19-8.内と外
「こんな傷の1つや2つや3つで誰かが生きて笑っていてくれるなら、そんな嬉しいことなんてありません」
傷物などという言葉をぶつけて嘲笑う女性たちに穏やかに返しながら、フィルは額の傷に触れ、アレックスへと笑いかけてきた。
「っ」
彼女はどこにいようと彼女だ。誰かの痛みに共感し、自分の傷をものともしないで、それをなんとかしようとしてくれる。ヒュドラに襲われたアレックスを救ってくれた昔も、彼女に向けられた嘲笑に自責の念に駆られたアレックスを救ってくれた今もまったく同じ――。
こんな場所にいるというのに、そう確認した瞬間、胸が震えた。
そして、その彼女があの美しい緑の瞳でまっすぐ自分を見てくれている幸福を思った。
そう、そこまではよかったのだ……。
その愛しくて仕方の無い彼女は今、あからさまにアレックスを避け、遠ざかっていっている。
「……」
アレックスは顔を引きつらせてその様子を見つめる。
自分と目が合った瞬間、嬉しそうな顔をするのは、普段通りだ。無論いつものことであっても、どうしようもなく可愛い。
が、問題はその次だ。フィルは「はっ」という顔をして、慌てて目を逸らす。先ほどなどは、アレックスが彼女に向けて足を踏み出すなり、露骨に後退った。
「……今度は一体何を考えついたんだ……」
思わず漏らせば、横のフェルドリックは耳ざとくそれを聞きつけたらしい。わざとらしく、「あれ、アレックス、フィルは?」と問いかけてきた。
「誰のせいだと……?」
さっきからフェルドリックが彼女を脅していたことを気付かないわけがない。原因の一端は、フィルの天敵であるこいつにある――アレックスは『王太子殿下』への最低限の礼儀として顔に笑顔を貼り付けつつ、にやにやと笑うフェルドリックに押し殺した声を返した。
視界の端では、フィルが某伯爵とその子息に声をかけられている。息子の顔が赤らんでいるのが、心の底から気に入らない。
人目さえなければ、八つ当たりをかねてフェルドリックをひどい目に遭わせてやるのに、と物騒なことを考える。
「いやだなあ、君のせいだろう。フィルは恥ずかしがり屋だから、君の情熱的な扱いに気後れしたんだよ。少しは加減してあげないと……ねえ、あてられるよね?」
「本当に。あまりに仲がよろしくて妬けてしまいますわ」
「お噂通りフィリシアさまはお美しくていらっしゃいましたけれど、あまりに露骨だとわたくしたち、立つ瀬がなくなってしまいます」
「そうですわ、少しはわたくしたちをご覧になって」
だが、アレックスのそんな本音を知っているはずのフェルドリックには、当然というべきか、懲りる様子はない。にこやかに周りに話しかけ、アレックスの包囲網をさらに強めた。
あとで相応の報いをくれてやる、と決めて、離れた場所にいるフィルを再度気遣えば、目が合った彼女は、なぜか首をふるふると横に振り、また逃げていった。
(……俺にフィルの頭の中身を、完全に理解できる日はいつか来るのだろうか)
もう何度目かわからない疑問に襲われる中、何の因果か、さらに遠方にいる母と目が合った。笑顔だが、目がまったく笑っていない。
その顔に「そう、フィルを一人にしているの……いい度胸ね?」と書いてあるのを見て取り、アレックスはついに呻き声を漏らした。
なぜかこんな状況に陥ってしまっているが、今日という機会を設けてくれたフェルドリックの思惑自体には、アレックスは感謝している。
収穫祭以降、『秘めたる華』ことザルアナック伯爵令嬢が、実は騎士団のフィル・ディランだという事実は、カザックの貴族たちの最大の関心事となった。物語性を面白がる他愛ないものから、政治的な思惑の絡んだ厄介なものに至るまで、噂を耳にしない日はないという。
あらぬことを噂される前、そして彼女を利用しようと良からぬ企みをする者が出てくる前に、彼女を公式の場で披露して、彼女の立場は王家も公認であると周知する――フェルドリックがフィルに今回の会に出るよう強要した理由はここにある。
アレックスの両親がフィルにドレスを贈ったのも、衆人環視の中彼女を抱きしめてみせたのも(個人の趣味とアレックスをからかうためという思惑があるのは知っているが)基本は同じ理由で、フォルデリーク家も彼女を庇護する用意があると周知するためだ。
フィルは何も考えていなかったのだろうが、彼女が父親と兄に抱きついたのも上手く働いたはずだ。一部ではあまりの父親との疎遠さゆえに、実の娘ではないのではないかと言われていたらしいから。
その上でフェルドリックが彼女の素性を保障し、アレックスとの関係について言及、しかも王太子の側のごく近しい人間であると知らしめる。フェルドリックの立場は誰が見ても不動のものとなったし、彼がその気であれば今後も揺らぐことはないだろう。その彼がフィルの味方だと宣言すれば、フィルに手を出す事はその辺の貴族には難しくなる。
フィルは裏のある駆け引きが苦手だが、アレックスがこの先常にフィルの側にいてやれる保証はない。だから見えない防護を張ってくれた彼の配慮を、本気でありがたいとは思うのだが……。
(こいつは絶対俺たちで遊んでいる)
向こうで別の男に呼び止められたフィルとアレックスを交互にうかがい、人悪く笑うフェルドリックをアレックスは横目で睨む。
遠目に見えるフィルは、贔屓目を差し引いても一際美しいように思う。
彼女をザルアナック邸に迎えに行った時もそうだった。ずっと側で彼女を見てきたアレックスですら一瞬声が出てこなかった。
金色の髪は細かく編みこまれて結い上げられ、母が選んだという優美なドレスが、その均整の取れた長身を包む。顔を伏せ気味に静かに階段を下りてくる彼女は、いつもと雰囲気が違っていてなお、綺麗以外の言葉がなかった。
「え、えええと、その、あ、あまり見られるとい、居心地が……さ、さっさと出かけませんか?」
アレックスと目が合って、頬を染めて視線を揺らす様を見た時には、リックの誕生祝賀会なんて無視して宿舎に連れ帰ろうと真剣に思った。
生憎とそれは惚れた欲目ではない。迎賓宮の巨大な扉をくぐった瞬間、彼女は広大な会場の端から端に至るまでを、沈黙に陥れた。
天上から降り注ぐ無数の燭台の光が、彼女長い金の睫の影をほのかに染まった頬に落とし、淡い色の唇の艶を際立たせる。
会場へと降る階段へと足を踏み出したアレックスにフィルが続き、歩みにあわせて装飾品が音を奏でた。それが静まり返った会場にこだまする。
今となっては、誰もがその彼女をあの『フィル・ディラン』と知っているはずなのに、性別や年齢を問わず、皆が彼女を放心したように見つめていた。
「……」
フィルの方は、慣れない格好で浴びる注目に緊張しているようだった。アレックスに絡む腕が微かに震える。
(……「こんなところで襲われたら……!」とか考えているんだろうな)
驕ってもおかしくないほどなのに、と苦笑しつつ、「大丈夫」と声をかければ、彼女はじっとアレックスを見つめた後、硬い顔を緩めて笑い返してきた。
「っ」
あどけない表情に、強い衝動が生まれた。それに身をゆだねて彼女を抱き寄せ、軽くキスを落とす。
真っ赤になって絶句したフィルには悪いが、彼女との関係を周囲に理解させるという意味でも一石二鳥――。
……だったはずなのに。
その彼女はアレックスの思惑からまたも外れて、(文字通り)迷走中だ。
いまやすっかりアレックスから離れてしまっていて、寄ってくる人、特に男性の多さにだろう、「一体なんなんだ」という顔で露骨に引いている。
「だ、から、なんでああなるんだ……」
なんなんだと問いたいのはむしろ俺、とばかりに、アレックスは繰り言を漏らした。
離れていても、女性に囲まれているうちはまだ良かったのだ。身体的危害がない限り、フィルは害意を害意とみなさない。大事にしているものが違いすぎて、嫌みも嫌みにならない。セルナディアの打算に満ちた誘いも、得意の勘で一蹴した。
「虫除けがいないとみるやこれだ……知らないって怖いね」
アレックス同様、フィルを見ていたフェルドリックが小声で笑った。彼女の中身を知りもしないくせにフィルに群がろうとする男たちを見て、アレックスは顔をしかめる。
(あれだろうか、やはりフェルドリックの言うようにかまいすぎたか? その上開き直ったのもまずかったか? いや、考えすぎかもしれない。やはりフェルドリックがいるせい、そうでなければ別の何かが原因……)
目が合って、また目を逸らしたフィルに、眉根が寄る。それを隠そうと前髪をがしゃがしゃっと乱した。
嫌われたわけではない、と思う。だが、下手に近づいてまた逃げられたら? フィルの考えることは本当にわからないし、することもまったく予測がつかない。
何をどうするべきか、何をすべきではないのか――そんなことをいらいらしながら考えていたのだが……。
「っ、失礼する」
テラスに消えた彼女を見ていた男が三人、示し合わせるかのようにうなずいて足を踏み出した瞬間、微かにあった余裕も躊躇も霧消した。
アレックスは自分を囲む人々を押しのけ、急いでその跡を追った。