19-9.不意
「おお、これはこれはアレクサン――」
「申し訳ないが、またの機会に」
あちこちで声をかけられ、それらをあしらうのに手間取る。時間にすれば大したものではなかったのだろうが、恐ろしく長く感じた。
苛つきがピークに達した時、先ほどの男たちが顔を赤くしてテラスから会場へと戻ってきた。
彼らと目が合わせば、全員が息をのんで蒼褪める。何かしら疚しいことがあるらしい。
(あとで相応の報いをくれてやる)
そう決めて、睨みながらすれ違う。
(彼女が物理的に何かされるとは到底思えないが、万が一ということも……)
「フィルっ」
窓を押し開くなり、名を呼んだ。目が闇になれず、彼女を上手く認識できないのがもどかしい。
「あれ? アレックス?」
驚きの混ざった声が響き、テラスの右手にフィルの姿を見つけた。
透き通った月明かりの下、石造りの柵に肘、その上に顎をのせて何か考え込んでいたらしい彼女が、目を見開いて半身を捻った。
その調子に金の髪が夜風にふわりと舞った。頭上の銀盤の光を受けた白い肌が、闇の中に浮き立っている。
「……アレックス」
人の気も知らないで、彼女は確かめるように再度アレックスの名を口にした。幸せそうに微笑み、腕を伸ばしてくる。
(……大丈夫そうだ)
その顔にそう判断する。近寄って彼女の身を胸の中に抱き込み、アレックスはようやく安堵の息を吐き出した。
「悪かった、一人にしてしまって。……大丈夫か、何かされていないか?」
戻ってきた甘い香りと柔らかい感触を確認しながら訊ねれば、フィルは「えと、何か? って、別に何もないですけど」と首を傾げた。
「……ならいい」
「……ん? ひょ、ひょっとして、結局また心配かけただけ……?」
不思議そうな顔と声に脱力すれば、彼女は一旦跳ね上げた眉の尻を下げた。
次いで「せっかくの機会だと思ったのにまた……」と情けない声を出す。それで謎が解けた。
(なるほど、いつものか。「アレックスに迷惑をかけないようにしよう!」とかいう……)
つまり方向性はともかく、彼女は彼女なりにアレックスのことを考えてくれたらしい。
相変わらずのフィルの思考と、何か気に触ることをしただろうか、などと小難しく考えていた自分に思わず苦笑を零せば、フィルはばつの悪そうな顔を見せた。
「フィル、フィルは俺が困っていたら、助けてくれるだろう」
「え、あ、はい、それは当然……」
頷いたフィルの額、そこに今も鮮明にある傷に口付けた。
「同じことだ。俺もフィルが困る時は側にいたい。それを許してほしい」
腕の中からアレックスをじっと見上げてきていたフィルは、しばらく考えた後、「そうか」とつぶやいた。そして、「ごめんなさい。それから……ありがとう」とアレックスの胸へと顔を押し付け、大きく息を吐いた。
吹きつけてきた冷たい風に、フィルが身を震わせた。
彼女を抱えたまま、アレックスは自らの背を風上に向け、その眦に唇を落とす。くすぐったかったのか、フィルが軽い笑い声を漏らした。
こういう場に慣れていないせいか、フィルは彼女には珍しくかなり緊張していた。それでも泣き言の一つも漏らさないし、縋ってもこない。彼女らしいと言えばその通りなのだが、少し寂しくもある。
「フィル、こっちを見て」
白い顎に手を掛け、彼女を上向かせた。アレックスの意図を察したらしい。フィルが頬を染める。
だが、予想に反して逃げようとはしなかった。それどころか上着をきゅっとつかまれる。
(甘える時の仕草だ……)
だから、重ねるだけで済ませようと思っていたキスに、ついのめり込んだ。
夜風に互いの髪があおられる中、水音を立ててフィルの口内を奪いつくした。舌を絡ませ、執拗にすり合わせ、先をついばむ。口蓋を掠めるように撫でれば、フィルは身をびくりと震わせた。その振動が伝わってきた瞬間、体の芯が熱くなる。
「フィル……」
唇を離した瞬間、うわ言のような声が漏れた。律儀に応えを返そうとする色づいた唇を、角度を変えて深く封じる。目の前の金の睫は、かすかに震えている。
「……っ」
彼女の乱れた呼吸音に煽られて、その柔らかな胸に指を落としたところで、やはり逃げられたが。
「な、ななな何を考えて……」
警戒を露わに、真っ赤になって睨んでいる様も当然可愛い。
逃げた彼女の頬へと指を伸ばし、その動きのまま手を横髪に滑り込ます。身を寄せて、彼女の耳元で囁いた。
「そろそろ帰ろうか、フィル」
耳朶が赤く染まるのを見て、忍び笑いを漏らす。考えてみれば、その程度の言葉でこちらの意図がわかるようになったのは、フィルにしては目覚しい進歩だ。
ついでに、窓越しにこちらを窺っている気配があるにもかかわらず、彼女が気にしている様子がないこと。これは彼女が自分に意識を囚われている証拠だと自惚れていいのだろう。
だが、一筋縄でいかない、それこそが彼女――。
「あ」
経験上フィルのこういう声は大抵ろくでもない……――アレックスは嫌な予感に停止する。
「御前剣舞」
そのアレックスを見上げ、フィルは「することになっているらしいです」と真顔でつぶやいた。
「……ごぜん、剣舞?」
(というか、することになっている『らしい』……?)
「だからまだ帰れません」と首を横に振ったフィルに、アレックスは盛大に顔を引きつらせた。
「――どういうことだ」
「さあ」
「『さあ』じゃない」
漂う計画性のなさに、思わず睨めば、フィルは視線を泳がせた。
「ええと、さっきここに近衛の、名前、なんだっけ? サヴォン? ザヴォン? が来て、そういうものだし、そういうことになっているから、と。『アル・ド・ザルアナック』の孫なら当然するだろうって」
「……で?」
ああ、ありがたくないことに『経験』は今回も補強された――アレックスは内心で呻きつつ、フィルからさらに情報を引き出す。
「そういうものなのかと頷きました」
「そういうもの、なわけないだろう……」
(そりゃあ、放っておいた俺も悪いが……)
がくっと肩を落とせば、フィルは「へ?」と口を開け、アレックスを見上げてきた。
そして「つまり、騙された、ということですか?」と情けなさそうにぼやくが、問題はそこじゃない。
「いつ?」
「ええと、一刻ほど後に国王・王后両陛下が出ていらっしゃるから、彼らへのご挨拶が一段落した頃合いに、と言ってました」
「……経験は?」
「まったく」
このいつも輪をかけた能天気具合――素で否定したフィルに、アレックスはついに頬を痙攣させた。
わかってしまうのだ、彼女は騙されたことに落ち込んではいるが、まったく困っていないし、不安になっているわけでもない――。
「御前剣舞には細かいルールがあると知っているか? 型とか、しなくてはいけないこととか、逆にしてはいけないこととか……」
「へえ、そうなんですか」
ふむふむと頷いたフィルに、頭痛を覚える。思わず額に手を当てた。
「フィル、俺は知らないぞ、剣舞」
「え゛」
フィルが口をぱっくりと開けたのを見て、アレックスはついに唸り声をあげた。
「あてにしてたな……」
「だ、だって貴族の子弟で剣を持つ者なら、みんなできるものだと……」
「近衛でならやるのかもしれんが……」
アレックスはフィルと二人、テラスから飛び出た。頭を左右にめぐらし、目標を見つけ――、
「「ミレイヌっ!」」
同時に叫んだ。周囲の驚きにも怪訝なものを見る目にも、この際構ってなどいられない。
一瞬目の合ったザルアナック伯爵が見せた『本当に何かしでかしたのか』という愕然とした顔、そして、ラーナックさんから向けられた、謝罪含みの視線が突き刺さる……。