20-2.認識
「ごめん、もうすぐ来ると思うから」
待ち合わせの場所に、時間通りにやってきた長兄のゼドゥに椅子を勧め、ヘンリックはフィルが遅れている理由を、「今日の午後は巡回だと言ってたから、予定通りにいかないことも多いんだ」と説明した。
「へえ、じゃあ、お前の騎士団の同僚なのか、例の隊商の話を聞きたいってのは」
兄は、「てっきりお前のかわいい幼馴染を、やっと『彼女』として紹介してくれるんだと思ったのに」とにやりと笑った。
揶揄を含んだその視線を、ヘンリックは目の前の麦酒を煽って誤魔化す。
「あー、そっちはそのうちね」
「ふーん。まあ、早く手ぇうっとけよ。お前を連れ戻すのに、親父が本腰を入れるつもりらしいぞ。見合いさせる気みたいだぜ」
ゲッと呟いて、ヘンリックは顔を蒼褪めさせた。
「ちょっとやめさせてよ。てか、その話、メアリーには言ってないよね?」
「なんで俺が。お前と親父の問題だろ? せいぜいがんばれよ。あんまりぐずぐずやってると、あのかわいい彼女にも、『どっからか』ばれるかもしれないしなあ」
兄は人悪く笑い、注文を取りに来た給仕にやはり麦酒を注文している。楽しそうな顔をしている彼の脛を、ヘンリックが蹴飛ばしてやったその瞬間に、透き通った声が響いた。
「すみません、こちらからお願いしてお時間をいただいたのに、遅れてしまって」
律儀なフィルのことだから、走ってきたのだろう。頬が微かに上気し、ちょっと癖のある金髪は乱れている。
「いいよ、兄貴もついさっき来たところだし。ね、兄貴?」
「そうなんですか。ええと、確かゼドゥさん、でしたか?」
ヘンリック兄弟のテーブルに来た彼女は、初対面の人に会う照れのせいか、そう言ってはにかんだような笑みをみせた。
「…………」
だが、口達者な商売人のはずの兄は、話しかけているヘンリックに対しても、フィルに対しても、無言のまま。
怪訝に思って兄を振り向けば、彼は口を半開きにして、呆然とフィルを見つめている。
(これは…………ひょっとしてまずい?)
ヘンリックは嫌な予感に顔を引きつらせながら、兄を肘でつついた。
「っ、いや、その、失礼を……あの、ひょっとして、フィル、ディラン……嬢、でいらっしゃる?」
「はい、はじめまして、ゼドゥさん。このたびはお世話になります」
「あ、い、いいえ、こちらこそ、ええと、ふ、不出来な弟がお世話になっているそうで……お、お噂は、その、色々……いえ、こんなに綺麗な方とは」
(……無駄だった)
目を丸くした後、照れたように微笑んだフィルに、兄は完全に止めを刺されたようだ。余裕を失い、真っ赤な顔でしどろもどろになっている。
(絶対分かってないんだろうけど、フィルのばか。てか、ごめん、アレックス。悪気はなかったんだよ……)
「怒られるだろうなあ」
ヘンリックは逃避気味に、店の明かりでにぎやかな夜空を仰いだ。
「ええと、フィル、何か飲む?」
(とりあえず兄さんは無視で。そのうち正気に戻るだろうし)
フィルが席について、落ちつかな気に身じろぎし始めた兄に、ヘンリックはため息をついた。
長兄は既に三十路を超えているはずだ。独身なのは遊べる恋人が複数いる今が満ち足りてるから、なんてふざけた彼が、まさかフィルみたいなのに落ちるとは思っていなかった。
ヘンリックのフィルの話にも街の噂にもまったく興味を示さず、「強いってのも美人だってのも、どうせ話半分だろ」なんて笑っていたのに。
(……待てよ?)
ニヤッとヘンリックは笑った。
兄が見込みの無い恋に落ちたのは不憫だと思う。だけど、現実として落ちてしまった以上、ただで放置するのも、商人の息子としてはふがいないというもの――。
「フィル、そういえばさあ、ゼドゥ兄が俺に見合いしろって言うんだ」
「えっ。だってメアリー……」
「うん、そう言ってるのに、聞いてくれなくて」
人のいいフィルの眉根が寄った。そのまま悲しげな視線で、ゼドゥを見る。
ナイスだ、フィル、とヘンリックはテーブルの下で、拳を固め、小さく動かす。
「しかも、そうやって俺に騎士をやめさせる気らしくて」
「えっ。嘘、ヘンリック、いなくなっちゃうのか…」
ショックを受けたという顔をごく素直に見せてくれるフィルは、愛い奴だ。
「い、いや、それは親父がやっていること、で……」
「……」
じぃっと真剣に見つめるフィルの視線に、冷めた皮肉屋であるはずの兄が、面白いように動揺している。いいぞ、フィル。
「お、俺は、ヘンリックの好きなようにすればいい、と……」
「でもお父さんは違うんですよね……」
悲しそうに眉根を寄せたフィルに、長兄は慌てふためいた。この様子を、彼に苦労している真面目人間な次兄に見せてやりたいと本気で思う。
「い、いやいや、大丈夫です、親父には俺から口添えする予定ですから」
「本当ですか、うわあ、良かったね、ヘンリック」
ぱあっと顔を輝かせたフィルに、ゼドゥはほっとしたように息を吐く。それを見て、ヘンリックはもう一度、ごく人の悪い笑みを見せた。
(よし、勝った。これでフィルが味方である限り、ゼドゥ兄は俺の駒だ――待っててね、メアリー。親友のおかげで僕らの未来は明るいよ)
* * *
「本当にありがとうございました」
「せっかくですから、これからもう一軒行きませんか? ヘンリックも行きますし」
「はあ? 明日朝早いし、俺は――」
「行くよな? 親父の対策、話さなきゃな!」
ヘンリックの実家、バードナー家の長男であるゼドゥ氏に頭をつかまれ、ヘンリックは顔を引き攣らせている。兄弟のやり取りに、フィルはくすりと笑いを零す。
アレックスのところとはまた雰囲気が違っているけれど、この兄弟は仲がよくて、一緒にいると楽しい。だからできることであれば、フィルももう少し遊んでいたいのだが……。
フィルは空へと目を向け、星の位置を確認する。まだ夜は早い。
「ありがとうございます。ですが、先ほど教えていただいた方のところへ、今から行ってみようと思います」
じゃあ、俺も一緒に、と口にしたヘンリックが、ゼドゥさんに後ろ襟首を捕まえられるのを横目に、フィルはその場を辞した。
本当に仲のいい兄弟だ。
フィルはミドガルドに留学していたという人を訪ねようと、賑わう雑踏をすり抜けつつ、貧民街へと向かう。
既に夜の帳は降りきった。繁華街のにぎやかさと熱気に影を潜めていた冬の風が、通りをひとつ曲がるごとに、その寂しさを増していく。
道を急ぎながら、フィルは自分の浅はかさに、重い溜め息をついた。夜空が吐息で淡く霞む。
ヘンリックの一番上のお兄さんは、とても親切にフィルの質問に答えてくれた。
ヘンリックは、事前に「商人と話すときは、相手の利がどこにあるのかに気をつけて、細心の注意を払ってね。たとえそれが僕の兄でも、だよ?」と言っていたが、特にまずいことはなかったように思う。すごく親切だった。
「これが盗られた積荷のリスト」
そう言ったゼドゥさんから渡されたのは、石のひとつにわたるまで記載された詳細な一覧表だった。他に、参加者名簿や行程表などの記録もあった。
強盗などの被害があった場合、カザック国内の商人たちはその情報を共有しあうことになっているらしい。商売の根幹に関わるせいだろう、その情報は公的機関のものより迅速かつ詳細に、組合に加盟する商人の元へ送られてくるという。
フィルが見たその紙には、被害の状況も同時に記載されていた。
隊商は文字通り全滅。装備の整った大規模な盗賊団に襲われたようだ。
被害品は、積荷のすべてだったとみられている。調査の結果、内容は宝飾品や宝石の原石、硬鋼石という鉱物、珍味や布、こちらの大陸では見かけない植物の苗や種、そしてフィルが懸念したとおり、兄ラーナックが使う品を含む医薬品などだったと推測されている。はっきりと分からないのは、襲われたあとに火をつけられていたからだそうだ。
それを聞いたヘンリックは、眉をひそめ、沈痛な表情をしていた。
それからゼドゥさんは、その隊商が組まれたいきさつについて、知る限りのことを話してくれた。
「南方経由の西方交易は、ロンデール家に独占されているから、好き勝手にやっていたドムスクスの軍部が排除された今、ドムスクス国内を通る交易路は以前より現実的なものになったんだ。治安は悪いけれど、僕たちは商人だ、やりようはいくらでも知っているからね。今回の隊商も同じように見込んだろう」
襲われた隊商は、カザレナの商人たちと貴族たちの出資で組まれたという。
貴族と言われて、おそらく父が関わっているのではないか、と確信に近い思いを抱いた。
それだけじゃない、ここのところよくフィルの父や兄と会っている様子のアレックスも、ひょっとしたら――。
「だけど、今回のことではっきりしたように、ドムスクスは軍が弱まって、地方の治安が予想以上に悪化したようだね。襲ったのは国境の向こう側で最近猛威を奮っている盗賊団らしいし、中央政府もしくは軍が力を取り戻して監視が地方に及ぶようになるか、街道地域の治安を維持できるだけの有力な領主が生まれるかしない限り、ドムスクス経由の交易を行う酔狂な商人は出ないだろう」
「誰もが思うだろうけれど、商人たちの間でも、奇妙だ、と噂されているよ。大きい規模の隊商でも無いのに、待ち伏せされていたのではないかという情報もあるし、積荷も盗賊にはさほど価値の無い、サンプルばかり。なのに、布の切れ端すら残っていない」
そう言って、ゼドゥさんは皮肉な笑い顔を見せた。
「どうせ彼らは偶然と言い張るだろうけれど……ロンデール家は今回の件を喜んでいるだろうね、おかげで西方交易は変わらずに彼らの独占だ」
ロンデール家をよく思っていないというバードナー家長男の彼は、そう苦々しく締めくくった。
「そうなりますね……」
それはフィルの兄の命が、ずっとロンデール家の手の内にあることを意味していた。
積荷を奪った上に、火までつけていったという盗賊。
待ち伏せされていたという、決して大きくはない規模の隊商。
今回の件を一番望んでいたロンデール家。
「確証は何もないんだけど……」
ロンデール公爵の執着と怨念に満ちたあの視線を思う時、ゼドゥさんの推測が外れているとはフィルにも思えない。
「……」
長く吐き出した息が視界を白で埋め尽くし、拡散していく。その向こうの夜空から、澄んだ、凍れる空気が星の瞬きを運んできた。
(アレックスが最近ずっと忙しくしていたのは、このせいだったんだ。昨日あんなふうに出て行ったのも……)
すべて済んだと思っていたのに、フィルの考えはいつも足りない。だから、父も兄も、そして多分アレックスも、フィルには話をしてくれないのだろう。
(気を使ってくれているのも、心配をしてくれているのも確かなんだろうけど……)
けれど、なぜだろう、少し悲しくなってしまうのは。
フィルは無言で、西の空で一際鮮やかに青く輝く星に目をやった。
あの星だ――もう十一年近く前、ザルアでアレクと一緒に見た星。それにフィルはアレックスを連想する。
『ねえ、アレク、あの星、アレクに似てる』
『……星? 僕?』
『青くて綺麗。どこにいたって私、あの星なら見つけられるよ。ね、アレクにそっくりでしょ?』
あの夜も同じことを考えて、草の香りの中、横に寝転がるアレクの手を握って、指を差して見せた。繋がった手の感触が温かくて、自分が見ているのと同じものをアレクも見ているのがすごく嬉しかった。
――今、その彼はどこにいるだろう? 何を考えているのだろう?
「今日の夜は帰ってくるのかな」
そう呟いた瞬間に脳裏に浮かんだ彼の顔は、いつも思い浮かぶものではなかった。
怜悧な目元を少しだけ綻ばせてこちらを見ている、フィルが好きなあの顔ではなく、どこか遠くを見ているときのもの。ザルアで別れた朝に見せていた、あの顔と同じ――。
「……」
フィルはぐっと眉根を寄せると、かぶりを振り、路地を行く足を速めた。
早く用事を済ませて、あの部屋に帰ろう。アレックスの顔が見たい、そう強く思った。




