20-3.お化け屋敷
王都カザレナの南西のその界隈は、いわゆる貧民街として知られている。
旧王権下よりはずいぶんましになったというが、港や街道から隔絶されていて、今なお健全な活気はないし、治安もいいとはまったく言えない。
よって、女子供が夕刻以降に一人でうろつくような場所ではないが、そこはそれ。騎士であるフィルにとっては、夜間の巡回で来ることも多い、馴染みある場所だ。
だから、それなりに顔見知りもいて、そういう意味で特に困ったりはしないのだが……。
「……ここ、だよね?」
ヘンリックの一番上のお兄さんが教えてくれた、西大陸のミドガルド王国に留学していたという『ウェイン』という人。顔見知りのこの辺の元締めのもとを訪れ、その人について訊ねたのは、つい先ほどの事だ。
「ぅげ。なんだってまた……い、いや、やっぱいい。くわばらくわばら、最凶の組み合わせだ、聞いてもろくなことは起きねえ」
強面な上、ふてぶてしい表情を普段ほとんど崩さない親父は、思いっきり顔をひきつらせた後、首を横に振り、フィルに行き先を指差した。
「……」
その理由を、フィルは今思い知っている。
裏路地の、そのまた裏の裏。なんだかよく分からない生き物の腐乱死体が浮かんでいる真っ黒などぶ川のほとり。
すえた下水の匂いが漂ってくる、陰気なその場所に、大きくて立派な、だが、今にも崩れそうな邸がそびえている。
(一匹、二匹、三匹、いや、四匹……)
フィルの冴えた聴覚が辺りの静けさと呼応して、その邸の中を走り回っているらしい、大きなネズミの足音を運んでくる。
「……」
途中まで数えたところで、それがいかに馬鹿らしい行為かに思い当たって、フィルは現実逃避を諦めた。
「元締めのセリフじゃないけど、本当になんだってまた……」
だって、これからフィルが訪ねようとしている人物は、西大陸の知の国ミドガルドに留学した経歴の持ち主のはずだ。
その上、あちらの大陸で知らない人はいないという、大賢者クラークに弟子入りしていたという経歴まであるらしい。
(そんな人がなんでこんなうらぶれた場所に……)
「というか……お化け屋敷ってこんな感じじゃ?」
フィルは自ら思いついた嫌な言葉に、ごくりと音を立てて唾を飲み込む。
日が完全に落ちて、辺りは暗い闇の帳に覆われつつある。黒い夜空と枯れ木を背景に、その屋敷は余計おどろおどろしく見えた。
「うわ」
どこからか、「一体何を食べてそんなに大きくなった……?」と訊きたくなるような巨大な黒い鳥が飛んできて、その屋根に止まり、気のせいであってほしいことに、フィルを見て、「ギッシャッシャッシャーッ」と鳴いた。
「……」
「暇なら食ってやろうかー?」と笑っているように聞こえたのは、たぶん気のせいじゃない。
(いや、待て。ネルやメルではあるまいし、あの程度の鳥に、私が命をとられるわけはないじゃないか)
深呼吸して気を取り直すと、フィルは目の前のドアノッカーの遺物らしき、錆びた金具に手をかけた。
「う゛」
が、壊れた。というか崩れた……。
フィルは手中の錆びの塊に、盛大に顔を引きつらせた後、即邸の中の気配を探った。物を壊しては見咎められ、怒られ続けてきた人間の性だ。
「おい、お前っ」
「っ」
だが、叱責の代わりに、背後から怒号が飛んできた。
「邪魔だっ、んなとこ突っ立ってんじゃねえっ」
殺気立った声と血の臭いに、フィルはそこを飛びのくと同時に、剣の柄に手をかけた。
だが、文字通り邪魔だっただけで、フィルの存在は声の主の眼中にはないらしい。彼はフィルが戸惑っていた扉を躊躇なく押し開け、邸へと踏み込んでいった。
(……この辺で悪名高い兄弟だ)
その彼は血で真っ赤に染まった男を背負っていた。おびただしい量の出血に、フィルは目を眇める。
「へぼ医者っ、出てこいっ、ヤイムが刺されたっ」
(へぼ? へぼ医者って……)
男が開け放したままの入り口から、フィルはおそるおそる内部をのぞき込んだ。
血まみれの兄弟の向こう、開いた玄関戸の向こうに広がっているのは、闇夜に負けず薄暗い空間だ。
ヒビ入った天窓からかすかに差し込む月光に、蜘蛛の巣と埃にまみれた、何の用に足るのか判らない物体の山がほんのりと照らされている。
「おいっ、クソ爺っ、いるんだろうがっ」
真っ赤な顔で叫ぶ兄弟のうちの弟、確かカジムの足元では、兄ヤイムから流れ出る血が見る間に広がっていく。
(これ、助からないやつだ)
出血の多さに、フィルはそう悟って眉をしかめた。
「随分と騒がしいことだ」
常闇まで続くように思われた廊下の向こうから、地の底を這うようなしゃがれ声が響いた。
ぎょっとして視線を向ければ、廊下の奥、闇の中から小柄な何かが現れた。ずるずると衣服のすそを引きずり、こちらへと近づいてくる。
天窓から差し込む微かな光が、それの頭の部分にあたった。
「っ」
フィルは総毛立って、一歩後ろに飛ぶと、剣の柄に手をかけて身構える。
薄ぼんやりとした光を受けて浮かび上がっているのは、艶のない、ぼさぼさな灰の毛。その間から赤く濁った目が、ぎょろりとこちらを睨んでいる。
(魔物? いや、気配が違う。となると……まさか、ほ、ほんとにお化け……?)
フィルは額に汗を浮かべた。
(そりゃあ、サーシャの件があって、この世ならざるものへの苦手感も少しは減ったけど、彼女はたとえ幽霊であったとしても健気でかわいかった。彼女に比べたら、あれは駄目だっ。可愛げなんか、まったくない。ぜんっっぜんない)
「おい、爺、なんとかしろっ」
「ヒック、やれやれ、人に物を頼む態度ではないなあ、クックック……」
だが、『それ』は一応人であったらしい。
しゃっくりをあげながら、がなり立てる男へと言い返したその人に、フィルはほっと息を吐いた。
「御託はいいから、兄貴を助けろって言ってんだっ」
「さあ、どうするか」
が、不幸なことにその息は、その人物がにたりと笑った瞬間に止まってしまった。
「わしは今、こいつとの付き合いで忙しくてなあ」
くつくつと笑い、その人は手にした金属製のボトルをぐいっと呷る。
「て、てめえ、腐っても医者だろうが」
「いかにも医者ではあるが、」
男の無礼な物言いに、その老人は喉の奥で低く笑って、またボトルを口に運ぶ。
強いアルコールの匂いが、大分離れた場所にいるフィルのところにまで漂ってきた。
「生憎とお前の言う通り、腐っていてなあ……――ただでは働かん」
「な、なんだと」
「三十万キムリ」
老人の赤い目がばさばさの髪の向こうで異様な光を放った。
「耳をそろえて払うと誓うなら助けてやろう」
(え、えと、私の月給が確か今三万キムリくらい? だから……)
蒼ざめるフィルと対照的に、血まみれの兄を背負っている弟の顔は、湯気を噴き出すのではないかというぐらいに赤く染まった。
「ざけんなっ、払えるかっ」
「ならば、死ね」
「!!」
憤怒を露わに怒鳴った男を、老人は平坦な呟きで遮った。切り捨てる口調と眼光の冷たさにだろう、男の顔から一瞬で血の気が消えた。
「他者を軽んじて生きてきた報いだ。これまで散々人の命を軽く扱ってきておきながら自分は死にたくない、だが金は払えん、では話にならんわ。ヒック」
弟はギリギリと老人を睨み付けているというのに、彼はそれを受けて、この上なく愉快であるかのように哄笑する。
「……は、はら、う」
鮮血で深紅に染まった男が、きれぎれに呟く。
その声に、老人は笑いを止めた。邪悪に顔を歪ませる。
「よかろう、助けてやる。ただし、約束は守れよ? でなければ、」
――いっそあの時死ねばよかった、と思う目に遭わせてやろう。
そう呟き、老人は酒のボトルを自らの背後へと放り捨てた。




