19-10.裏地
「……なあ、やめておいた方がいいんじゃないか」
フィルは今休憩用の小部屋を借り、ミレイヌと一緒にいる。
フィルが「こっちはこっちで別人だ……」と思わずつぶやいてしまうほど、優雅に紳士然とした様相で夜会を楽しんでいた彼は、有無を言う隙も、用件を聞く間ももらえず、アレックスに無理やりここに連れてこられた。
あれは怖い。ミレイヌ自身もぎょっとしていたし、周囲にいた人たちにいたっては蒼褪めていた。ごめん、ミレイヌと思った。
だが、そのミレイヌはアレックスの説明を聞くなり、「あいつらまだそんなことしてやがんのか」と低い声音で呟き、騎士団での彼に戻った。
騎士団は一体どういうところなんだ? とふと思ったというのはさておき、そうしてフィルは彼に御前剣舞を教わり始めたわけだが、小休止の間にミレイヌは浮かない顔で中止を提案してきた。
「だって経験どころか、習ったことすらないんだろ」
「ないけど、やる」
即答したフィルに、ミレイヌは顔をしかめる。
綺麗に撫で付けてあった彼の髪は、剣舞の動きを目の前で再現しているせいで、乱れていた。美しい上着も無造作にそこに放ってある。貴族然とした王子さまのような雰囲気ではなくなっているけど、フィルはこっちのミレイヌのほうがいいと思う。
「失敗すれば、恥をかくだけならまだしも、不敬だと騒ぎ立てられる。足を引っ張りたいやつらに付け入ってこられるぞ」
「大丈夫。失敗しない」
「……格好だけ見て見直してもフィルはフィルだな」
「どういう意味だ」
むっとすれば、ミレイヌはがくりと肩を落とし、「どこまでもいい神経してるよなってことだ」と呟いた。
「俺『秘めたる華』、憧れてたのに……」
「……まだ言うか」
「見た目だけならいいのに……背は高すぎるけど」
「見た目『だけ』……?」
時々失礼にも程がないか、ミレイヌ? と思う。
フィルは、剣を手にしみじみと呟くミレイヌに、口角を下げる。
そりゃあ、そうかもと自分でも思うけど、アレックスがここにいなくて本当に良かった。ついでに、ヘンリックも。
再び御前剣舞の講習に戻った。
「上段への突きから下段。その動作の後にこうして……この段階で体を開くと非礼とされるから絶対にするなよ?」
「ああ、そうか、上座側の人の急所を狙うように見えるということか。非礼云々というか、そういう動き全般がダメなんだな?」
「そん、な視点で、御前剣舞を考えたことはなかったけど……なるほど、そういうことだったのか」
「一言で片付けるなら、御前剣舞とは面倒くさいものということだ。今日この場限り覚えて忘れる」
フィルとミレイヌは、それぞれまったく違う納得をしてふむふむと頷く。
「そういえば、曲は?」
「定番がいくつか決まっているから、好きなのを選べば演奏してくれると思うけど」
「自分で歌うのはあり?」
「フィル、今度は何する気だ……?」
ミレイヌは盛大に顔を引きつらせるけれど、好きでもない音楽にあわせて、その曲を演奏する人たちのペースに合わせて踊るなんて絶対無理だし、そもそも楽しくない。
どうせするなら自分だって楽しくなくてはいけない。祖父も祖母もそう言っていた。
「ありかなしか」
「あり、だと思うけど……」
ちょっと確かめてくる、と言って、ミレイヌは部屋の外に駆け出していった。
(……時々失礼だけど、やっぱりいいやつだ)
白いシャツに包まれた華奢めの背を見送って、フィルはにっこり笑った。
途端に静かになった室内で、椅子に座ったまま、目を閉じて動きのイメージを作る。
実際に動けなくても日頃から鍛錬を怠らなければ、頭で思い描いた動きに体はついてくると祖父は言っていた。だから大丈夫。
(こう動いてこう、それでこうして、それから剣を頭上に……ん?)
何かが引っかかって、フィルは眉間にしわを寄せた。
(ええと、なんだっけ……って、今は剣舞だ)
集中を取り戻そうと、深呼吸し、続きの動きを思い浮かべる。
(それからこう動いて、ここで足を踏み出して…………あれ? この動き、確かどこかで……)
当時自分より遥かに大きかった体躯が、剣を手に舞っていた光景――澄んだ声音の歌声にあわせて、白く染まった髪と抜き身の剣身が天から注ぐ日の光を反射していた……――古い記憶が、今脳裏に作り上げている映像にぴたりと重なった。
『フィルならできるのになあ』
『フェルドリックが昔飼っていた犬の名だ』
『君、剣舞できる? 師から教わったの?』
「…………なるほど」
フィルは閉じていた瞳を開いて、ぱちぱちと瞬く。部屋の四隅に置かれた明かりがひどく眩しい。
「フィル、待ったか?」
「ありがとうござい……ま、す……」
扉が開いて、アレックスが戻ってきた。
急いでくれたのだろう、髪は少し乱れ、襟元は開いていて、鎖骨まわりが見えた。呼吸も少し荒くて……なんでだろう、きっちりした格好よりこういうほうがドキドキする。
顔を見ないようにしながらアレックスの差し出す包みを受け取り、フィルはその中身を確かめて表情を緩めた。
(うん、やっぱりドレスは苦手だ)
不意に黒い髪が視界に入った。
アレックスの顔が下からすっと近づいてくる。
「!!」
唇の重なる感触に真っ赤になった。啄むように数回角度を変えて交わる。
その後、喉の奥で低く笑われて、指先まで赤く染まった。見たら余計まずいと思うのに、つい彼を見てしまって、向けられている青い目に浮かぶ色に呼吸を止めた。
「……って、それこそそんな場合じゃない!」
が、長い親指が唇に触れた瞬間、何とか正気に戻れた。
(危険、これは危険、悪魔の従弟、やつとは別の意味でとても危険、目を合わせたら最後……)
そんなことを念じながら、彼の目を額ごとぐいっと押し返し、慌てて本題に入った。
手のひらの下で、アレックスはちょっとむっとしたようだが、それはまあいい。そもそもアレックスが悪いわけだし、剣士たるもの、妖しい悪魔の誘惑に打ち勝てなくてどうする。
「ええと、アレックスはフェルドリックのこと、すごく好きですよね」
「……フィル?」
「フェルドリックは根性が悪くて、意地悪で、口が悪くて、捻くれていて、我がままで、邪悪」
「……どういう脈絡か相変わらずさっぱりわからないし、あたっているとも思うが……それ、本人の前で言うなよ?」
呆れ声で、「ひどいことになるぞ、どうせ聞いていないだろうが」と続ける彼をじっと見上げた。
「でも――すごくいいやつ、ですよね、本当は」
そう、とてもわかりにくいけれど、フィルも何度か助けられている。
昔はそんなことを考えたこともなかった。
彼はフィルが嫌いで、フィルも彼が嫌いだった。怖かった。だから避け続けた。
だから気づけなかったのだろう。その彼に、隠れたこういう部分があると。
多分今回もそうなのだ。何がどうなっているか、詳しいことはよくわからないけれど、彼はフィルのことを考えて、出席するよう強要してきたのだろう。
そのくせそうとは絶対に匂わせない――。
「……」
一瞬目を大きく見開いたアレックスは、無言のまま顔を小さく綻ばせた。
そう、フェルドリックがアレックスを好きなだけじゃない。アレックスもフェルドリックが好きだ。……ちょっと複雑だし、ちょっと、いや甚だしく危ない気もするけど。
(それはさておき、『贈り物』、ね)
なんだかよくわからないうちに踊ることになった剣舞だけど、一石三鳥で案外面白いことになるかもしれない――。
そんなことを考えてにっと笑えば、アレックスが眉を跳ね上げた。