19-3.幕開け
(前にも何度か来たけど、剣も持ってたし、こんなドレスじゃなかったし、こんなに金属臭くもなかった。なんせ……)
「場違いだ……」
王城の迎賓宮に続く、長い石造りの階段を前に、フィルの気分は既によれよれだ。
何が倦怠に拍車をかけるって、結局手付かずのままのフェルドリックの誕生祝いだ。
以前アレックスへお祝いを悩んだ時、彼をびっくりさせるのにいいかもしれないと思った魔物。贈り物じゃないだろうと一笑に付したあれに、今回はかなり惹かれた。
洒落にならないと思うけれど、というか思うからこそ、フィルは今なおその誘惑と格闘中だ。
グリフィスとかは洒落にならなさすぎるからさすがにダメとして、レメント、あれならどうだ?
ネルやメルだと冷たい視線で見られておしまい。下手をしたら、フィルのほうこそ丸められて、ぽいっと『煮るなり焼くなりこき使うなり好きにしたらいい』と突き出されそうだけど、あのノリの良かった子レメントなら付き合ってくれそうな気がする。
(今度休暇をもらって、あの子を河南山脈に探しに行……ああ、うん、逃避だ、完全無欠に)
フィルは眉尻を下げ、大きくため息をついた。
目の前の重厚な建物は、階段の両脇に煌々と焚かれた篝火で下から照らされ、闇の中に赤く浮き上がっている。
周囲も煌びやかで、眩いばかりに華やかに着飾った人々で溢れていた。
「心底嫌そうだな」
「嫌そうじゃなくて嫌なんです」
極めつきは、フィルの横にいるこの人だ。
目を合わせると顔色を変えないではいられないとわかっているから、アレックスがザルアナック邸に迎えに来たその瞬間から、フィルは彼を見ないようにしている。
リアニ亭の女将が彼のことを「目の毒」と言っていたけれど、本当に『毒』。
実際、邸ではターニャどころかオットーまで、アレックスに見惚れていた。フィルの視線に気付いた二人は、我に返るなり「っ、だ、旦那さまやラーナックさまとは別種ですね」「あれはセフィアさまの血だわっ」と言い訳して奥に消えて行ったけれど、二人きりにしないでほしいと叫びたかった。
「フィル」
――声が笑っている。
「……なんですか」
フィルはアレックスに向けているとは我ながら思えない、愛想のない声を返した。もちろん、顔は正面に向けたままだ。
正装をして、髪を少し撫で付けているだけだが、アレックスは異質なほどに綺麗だと思う。
堂々とした、鍛えられた長躯に、洗練されていて隙のない物腰。仕草も迷いがなくてとても美しいし、切れ長の目にも薄めの形のいい唇にも、自信と余裕が浮かんでいる。
昔あった可憐さはもう完全に消えてしまって、服からのぞく手首も首筋も筋張っていてひどく男性的だ。
今更と言えば今更だけど、格好が違うせいか、別人みたいに見えて落ち着かない。
「なぜこっちを見ない?」
「なぜか知ってるくせに……」
彼は絶対にこっちの動揺を知っている。さっき馬車の中でも散々遊ばれた。知っていて、敢えて名を呼んで自分に目線を向けさせて、さらに動揺するのを笑う気だ。
「アレックス、最近意地悪になりましたよね」
むくれてつい文句を言ってしまう。
「好きな子はいじめたくなるものなんだろう」
「好きって……う」
――やられた。
彼の言葉に思わず顔を上げてしまって、フィルは真っ赤になった。アレックスがそんなフィルに声を立てて笑う様を、周囲が物珍しそうに眺めている。
「って、遊んでる場合じゃなかったな」
「やっぱり遊んでるんだ……」
睨むフィルに、再度笑った彼は、大扉を前に表情を改めた。
近寄りがたい感じのする、凛とした顔に別の意味で緊張しつつ、差し出された腕を取る。
扉が重い音を立てて、開く。
昼間のような光に目を細めつつ、アレックスと連れ立って会場に入った直後、フィルは突き刺さるような視線を感じて、息を止めた。
「……っ」
階下の広間から向けられるのは無数の瞳だ。さっきまで確かにあったはずのざわめきもすっかり消えている。
(なにこれ……)
以前体験したどの夜会とも違う異様な雰囲気に、アレックスに絡ませている腕に力がこもった。傾斜の緩い階段を降り始めたが、足元が覚束ない気がしてくる。耳飾りが立てる、しゃらしゃらという音が、殊更に大きく鼓膜を打つ。
見られるのには結構慣れている。祖父は目立つ人だったし、フィル自身も変わっているらしいから、よく視線に晒されてきた。
(そうか、それでも動揺しないですんでいたのは、自信があったから……)
そう悟って、顔を曇らせた。
服装はドレス――どうしようかと考えていたら、知らない間にアレックスのお母さんのセフィアさんが用意してくれていた――で、やわらかくて着心地はいいけれど、足が少しずつしか動かせない。靴も、低いとは言え、踵があって違和感がすごい。そういう格好だから当然剣も持っていない。こんなところを襲われたら、かなりまずい。
「大丈夫」
斜め上からの小声に顔を上げれば、隙のない表情をしていたアレックスが、目が合うなり苦笑を零した。きっと情けない顔をしているのだろう。
歩みを止めた彼が人々からの視線をさえぎるかのように、身を寄せてきた。
再度「大丈夫」と言い聞かすように囁かれて、フィルは詰めていた息を吐き出した。
「とても綺麗だ。いつものように堂々としていればいい」
(ああ、アレックスだ……)
フィルが迷った時、困った時、いつも手を差し伸べてくれる。
向けられる優しい笑みに、ちょっとの気恥ずかしさとそれを上回る安堵を覚えた直後、顎に彼の長い指がかかった。
「……?」
そこをごく自然に持ち上げられて、フィルが目を丸くした瞬間、なんの躊躇もなく、頬というより唇といっていいような場所に、彼の唇が触れた。
「っ」
下方の空間で悲鳴のような叫び声が広がったが、フィルも負けずに叫びそうになった。そこを咄嗟に堪えた自分は、こんな格好をしていてもちゃんと剣士――。
(って、そうじゃないっ)
フィルは慌ててアレックスから距離を取ると、声を抑えつつも抗議を試みる。
「こ、この間も言いましたが、そういうのはなしで!」
「照れられると、もっとしたくなるんだが」
睨んだところで真っ赤な顔では怖くないのかもしれない、アレックスに懲りた様子はない。綺麗な微笑と共に、親指が怪しく唇に落ちる。
(そう、だった、この人はこの人で別の意味で危険だった……っ)
そう実感して逃げる態勢に入った瞬間、けれど不覚にも腕を捕らえられてしまう。
「逃がさない。『監視』するように、とフィルの父上に言われているし、大体フィルの横は俺のものだろう」
意味深に笑いかけてくる彼は、『毒』どころかフィル的に『凶器』としか言いようのないもの……。
(ああ、うん、アレックスにこんなふうに見られることを思えば、その他の人いっぱいにわけのわからない目で見られて、ざわざわされておくほうがましだ……)
今日はやはり試練の日らしい、と悟りつつ、フィルは涙目で会場フロアに足を下ろした。
だが、天はフィルを見捨てなかった、救いの神がいた。
そして、フィルは今、その神こと、アレックスのお父さんのヒルディスさんとお母さんのセフィアさんと一緒に過ごしている。
アレックスが先に会場に到着していた彼らを見つけ、二人の方向に歩いていく時、彼らから話しかけられた瞬間、フィルが彼らにドレスのお礼を言った時、それにセフィアさんがにっこり笑い、「可愛いわ」と言って抱きしめてくれた時、「そうだな、可愛いな」と言って頭をなでてくれたヒルディスさんにもついぎゅっとしてしまった時――それぞれ、沈黙、騒然、沈黙のち騒然、騒然、騒然と周囲は相変わらず不思議だったけれど、二人と話をしているうちにやっと気が落ち着いてきた。
アレックスの両親の雰囲気も優しい抱擁の感触も、全然違う人なのに、今は亡き祖父母を思い出させてくれる。
周りからの視線も、抑えた興奮の混ざるひそひそ声も続いているけれど、おかげであまり気にならなくなってきた。
アレックスと一緒にいると安心するのと同時に落ち着かなくもなるから、彼らの存在も態度も本当に、ものすごくありがたい。
彼らのおかげで余裕を取り戻したフィルだったが、彼らの息子であるアレックスが、逆に楽しくなさそうな顔をしていることにふと気付いた。
「あの、どうかしましたか」
「……いや」
また何かしたかと慌てて訊ねれば、彼には珍しい歯切れの悪い答え。
「いやあねえ、拗ねているわ、この子」
「ああ、さっき仲間はずれにされたから」
「……」
赤くなったアレックスに、彼の両親はさらに楽しそう?になった気がする。フィルは目を瞬かせる。
「いいのよ、みなまで言わなくても私はあなたの母親よ? 理解しているわ、ねえ、ヒルディス?」
「ああ、父親の私ももちろんだとも。安心するがいい、アレクサンダー」
「……何か違う方向に持っていく気だな?」
「大丈夫、信頼なさい――というわけで、ヒルディス、出番よ?」
「そうだな、セフィア。フィルにマザコンと思われては不憫だから、ここは私だな。仕方がない、フィル同様お前も抱きしめてやろう」
「っ、誤解されるようなことを言うなっ」
顔をさらに引きつらせてちらりとこちらを見てきたアレックスに、彼の実の親であるはずの二人ははいともいいえとも言わずにっこり笑った。
「聞いた、ヒルディス?」
「聞いたとも、セフィア」
「いやあねえ、照れてるわ。この子」
「仕方がない、お年頃だ。親の愛情なんていらないと言ってみたい時期なのだよ、セフィア」
「仕方がないわね、好きな子の前だと特にそういうものでしょうし。けど寂しい話よねえ、ヒルディス」
「だ、から、なんだってそうなるんだ……」
……なんだかよくわからないけど、たぶん面白い親子なんだと思う。うんざりとして天井をあおいだアレックスをみて、フィルは目を丸くした後、小さく笑った。
ちなみに、彼らのもう一人の息子であり、アレックスの兄であるスペリオスさんは、運命神の斎姫であるアレクサンドラの禊とやらで、神殿のあるオルツ地方にいる。
サンドラは『ああ、もう何だってこんな時に。私以外に誰がフィルを庇えるっていうの。第二王女殿下はまだ幼くていらっしゃるし……』と本当に心配してくれて、『一年前フィルをいじめた張本人のくせに』とスペリオスさんにからかわれていた。
彼女は今大変らしい。神託と称して勝手なことをしていた両親と決別することになった上、彼らの起こした不祥事の後始末に奔走している。
『ごめんね、フィル。彼女についていてあげたいんだ』
そう言ってくれたスペリオスさんの心遣いもやはり温かいものだった。彼ら家族の間に流れている空気はちゃんと優しくて、いつもほっとさせられる。
不意に種類の違う視線を感じた。
「あ……」
目を向けた先、割れる人垣の向こうからやってくるのは、フィル自身の家族である父と兄だ。
「フィリシア」
「!!」
その父に名を呼ばれて、フィルはぱっくりと口を開けた。こうしてあらためて見てみると正装した兄はもちろん、父もすごく人目を惹く――けれど、フィルの驚きの理由はそこじゃない。
「……なんだ、その顔は」
「だ、だって、今、名前……」
(じゃあ、あの襲撃の朝のあれもやっぱり……ああ、そうか、母がくれた名だからだ。だから彼だけはフィルじゃなくて、フィリシアなんだ)
そう悟って、フィルは目の前まで来て今日も顔をしかめている父を呆然と眺めた。
彼が自分をフィルと呼ばないのは、自分が好かれていないからだとばかり思っていた。けど、多分そうじゃない――厳しい顔をしている彼の背後に、まったく覚えていない母の影が見えた気がした。
「っ」
「っ!!」
湧き上がってきた衝動のままに、ぎゅっと彼に抱きつく。
「……まあ、顔が赤いわ」
「見物だな」
そんなセリフを、アレックスの両親が誰かに向けていたけれど。
父が硬直したことで、すぐに恥ずかしくなって、誤魔化すかのように横の兄に抱きついてしまったけれど。
「結構抱きつき癖があるみたいで……」
抱き返してくれて、いつものように背をとんとんと叩いてくれた兄が、そんなセリフを誰かに向けて言っていたけれど。
「いやあねえ、今度こそ拗ねたわ」
「仕方がない、今度こそお前も抱きしめてもらったらどうだ」
それからアレックスの両親の笑い声が響いたけれど。
――気分は無敵だ。
兄から離れて、にっと笑ってアレックスを見上げれば、彼は眉をはね上げた後、笑ってくれた。
それでさらに無敵な気分になる。こんなアレックスが横にいてくれて、その上大事な人たちも側で見ていてくれるのだ。大丈夫じゃないわけがない。
フィルは大きく息を吸い込むと、探るように自分たちを見ている周りの人々へと挑戦的に笑ってみせた。
ただ、その無敵な気分が通じない、そんな相手を世間では天敵と言う――そう身に染みるまで、あとほんのわずか。