3-3.祝い
夕飯を終えて戻った夕刻の自室。
アレックスはちょっと出てくると言って街に出ていき、残されたフィルは一人ベッドに寝転がって本を広げている。『演繹的思考と帰納的思考』なんてさっぱりわからないタイトルと内容の本(もちろんアレックスのだ。勝手に本棚から引っ張り出した)だが、顔が綻ぶのは仕方がないというもの。
だって今開いているのは――そう、教科書じゃないのだ。
「……ふふふ」
何を隠そう、昨日ついに全科目の最終試験結果が発表されて……フィルは無事に正騎士となった!
同様に合格した同期たちは昨日今日と浮き立っていて、みな事ある毎に副団長や小隊長たちに怒られているけれど、だからどうしたと言うのだ。「フォルデリークのおかげだな」と先輩たちに嫌味を言われたって、これまたそれがどうした、だ。
確かに最初の法律学の試験、そして次の数学の試験で味をしめた同期たちはフィルの制止も聞かずに、その後も散々アレックスにお世話になっていた。試験期間中に彼を徹夜につき合わせた回数は片手を超える。
申し訳なくて謝ると、『構わない、フィルも勉強するんだろう?』と優しく笑ってくれるのに甘えて、フィルもちゃっかりお世話になってしまったが(……ごめんなさい、爺さま、婆さま)、それでも合格は合格だ、問題ない。
「……嬉しい」
フィルは読めもしない本を抱えて、にこにこと今日も一人幸せを噛み締める。
そんな幸せ満喫中のフィルの空間に、ノックの音と共にやってきたのは、大荷物を抱えた男性の二人連れ。
「なんでしょう?」
上機嫌のまま応対に出たフィルに、彼らは彼らで商売用の笑顔を向けてきた。
「フォルデリークさまからのご注文の品をお届けにあがりました」
「ええと、アレ、フォルデリークは今外出中でして……」
「同室の方? 代わりに受け取りをしていただいていいですか?」
「あ、はい」
そうして差し出された書類には確かにアレックスの字。そんなこと言ってたっけ?と首を傾げつつも、差し出されたペンを受け取ってサインして、フィルは運び込まれた荷をしげしげと見つめた。
「ソファ? あれと同じだ……」
窓際にあるアレックスの私物だという一人がけのそのソファは、こっそりフィルのお気に入りだ。大きくて背もたれが高くて、もたれるとすっぽり抱き込まれるような感触がするのが好き。革ではない、綿の表生地の肌触りも大好き。アレックスも好きそうで、同じ感覚なのがこっそり嬉しかったりしていたのだが……。
「……新しくするのかな?」
でもあれ、十分きれいだ、とフィルは首をひねる。
「足置き?」
でも、あの長い足を置くなら、もっと別にいいのがありそうなのに、と今度は別方向に首を傾けた。
一年で最も昼の短い季節、お揃いのソファの置かれたすぐ向こうの窓の外は、もうすっかり闇に覆われている。
「お帰りなさい、アレックス。あの、荷物が届いていますよ」
扉が開く音を聞くなり、フィルは玄関に走っていった。報告にアレックスがくすりと笑う。
「フィルのだ」
「? 私?」
思わず目を点にすると、アレックスが小さく吹き出した。
「好きなんだろう、あのソファ」
「……」
(ばれてる……なぜ? もそうだけど、私の?)
複数のことを同時に考えるのはどうも苦手で、思考が停止する。アレックスが目元を緩ませ、説明を続けてくれた。
「せっかくフィルと同じ部屋にいるのに、一人で寛ぐのも味気ない」
(ああ、そういうことなら……)
「あ、じゃあ、お金払いま――」
「いらない。試験の合格祝いだ」
財布を取りに行こうとしたフィルの頭に、アレックスはポンと手を置き、それから肩を押して部屋へ入るよう促した。
「ええと、ですが」
「俺がしたいからしているんだ、遠慮しないでくれ」
軽々しく誰かから何かを受け取ってはいけないという祖父母の教えに従って、遠慮しようとすれば、アレックスは窓際に向かいながら横目でフィルを見下ろし、ふわりと笑った。
(あ、その笑い方、アレクにそっくり……)
なぜまたばれた?と思わないでもないが、ついふにゃっと笑ってしまう。
(……って、そうじゃない!)
「あ、あの、本当に?」
「本当に」
「本当の本当に?」
「もらってもらえると嬉しいが、迷惑か?」
「ま、まさか、もちろん嬉しいですっ……けど、ええと、じゃあ、本当にもらってしまいますよ?」
確認を繰り返したフィルに、アレックスは子供みたいな顔で笑った。思わずその顔を見つめる。
「……あの、ありがとう、ございます。本当に、すごく、すごく、嬉しいです……」
――ああ、どうしよう、本音を言えば、二重に幸せだ。
だって試験に受かった同期たちは、みんな家族に手紙を書いたり、家族とお祝いしに行ったりしている。
それを見ながら自分にはそんな人がいないなと思ってしまって、ちょっとだけ、ちょっとだけだけど寂しかったから、すごく、すごく嬉しい……。
「それじゃあ、もう一つ」
笑いながら、アレックスが差し出してくれたのは、大きなチョコレートケーキと木苺のパイ。
「二人で祝勝会をしよう」
「っ」
咄嗟に声が出てこないくらい喜んでしまったら、ここのところ何度となく覚えている疑問がまた首をもたげた。
(なんでだろう、アレックスのしてくれることはいつも魔法みたいだ)
平気だと思っていたのだ。祖父も祖母も直接報告できなくたって、きっと自分が頑張っていることを知っている、きっと喜んでくれている、だから大丈夫だって。
なのに、アレックスがこうして一緒に祝ってくれると、そんな人を自分がどれだけ欲していたのかよくわかる。
彼の青い瞳をじっと見つめた。
(私が知らないことを知っている、本当に不思議な人――)
「……ふふ、大好き、アレックス」
「っ」
ついぎゅっと抱きついてしまって、その感触に「ああ、アレクにやっぱり似てるなあ」なんて思った。
「? どうかしましたか?」
「…………い、や」
「ああ、そうだった、お茶だった。待っててください、飛びっ切りの、淹れてきますから!」
そうしてキッチンへと走り出しながら、フィルは改めて顔を綻ばせる。
――爺さま、婆さま、孫は今日も元気で幸せにやってます。見ててくれてます?
だからだろう、背後でアレックスが片手で顔を覆い、何かを呻いていたことには生憎と気付けなかった。




