19-4.白猫
「おお、すごい……」
到来を告げる声が響き、広間の最奥にある王族専用の扉から、本日の主役、フェルドリックが姿を現した。
その瞬間、それまで自分たちに向けられていた耳目が一瞬で消えた。皆一斉に彼に向かって動き出す。
「……こうやって見ると、やっぱりすさまじく綺麗な人ですよね、中身はあんななのに」
「同意はするが……」
アレックスに「不用意なことを言わないほうがいいと、いつになったら学習するんだ……」としみじみ嘆かれてしまったが、まあ、それはいつものことだ。
傍らでは父と兄が顔を見合わせ、「……親しいのか?」「離宮で何度かという話は聞いていましたが」と呟いている。
人々の中心となったフェルドリックが身に着けているのは、内面と対照的な白い夜会服だ。おそらくとんでもなく上質な素材でできているのだろうが、作り自体はかなりシンプルで、目立った装飾品もつけていない。なのに、本当に目立つ。
体格は細身で、アレックスなどとは違って、服の上からでも鍛えているとわかるような、男性的な感じはない。かといって女性と見紛うような、兄のような美しさでもない。
穏やかな笑みを顔にたたえているけれど、柔和というわけでもなく、理性と意志の強さを感じさせる。自信と威厳のあるあの笑い方は、そういえばアドリオット爺さまのものと同じだ。
何より異質なのはその雰囲気だ。彼がそこにいるだけで場の空気がまったく違ってしまう。背筋を正さざるを得ないような、そんな感じがする。
同じように彼を見ていたヒルディスさんが、「さて、行ってくるといい」とアレックスに笑いかけ、片目を瞑った。
ため息でそれに応えた彼と共に、フェルドリックの方向へと歩き出すも、あまりの人の多さに近寄ることができない。その様子を遠巻きに見るだけになった。
とりあえず誰も贈り物なんか持ってきてなさそうだということだけは確認した。いざとなったら逃げ口上に使おうと思う。
彼を中心に人垣はさらに重なっていく。
「殿下、お誕生日おめでとうございます」
「このめでたき日にこのように拝謁がかなうとは、望外の喜びでございます」
なんたらかんたら、うんぬんかんぬん……皆口々にお祝いを述べているのだけれど、なんだろう、すごく妙な感じがする。
「ええと、なんか切羽詰まってるというか……お祝いってあんな悲壮な顔で言うものでしたっけ」
首を捻りつつ、アレックスを見上げれば、彼は肩を竦めた。
「王太子殿下のご機嫌取りに必死なんだろう」
「なんて勇気のある……いや、むしろ命知らずっていうべき?」
文字通り、必ず死に至ること請け合いなんじゃ、とフィルは顔を引きつらせた。フェルドリックはそういうのがものすごく嫌いなはずだ。
――なのに。
「……」
フィルは目を丸くして、フェルドリックを凝視する。
それでは足りなくて、目を眇めてさらに見つめてみる。
頭を動かして角度を変えてしつこく見、それから睨むように観察してみたけれど、やはり変わらない。
「……あれ」
「皆まで言うな」
「いつもあんなふうなんですか」
「命が惜しかったら、他人の前で本性を暴くなよ?」
アレックスの言葉に、フィルはコクコクと首を縦に振った。力が入ったのは、それが真実だと悲しいまでにわかるからだ。
そう、人垣の中心にいるフェルドリックは、『にっこり』『柔らかく』笑いながら、祝いを述べに立ち並ぶ人々の発する、追従だらけで面白くもなんともなさそうな挨拶に『丁寧に』『優しく』返している。
その姿は天からの御使いと言われても信じてしまいそうな、まさに理想の王子さま――。
彼が世間で、『慈悲と恵みの神の愛し子』と言われていると聞いた時は、どんな冗談だ?と真剣に思ったが、こうして実際に見て理解した。
「なるほど、悪質な上に、危険極まりない冗談だったんだ……」
皆完全に騙されている。あんな状態では魂を抜かれそうになってもきっと気付けない。
横のアレックスが「だ、から、どうしてそう墓穴を掘るようなことを口にする……」と呻き声を上げたが、それもまあいい。
「なんていうか、本当にろくでもない職業なんですね……」
大嫌いなことであっても、取り繕って完全に自分を隠さなくてはいけない立場にいる、そういうことなのだろう。
しみじみ呟いてしまい、それにアレックスが苦笑をもらした時だった。
「アレックス、フィル」
その完全無欠な王子さまが、彼を囲むにぎやかな人々の輪の外にいたフィルたちに、嬉しそうに呼びかけてきたのは。
「……」
キラキラとした空気(背筋が凍りそうだ)を振りまきながら、彼が一歩踏み出すごとにさあっと人垣が割れていく。まるで専用の道が即席でできて、そこを彼が自分たちのもとへと歩んでくるように見えた。
道を形作る人々の目線が彼の動きを追い、次いで彼の行く先にいるフィルたちへ得体の知れない視線を向けてくる。
「……すごい」
それもこれもすごいことなのだろうとは思うのだが、一番はやはりフェルドリックだ。彼は見事に瘴気を隠している。
でも悲しいかな、フィルの頭のチリチリは消えない。奴は危ないと直感が告げている。
騙されてくれない自分の剣士としての感性をありがたがるべきなのか、不幸に思うべきなのか――騙されてくれれば、すぐ近くで頬を染めているかわいい少女達のように夢と幸せとつかの間の平和に浸れるのに、とまたもしみじみとしてしまった。
「おめでとうございます、フェルドリック殿下」
先ほどまでが嘘のように静まった空間に、アレックスの低い声が響いた。礼をとる彼に慌てて倣う。その拍子に髪飾りがしゃらりと音を立てた。
アレックスに続き、フィルも危なげなく誕生の祝いと、彼の今後の栄えを祈る口上を述べる。
(慎重に、細心の注意を払って……)
もちろんここで失敗しても、アレックス以外の人目がある以上、フェルドリックが文句や不満を言うことはないだろう。
問題はその後だ。一生言われる。一生からかわれる。一生いじめられる。絶対そうだ。間違いないと断言できてしまう。
それを避けるためだけに、わざわざデラウェール図書館に行き、千年以上も昔の詩集を何冊も引っ張り出して作り上げた祝辞だ。そういう遊びを教えてくれていた祖母に、本棚の前で何回も感謝した。
「……神讃歌は古語だぞ。専門の教育を受けねば操れるものではない」
「誰だ、生まれも知れぬ馬の骨などと言ったのは」
またざわざわし出したけれど、周囲の反応も悪いわけではなさそうで、フィルは胸を撫で下ろす。
(あ、出た。暗黒瘴気)
フェルドリックが一瞬だけ満足そうに笑った。横目でアレックスを見れば、彼も同じことに気付いたらしい、少しだけ目が笑っている。
どうやら第一関門は突破できたらしい。
「来てくれてありがとう、二人とも。急なことだったから、無理かと思っていた。本当に嬉しいよ」
「っ」
(い、今なんと……?)
下げていた頭を戻したフィルは、フェルドリックからかけられた言葉に、目をみはった。
嘘だと分かっているのに、理性は冷静に「来いって脅したくせに」と告げるのに、こんな温かい言葉をフェルドリックからかけてもらえる日が来るなんて……、と泣きそうになった。
「……」
横からアレックスが憐れむような視線を注いでくるが、三度無視する。
彼に指摘されるまでもなく、知っているのだ、束の間の、しかも偽物の幸せだと。だが、人生には潤いと休息が必要なのだ。
「……殿下にお喜びいただけるのであれば、なんなりと」
感極まって言葉が出ないフィルに代わって、そつなく応答してくれるアレックスはさすがだ。
不意に、人垣から声がかかった。
「殿下、フィリシア嬢とはお知り合いで?」
腹黒で邪な空気を感じて振り返ると、小柄で恰幅のいい、知らない中年男性……貴族の知り合いなんていないから、当たり前といえば当たり前だ。
「お噂は様々お伺いしていたのですが、私は初めてお会いしまして」
その男性はフィルの顔を覗き込んできた後、全身を頭のてっぺんから足先まで舐めまわすように見る。彼の動きに応じて、指輪と腕輪、耳飾り、おそろいの太い金環が大仰に揺れた。
値踏みする意図を隠さない、不躾そのもののその仕草に、思わず眉根を寄せる。
「ホーセルン公爵、ご無沙汰しております」
気遣ってくれたのだろう、アレックスが一歩前に踏み出してくれて、結果彼からの視線が遮られた。その隙に深呼吸する。
「初めまして。フィリシア・フェーナ・ザルアナックです」
二人が一通りの挨拶を交わした後、フィルはかつて祖母に教えられた通り微笑を浮かべて定型の挨拶を口にした。
直後、公爵はそのアレックスを押しのけんばかりの勢いで、フィルへと踏み出してきた。またこちらの顔を凝視する。
さすがに戸惑ってちらりとアレックスを伺えば、彼の顔には少し厳しい色が混ざっていて、また緊張を覚えた。
「これまでお見かけすることはありませんでしたので。体が弱くていらっしゃるとお伺いしておりましたが、そうでもないご様子、何よりで」
(何より、という顔には見えないんだけど……)
なんだかギラギラしていて嫌な感じだ。
「アレクサンダー殿と随分と仲がよろしいようですな」
フィルの返事を待つことなく、また新たに話を振られたけれど、その脈絡もよくわからない。
違和感は他にもあった。こんなふうに言われることは珍しくないけれど、いつものとは違って、冷やかしているのとも、からかっているのとも、嫉妬とも違う、妙な気配がある。
「――ええ、ご覧の通りです」
「っ」
どう返事しようと思ったところで、アレックスに抱き寄せられて、フィルは目を点にした。
続いてごくりとつばを飲み込む。
公爵の雰囲気が変だとか、人前で何をするんだとかもあるけど、何よりアレックスの空気だ――わかる。彼は笑顔だけれど、本当はまったく笑ってない。
「……噂とは随分違うようですが、こうしてお目にかかればやはり美しい方、華には違いないと皆が気にしておりましてね。さすが美の女神の娘御だと……アレクサンダー殿も隅に置けない。いつからお付き合いをなさっておいでで?」
「長い、そして、深い付き合いですよ、公爵。先ほど両親も一緒におりましたが、ご覧いただけませんでしたか」
密かに緊張するフィルの肩を抱いたまま、アレックスが目を眇めた。自信の中にわずかな皮肉を交えた口調で返す。
彼の向こうに、父たちがこちらへとやってくるのが見えた。彼らの顔、特に父の顔がいつも以上に鋭いことに気付いて、今のこの状況はどうやらいいものではないらしいと悟る。
周囲をうかがえば、公爵と似たような顔で自分を見ている人たちはたくさんいる。
(ええと、本当になんなんだろう)
戸惑いいっぱいに顔をしかめる。
(よく分からないけど……何かまずいなら、周りに分からないように公爵をこっそり気絶させる?)
それぐらいならお安い御用だし、実行しようと足を踏み出した瞬間に響いた救いの声。
「噂が間違っていた、それだけの話だよ」
その主は父でも兄でもアレックスの両親でもなく、麗しの悪魔こと王太子さまだった。
「既に皆も知っているだろうけれど、彼女は騎士団のあのフィル・ディランだ。病弱なわけがない。去年の叛乱未遂の件やドムスクスが狂将軍の件でも活躍してくれているし、僕自身助けられたこともあるからね」
フィルが目をまん丸にして、再度近寄ってくるフェルドリックを振り仰いだのは、彼の言葉に単純に驚いたから。頭に猫を乗せている最中とはいえ、彼がフィルを褒めるなんてあり得ない。
だが、周囲が一斉に息をのんだ理由がわからない。
「……殿下もご存知で?」
苦いものを噛んだかのような顔をする公爵に神々しい微笑を向けつつ、フェルドリックはフィルの肩をポンと叩く。
「我が祖父の親友にして、建国の英雄アル・ド・ザルアナックの孫。さらには我が従弟殿の最愛の恋人ともなれば、僕にとっても大事な人だ。知らない訳がないだろう」
(い、とこ、の、さいあい……?)
趣味が悪いとか、物好きとか、いつもアレックスに言っているのに……いや待て、それよりもっと衝撃的な言葉があった――。
(だいじ……って、だ、だだだ大事……?)
「僕の幼馴染でもあるし――」
呆然と口を開けるフィルに、彼は優しく、優しく、そりゃあもう身の毛がよだつほどおぞましいまでに優しく、「ねえ、フィル」とふわりと微笑みかけてくる。
「……」
総毛立ちながらも失神しなかった自分を手放しで褒めてやろうと思う。