20-4.飛んで火に入る…
カザレナ南西地区、お化け屋敷……もとい、ウェイン氏(だと思う)の屋敷。とうに日付は変わっているはずだ。
「……」
邸内の地下室で、フィルは血まみれになった自分の全身を眺めて遠い目にする。
先ほどアレックスが今夜宿舎に帰ってくるよう祈ったところだが、今となっては帰っていないことを切実に望んでいる。
遡ること……どれぐらい前の話になるのだろう?
「おい、そこのお前、この男を押さえつけといてくれ」
「は?」
「ほれほれ、早くせんと、死ぬぞ? お前の責任だぞ?」
「へ? え? いや、あ、あれ?」
とにかく、なぜかフィルは反論の余地も暇も隙もなく、怪しげな老人に言われるまま、耳慣れない『シュジュツ』なるものの助手をさせられた。
場所は、怪しい邸のこれまた怪しい物体にあふれた、地下廊下の突き当たりの部屋。そこで、老人はヒビの入ったガラスのランプ複数個に火をともし、古い薬瓶や薬草の入った棚に囲まれた寝台の上に患者を乗せた。そして、薬などを与えることなく、いきなりヤイムの傷口を小さなナイフで切り開いた。
「……」
「お前ら、そいつをしっかり押さえておけ。下手に動かすと、死ぬぞ」
その行為と、さらに体を切られたヤイムの絶叫に唖然としたのも一瞬、フィルは老人にそういわれて、慌ててヤイムを寝台に押さえつけた。
そうして、泣き叫んで暴れに暴れる彼を押さえつけること数時間。フィルの筋肉は、今や痙攣してしまっている。どれだけ厳しい訓練でも経験したことのない症状だ。
フィルが助からないだろうと思ったそのヤイムは、今も寝台の上。限界を超えたのだろう、気を失ったまま、最後の仕上げに老人に肌を縫われている。
(……やっぱり妙な術だ)
その老人を見ながら、フィルは息を吐き出した。
彼がヤイムの傷をさらに広げた時、フィルは「ああ言っていたが、本当は殺す気なのか」とぎょっとした。
だが、そうではなく、彼はヤイムの傷ついた血管や臓器をひん曲がった小さな針のようなもので縫合し、出血を止めていった。
(確かに傷の上から押さえて止まるような出血じゃなかったけど……)
傷を内部の損傷まで含めて、すべて縫うなどという発想は、まったくなかった。ただの酔っ払った老人では、決してできない芸当であることは間違いない。
ちなみに、フィルの傍らでは、暴れたヤイムに殴られて失神したカジムが、兄同様に気を失い、埃だらけの床に顔から倒れこんでいる。
「……」
彼が倒れたせいでフィルが倍苦労したことを思えば、抱え起こしてやろうという気にはならない。
「ところで、お前さんは誰かね?」
純度の高いアルコールで傷口の消毒を終えた老人は、ようやくフィルを意識したらしい。ランプの光を受け、ギラっと瞳が光った。フィルは慌てて立ち上がる。
「私はフィル・ディランと申します。失礼ながら、ウェインさまでいらっしゃいますか?」
カジムは彼のことを『へぼ医者』とか『じじい』としか言っていなかったから、フィルは名乗ると同時に、老人に確認の声をかけた。
「……いかにも」
老人は無言のまま、フィルを頭の天辺から足のつま先までぶしつけに眺め回し、最後にもう一度フィルの顔をじっと見つめた後、しゃがれ声で肯定を返して来た。
「……」
思わず胸を撫で下ろす。この何時間で、一癖も二癖も三癖も四癖もありそうな人だと正直感じていたから、あっさり認めてくれてほっとした。
だが、そのせいでぼさぼさの口髭の中で、唇の端がにやっと動いたことを見逃した――これがフィルにとっての痛恨となる。
「西大陸、特にミドガルドについて、お伺いしたくてこちらに参りました」
そう言って、フィルは懐から襲われた隊商の積荷のリストを出し、ウェインに見せた。
「ほお」
「そのうちの、アロインという薬について知りたいのです」
* * *
血まみれのまま二階の部屋に通されてフィルは再び固まった。廊下や階段の惨状から、ある程度覚悟はしていたが、予想を上回る衝撃だった。
成人男性の背丈二人分ほどの高さの天井、おそらく広いだろうと思われる部屋には、歪な影の柱が何本も林立している。天井際まで積み上げられた本の数々が、背後の暖炉からの光を受けてそう見えているのだが、どれもこれも、崩れないのがいっそ不思議でならない、という絶妙のバランスを保っている。
その柱の合間合間には、濁った暗褐色の液体やこの世のものとも思えない生物のようなものが詰まった瓶、乾燥した植物、何かの骨などが置かれていた。
もちろんそれらの上には埃が堆積し、そこかしこにはクモが巣を張っている。
「かけてろ」
ウェインは器用にも、それらの隙間を縫って奥へ入り込み、フィルにソファらしきものに座るよう促した。
「……」
つまり、そこに積み上げられている本は、自分でどかせということだろう。
積み木崩しでもしているかのような気分で、慎重に空間の確保を試みるフィルの向こうで、ウェインは机の向こうの暖炉にくべられているやかんを手にした。そして、机の引き出しの中(!)からカップを取り出し、そこに茶のようなものを注いだ。
その光景にフィルは、意識が飛びそうになる。
「まあ、飲め」
(……ああ、やっぱり……)
引きつった顔でフィルはそれを受け取り、中の液体を見つめる。
右斜め前では、フィルのそんな反応を気にも留めず、ウェインがどさりとソファに身を落とした。
(……黒い。真っ黒だ。黒すぎる)
手元のカップの中では、暖炉の炎を明かりを受けてなお黒い液面が、揺らいでいる。あまりの色にフィルは目元をピクピクと痙攣させた。
飲食物の色じゃないだろう、これ! と叫び出しそうになるのを堪える自分は、心底偉いと思う。
(ああ、でもいつだったか、アレックスがチョコレートケーキをご馳走してくれた時も似たように考えたっけ)
第一、無理やり押しかけた挙げ句、教えを請おうというのに、せっかくの饗応を「のどは渇いていません」などと拒否する無礼は、きっと祖父が許さない。
祖父の厳しい顔を思い出して、恐怖でこみあげてきた涙をぐっと堪えつつ、フィルはそれに口をつける。
「……お?」
奇妙な味だが、悪くはない。それどころか、香りはかなりいい。
ほっとして息を吐き、にこにこと二口目をフィルは喉に流し込む。
どこからか取り出したアルコールのボトルを再度呷った老人が、横目でその様子をつぶさに観察していたことなど、知る由もないまま。
それから、フィルは訪問に至った事情や兄の病状を説明し始めた。その間ずっと黙って話を聞いていたウェインは、フィルが話し終えるなり、口を開いた。
「お前の兄の病はスタフォード症候群だな。今のところ根治は不可能だ。症状を抑える方法も、お前が気にしているその薬しかない」
「では、やはり西大陸との貿易に頼るしかないのですか……」
フィルは沈鬱に呟いた。
あるいは、ミドガルドでの知識を得た者であれば、何か解決策を知っているかもと期待したのだが。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
ぱっと顔を上げたフィルに、老人は先ほどフィルが渡した積荷のリストの紙を指差した。
「ここに、『ゼームの種子』とあるだろう。例の薬はこれの根を薬効にしている。この大陸にないのはこの植物だ」
隊商がそうと知って持ち帰ろうとしたのかどうかはわからない。だが、つまりその植物さえ手に入れば、兄の薬を作ることができるわけだ。
希望が見えた気がして、フィルは少し表情を緩めた。
父やフィル、アレックスたちフォルデリーク家の人々に負担をかけると、自分を責めるラーナックの暗い顔を思い出す。
この国でその薬が作られるようになれば、彼があんな顔をする必要はなくなるのだ。
(あとはその種子をどう手に入れるか、だ)
「ところでお前、西方語は出来るか?」
「え、あ、はい、読み書きぐらいなら。話すことはあまり……」
唐突にかけられた言葉に、フィルは紙に落としていた視線を上げる。
そして、ウェインの口の端がにいっとつり上ったのを見て、顔から血の気を失った。
(こ、これは……)
危険!と直感が訴え出す。この表情をする人間――中には既に悪魔だと断定した人間もいる――は、『フィルにとって』ろくな人ではない。
「えええええと、いえ、その、こんな時間までお邪魔いたしまして、あ、そうでした、情報ありがとうございました。というわけで、これで失礼を……」
「――五千万」
反射的に腰を浮かせて逃げようとするも失敗した。
というか、今なんと言った……?
「ご、せんまん……?」
「情報料だ」
「え゛っ」
「え、ではない。世の中にただのものなどない」
(ご、ごせんまんキムリ? って、私の月給……じゅ、十年以上?)
真っ青になった。そんな大金あるわけがない。
が、払えない、とは言えない。言えば、今ウェインが手で弄っている、白目をむいたおかしな生物の標本が飛んでくる。間違いない。
「……た、高すぎませんか?」
交渉というか、悪あがきというか、時間稼ぎというか、なんせフィルは痙攣しそうになる頬を必死に抑えて、抗議の声を上げた。
「高いも何も。それならそれで、最初に値段を確認すべきじゃなかったか? しなかったのはお前さんの落ち度であって、わしのではない」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
「ふむ、つまりは、払えん、のだな……?」
「う。い、いや、その……」
額に汗を浮かべたフィルは、ウェインのジト眼を避けて、窓に目をやる。そのひび割れガラスの向こうにあったのは――。
「げ」
そこでフィルは更なる深みに嵌った。
植木鉢に茂っている青々とした草。あの特徴的な葉の形は、禁制の麻薬原料植物だ……。
ウェインからさらなる邪悪な気配を感じて、フィルは固まった。
「……」
顔はそのまま、目だけ横に動かしてウェインをうかがえば、彼は左の顔半分に炎の赤い光を受け、にこやかかつ真っ黒な微笑を顔に浮かべている。
「見たな」
――いいえ、何にも。
そう笑顔で切り返せる胆力と演技力があれば、フィルの人生はまったく違うものになっていたに違いない。
「うー」
フィルは、あまりの事態についにうめき声をあげた。
「払えない代金は、体で返してもらおうか」
「!」
「ちなみに、しゃべるなよ、あの草のことは」
「!」
「まさか、カザックの騎士たる者がしまいな――正当な交渉も契約もなしに聞きたいことだけ聞いて金は払えません、都合が悪いから、権力を持ち出して、麻酔として有用な植物を栽培しているだけの善意ある医者をしょっ引く、などという不正義極まる真似は」
「……」
(……あ、空、白み始めた)
フィルは朝焼けを見つめて逃避しつつ、アレックスが部屋に戻っていないことを真剣に祈る。心配をかけた上、またもやおかしなことに足を突っ込んだらしいです、なんてとてもじゃないが、言えない。
それから、アレックス以外に気になることがもう一つ――『善意ある』ってどんな意味だったっけ?




