞けば、ここ最近ずっとそんな感じらしい。
怪訝に思いながら、部屋で待っていたわけだが、フィルは深夜になってようやく帰ってきた。埃だらけになって、よろよろと。そして、アレックスが呆気にとられる間に湯を浴びに行き、出てくるなり倒れるように眠ってしまった。
その後は声をかけてもつついても、死んだように動かなかった。アレックスのベッドにもぐりこんできて、ぎゅっと抱きついてきた上でのことで、そんなフィルはもちろん可愛かったが、問題は明らかにそこではない。
思い返せば、その数日前からおかしな点はあった。
アレックスはここのところ、終業時刻と同時に宿舎を出、早朝部屋に帰ってきて、出迎えてくれたフィルを抱きしめて数時間だけ寝、また仕事に行くという生活を繰り返していた。
減ったフィルに触れる機会を補うべく、街に出る前にフィルのところに寄り、(人前だろうとなんだろうと)抱擁やキスを試みていたのだが、恥ずかしがって逃げていた彼女が、一昨日ぐらいから拒まなくなった。
願望もあってか、フィルもフィルなりに寂しがってくれているのかもしれないと思っていたのだが……思い返せば、微妙に顔が引きつっていたような気がする。
昨日。やはりフィルは、アレックスが彼女を捕まえる前に部屋に戻ってしまった。こうなると所属する隊が別々になって、訓練や仕事がまったくばらばらになったのはかなり痛い。
彼女を追いかけて一人部屋に戻れば、『今晩は戻りません』との書き置き。
明日は四年に一度の御前試合の代表選考会……何を考えているのだろうか、と思わず遠い目になった。せめて行く先ぐらい書いていけ、と思っても許されるだろう。
フィルのことだから、むろん浮気などではない……と思いたい。
そして今日、一月後に迫った御前試合の代表選考の日。
朝方やはりよれよれで帰ってきたフィルは、「代表選考」とアレックスが口にした瞬間、「あ゛」と呟いて固まった。
……忘れていたらしい。顔にはっきりそう書いてあった。アレックスを含め騎士団の全員、もっと正確に言えば、この大陸で武芸を志す者であれば誰もが、四~五年に一度、カザック王国の建国を祝って開かれる御前試合への栄誉ある出場と、そこでの優勝を目標に、日々鍛錬に励んでいるというのに。
騎士たちが高揚し、活力と気力を漲らせて、始まりの団長挨拶に聞き入る中、こういう時だけ殊更に活き活きとする第一小隊の列に、昨日にましてふらふらになったフィル。
そこで立ったまま寝ていて、ミルトさんに突かれては起きる、を繰り返していたくせに、その後の試合できっちり勝ち残り、代表の座を手にしていた。出来の悪さのせいか、手加減を時折失敗していたせいか、ポトマック副団長に恐ろしい顔をされて、目を泳がせていたが。
そこでアレックスは、二つ以上のことを同時に考えられないフィルの頭が、確実に何事かに囚われていることを確信した。
アレックス自身狙い通り初出場を決めたものの……何が気に入らないかといえば、途中、フィルに近づくと、悪戯を咎められた瞬間の猫の子のような表情と勢いで逃げていったことか。
そして、選考会終了後。
ロデルセンが仕事の、どうでもいいような案件を持って来た隙に、再びフィルに逃げられたようだ。
アレックスが走って戻った時には、部屋は既にもぬけの殻。頭痛がしてきたのは気のせいじゃない。
「一体何をしているんだ、フィル……」
アレックスはうめき声をあげつつ、ヘンリックを捕まえるべく、部屋を出る。
フィルほど顕著ではないが、ここ数日彼もアレックスを視界に入れる度に微妙に緊張していた。
確信する――彼は何かを知っている。




