19-12.遺財
『ザチルの深山に住みたもう聖なる乙女よ、陽の神の娘よ
汝らが父にして我が父祖、太陽の御子ソレイグスを讃え謳うに応じたまえ』
(……ヌクレイヌ英雄譚だ)
アレックスは覚えのある楽句に眉を跳ね上げる。
地底を支配する暗黒の神に打ち勝った主人公ヌクレイヌが、万物の源である太陽の御子へ感謝を謡う行だ。
広間の中央で、フィルは己の歌声に合わせて剣をかざし、優雅に肢体を操る。動きにはぶれ一つなく、黒衣に包まれた長い四肢には指先に至るまで力が漲っていて、詩の雄雄しさを忠実に表現していた。
頭上高くから降り注ぐ無数の灯火に、凛とした表情と動きに応じて靡く髪、銀の剣身が照り映える。
(なるほど、御前剣舞だからか)
居残り練習などの後、フィルは戯れに剣舞を舞うことがあって、アレックスはそれを幾度となく見ている。その時と動きが違っているのは、舞を捧げられる者が脅威に感じないように、アレンジしているせいだろう。
「……」
これぐらいフィルには造作もないことと知っていてなお見蕩れた。踊りのための添え物としての剣の動きではなく、武器としての鋭さと緊張を備えた剣の動きに、意識が吸い寄せられる。
『母なる大地を被いし虚無の闇は、燦爛たる光矢にて祓われた
美しき虹と花々に彩られし此方の喜びを、彼方の雲上に謳い語らん』
大陸で長く語り継がれてきた古い神話が、美しい旋律にのって、静まり返った空間に流れる。朗々とした歌声が余すところなく響き、反響して消えていく。
複雑な古語の詩がこのように歌われること、まして剣舞などに使われることは、普通はない。
以前そう指摘した時、フィルは「祖父母が教えてくれたのは全部そんな感じでしたが……」と不思議そうにしていたが、事実フィルをはめた近衛騎士たちを中心に、誰もが唖然としている。この場で最も詳しいはずの典礼官たちですら、例外ではない。
「あれはザルアナック老伯爵夫妻の……」
「エレーニナさまが亡くなられててっきり失われたものだと……」
「しかし、本当によく似ている……」
年配の者たちが所々で、感慨と懐旧を含んだ声を漏らす。
周囲では、特に女性たちが頬を上気させて、舞い踊るフィルに食い入るように見入っていた。
思い出して壇上を見れば、目を輝かせるナシュアナ王女の横、あのフェルドリックの顔には明確な驚きが浮かんでいた。
アレックスは笑いを噛み殺す。
アレックス以外の誰にも知られていないはずの、実はああいう英雄譚が大好きだというフェルドリックの秘密――昔彼の学友をしていた頃、王宮図書館で共に古い書物を開き、解釈などを話し合っていた日々を思い出した。
自由のない日々の中で、彼は英雄たちの冒険に憧れた。ヌクレイヌ英雄譚はその中でも彼のお気に入りで、長い、長いあの古い詩を彼はすべて諳んじることができるはずだ。
なぜフィルがこの場でそれを選んだのか――あとで彼に追究されることは必至だろう。
(……? なんだ?)
その横、国王夫妻の様子――放心したようにフィルを見つめる、アレックスの叔母でもあるエイリール王后と、苦虫を噛み潰したような顔をして見えるギルリッツ国王の顔に、違和感を覚える。だが、聞こえてきた近衛騎士たちの歯軋りで、注意はすぐにそちらへと移った。
神話の一連――決して短くはない時間だった。だが、ついぞそう感じさせないまま、フィルは毛足の長いじゅうたんに膝を落として静止した。
彼女の声の余韻が消えると同時に、周囲から感嘆とも終了を惜しんでいるともつかない溜め息が漏れる。
その中で最初に我を取り戻したのは、やはりフェルドリックだった。
いつも通りの平静さを取り戻した彼が、微笑を浮かべて口を開いた瞬間、だが、フィルは「以上は私から」とにっと笑って彼をさえぎった。
「これより亡き祖父母からの殿下へのお祝いを献上奉ります」
「?」
フェルドリックが眉をひそめ、アレックスも目を丸くした。周囲が再びざわつき出す。
「祖父母?」
「何の話だ?」
フィルは立ち上がって使っていた細剣を戸惑う典礼官に渡し、替わって二本の短剣を受け取った。
「……」
その彼女と一瞬視線が交わる。目の端で笑った彼女に、瞬きを繰り返した後、アレックスは同じ顔を返した。どうやら、何かおもしろいことを企んでいるらしい。
(今も昔もフィルだけだ、こんなふうに俺をわくわくさせてくれるのは)
アレックスは湧き上がってきた強い高揚に身を震わせる。
改めて正面、フェルドリックに向き直ったフィルは、天を仰ぎ、両腕を自らの身体に絡めるようにして静止した。
そして、場が静まるのを待って、桜色の唇を開いた。
『我が父なる御子よ、暁の空から手を差し伸べ、我を導きたまえ
月と星の光にあふれる夜が今まさに終わり、我は命を歌い始める』
響いたのは、先ほどより高い、女性そのものという声。やはりヌクレイヌ英雄譚の一節だった。
ただし、内容は先ほどの場面より後のもので、太陽の御子の娘である戦女神エルサナが誕生に際して、彼を讃える行だ。
対方にいるザルアナック伯爵の顔にも、老貴族たちの顔にも驚きが浮かんでいる。
「一度も見たことがないが……」
「私も知らぬが、ああいうものを作る才はアルとエレーニナ殿ぐらいしか……新しいものか?」
そんな会話が漏れ聞こえてくる。
「……」
変わったのは声だけではない。アレックスは一対の短剣を操り、白い喉を光にさらして舞うフィルを瞬きもしないで見つめた。
先ほどとは違い、彼女の四肢からは力が抜け、しなやかに優美に動く。腕が女性らしい体の線を強調するようになぞり、時折首や腰がなまめかしく傾ぐ。艶やかで、時に官能的にすら見えた。
柔らかな歌をつむぐ唇は軽く開かれ、詩の場面に応じて好戦的な笑みを浮かべたり、妖艶に微笑んだりする。
ただ、全体の凛とした空気も手にした武器の鋭さも変わらず、語られる戦女神の姿そのものに見えた。
「……っ」
その顔と動きを見つめるうちに、次第に顔が紅潮していくのが分かって、アレックスは顔の下半分を手で覆った。そして、横目で周囲をうかがい、顔を盛大に引きつらせる。
(やってくれた……)
フィルに疑いを抱いていた者のみならず、先ほどまでおもしろくなさそうにフィルを睨みつけていた近衛騎士たちや、フィルと子供そのもののやりとりをするあのミレイヌさえも顔を微かに染め、放心したようにフィルに見入っている。
そこかしこで女性たちが興奮を交えた小声で、しきりに何かを囁き合っている。




