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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第3章 接近
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3-2.苦悩

 ここのところは雨続き。

 雨は好きだし、冬の雨は雪とはまた違った風情があってフィルには目新しいけれど、それも度を過ぎれば、じめじめしてなんだか気分が沈むというもの。

 しかもその憂鬱さに拍車を掛けているのが、これから先のしばらく毎日毎日やってくる、各科目の最終試験だ。


「駄目だ、この間のは事情が事情だったからで例外なんだ。そもそも人に簡単に甘えるな」

「フィルー、そこを何とか」

「俺、数学苦手なんだよ、公式なんか出されたってさっぱりだ」

「なあ、アレックスに頼んでくれよ」

「い・や・だ。大体アレックスに頼りきったら『なんて情けない』って愛想尽かされるぞ」

 ――そう、それだけは絶対に避けたい。

 夕飯時の食堂で同期たちに囲まれて、フィルは顔を顰める。

 彼らがフィルに詰め寄ってきている理由は、その試験のヤマをアレックスに張ってもらえないか、というものだ。

 切羽詰って泣き付きたくなる気持ちがわかるほど、先日の法律学の彼の教えは見事だった。なんで?と首を捻りたくなるくらい彼が強調したところばかりが問題になっていて、そうでないものもアレックスの説明をいちいち辿ればなんとなく正解に行き着ける、そんな風だった。


「馬鹿、愛想尽かされなくったって、試験に落ちたら意味がないだろう!?」

 これまた真実――そういえば、人間とは楽を覚えれば流されてしまう生き物らしい。爺さまが自分に良く言い聞かせていたあの言葉は真実だったと、男ばかりに囲まれてフィルは溜め息をつく。

 婆さまの台詞じゃないけど、どうせ囲まれるなら女の子がいい。ああ、でも今の問題はそうじゃなかった。


「お前、自分が数学の成績はいいからって仲間を見捨てる気だな……」

「エド、あのね……」

「まさか、お前は既にアレックスにヤマを張ってもらってるとか」

「それはない。いつも教えてもらってはいるけど」

 ぽろっと漏らしてしまって、『しまった』と思った時には遅かった。

「う……」

 仲間たちがにわかに殺気立った。

「フィル……見損なった、お前がそんな奴だったなんて」

「そうか、お前だけ――裏切り者め……」

「ふーん。友達がいないな」

「メアリーはきっとそんな狭量なフィルを嫌いになるだろうな」

「……」

 仲間たちが嫌な結束を始めて、フィルは顔を引き攣らせた。

「……うー、わかったよ」

 夕飯のための匙を動かしていた手を休めてそう呻くと、仲間たちの顔に喜色が広がった。

「でもアレックスは駄目。代わりに今まで教えてもらったポイントを、私が教えるというのでどう?」


 雨音が室内にまで響いてくる冬の嵐の日、フィルの周囲は幸いにもそれ以上荒れることなく、そうしてなんとか妥協点が見つかった。



* * *



(とりあえず汗を流して、後は寝るだけにしてから、約束の談話室……)

 そう決めたフィルは、シャワーを浴びようと着替えの服をクローゼットに探る。

「……あ、しまった」

 そして、そこにこっそり干している下着が一枚も乾いていないことに気付いた。

「うーん」

 今日の訓練ではひどく汗をかいてしまったから、今身に付けているのを使うのも嫌だ。かといって湿った服、特に下着を身に付けるのも気持ちが悪い。

(となると……)

「……」

 フィルは部屋の奥、窓際においてある私物のソファに腰掛けて、フィルには理解不能な本を読んでいるアレックスへと視線を走らせた。

「……どうかしたのか?」

(おお、さすが剣士、気付いた)

 見られていると察したらしいアレックスがページから目を上げないままそう訊ねてきて、フィルは妙な感心をする。って、問題はそこじゃない。

「いえ、なんでもないです」

(うん、まあ、大丈夫だろう)

 そう能天気に考え、フィルは着替えを抱えて立ち上がった。


 入団してもう四か月近いが、フィルの性別がばれる気配はない。

 背は大半の男の人より高いし、鍛えているせいで普通の女の子のような華奢さもない。胸にしたって無いわけではないと思うけれど、そんなに目立つものでもないと思う。念のため下着で押さえてはいるけれど、それだって必要ないかもしれないと最近思うし、特に試験に必死の今は自分だって忘れそうになることに、みんないちいち気を払ったりしないだろう。


「アレックス、皆と試験勉強してきますね?」

 シャワーを済ませて、フィルは念のため厚手の上着を羽織ると、アレックスに声をかけた。

 それからふと首を傾げた。

(そういえば、私がアレックスを見ると、彼はいつも目を合わせて笑ってくれるのに、夕方以降、部屋に戻ってきてからはあまりないかも。特に夜……)

「ああ」

 今もそうだ。彼は本から顔を上げようとしなくて、フィルは自分の考えに確信を持った。

(ほら、疲れていたり、何かに気を取られていたりすれば、いちいち人の些細な変化になんて気付かない)

 くるっと踵を返して、そういえばノートを忘れたともう一度踵を返して、だが今度はソファの上に前かがみになったアレックスと目が合った。

「……」

 珍しくもぽかんと口を空け、目をみはっていた彼は、直後にその綺麗な顔を引き攣らせた。

「……っ」

 いつにないその様子に、まさかいきなりばれてしまったのかとフィルは息を止めた。咄嗟に手で胸を隠そうとして慌てて押し留める。

(よ、余計怪しいじゃないか! というか、私の馬鹿、何だってあんな楽観をしたんだ――)

 フィルは全身を強張らせたまま、額に汗を滲ませる。


「べん、きょう、みんな、と……?」

「えっ、ああ、は、はい、そうです」

 声が裏返ってしまって、それでさらに青くなった。

(怪しい、絶対今のも怪しい。アレックスの質問はただの言葉の反復だったんだから、普通にしてればよかったのに、ああ、私の馬鹿っ)

「っ」

 けれど、アレックスはそんなフィルにかまわず、音を立てるような勢いで顔を伏せると、右手で額の髪をかき上げた。そのまま頭を抱え込み、何事かを呻く。

「ああああの……」

「……」

 動揺を含んだフィルの声も聞こえない様子で、アレックスは膝の上に肘をついた体勢のまま、ぶつぶつ言い、黒くて真っ直ぐな髪をわしわしとかき回している。

(え、ええと、これは、ばれた、とかじゃない、のかな……?)

「あの、どうか、しました?」

「い、や……どうかしているのは、そうか、俺なのか……俺?」

 ドキドキしながら恐る恐る訊いた質問に、アレックスは停止した後、天井へと顔を向ける。そして、ちらりと横目をフィルに向けてきた。

「あーもー……」

 そして、形容し難い顔をして再び顔を俯けると、再び奇妙な唸り声のようなものをあげた。

(な、なんなんだろう……?)

 顔を引き攣らせるフィルの目の前で、やがてアレックスは息を吐き出しながら立ち上がった。


「俺も付き合う」

「……へ? 付き合うって……」

「試験勉強に。だから約束をしている奴らをここに呼んで来るといい。じゃなくて俺が呼んでくる」

 アレックスの言葉に頭が付いていかなくて、フィルは口をぽかんと開けた。

「それからフィル、風邪気味みたいだから、これも上から羽織っておけ」

 そう言いながら、アレックスは自らのクローゼットへと歩み寄り、そこから彼の持っている上着の中でも1番厚手のものを取り出すとばさりとフィルへとかけてきた。

(あ、やっぱりすごく大きい――じゃなくて。ええと、な、なんだか色々混乱して……そ、そうだ、焦らないで1つずつ、だ)

「あ、あの、お、お疲れでしょうし、そんなご迷惑をおかけするわけには……」

「迷惑じゃない。むしろそうしたい、というかそうさせてくれ……」

「え、で、でも……そ、それにここにみんなを呼んでしまったら、結構遅くまで勉強するつもりですし、アレックスが寝られなくなります」

「まったく気にしなくていい――寝られなくなるのはどうせ一緒だ」

 そう言いながら、彼は顔をひどく顰めた。

「へ? えと、そう、ですか……? じゃ、じゃあ、せめて私が彼らを呼びに……」

「言っているだろう、フィルは風邪気味なんだから温かくして、ここにいればいい」

(あ、あれ……)

「え、えと、風邪、引いてないですよ。引いた事だって滅多にないですし……」

 一瞬アレックスの顔が困ったように歪んで見えた。

「……引いてる。ほら――」

(え……)

 腕を取られてぐいっと引き寄せられる。目の前になったアレックスの体から熱と彼の香りが伝わってきて、それになぜか肌があわ立った。

(あ……)

 視界の端に彼の右腕が上がる光景が映り、奇妙なことにそれがひどくゆっくり動いているように感じる。

 自分へと動いてくるその手を無意識に目で追えば、温かい感触が額に落ちた。

「……っ」

 その腕の向こうにある青い瞳と、ごく至近距離で視線が絡んだ瞬間、心臓が異様な音を立てて跳ねた。

(え……あ……)

「ほら、顔だって赤い」

 低い、今まで聞いたことがないような音を含んだ不思議な囁き声が、ごく側から耳に響く。

「……」

 それに今まで体験したことがないほど、全身が熱くなっていくのを自覚して……納得した。

「はい」

 絶対ひどい熱がある。ほんっとうに珍しく風邪を引いてしまったのだろう。人生で4回目だ。


「頼むから、大人しくしていてくれ、色んな意味で……」

 目をみはった後、ガクリと肩を落としたアレックスは長々と息を吐き出すと、フィルの頭に手をぽんと置き、みんなを呼びに部屋から出て行った。



* * *



 勉強道具を持って約束の談話室に集まった五十二期生の前に現れたのは、アレックスに頼るくらいなら自分が皆に教えると言い張ったフィルではなく、切望していた当の彼。

「試験勉強ならうちの部屋でやらないか? フィルが風邪気味なんだ」

 『これで数学はいただき』と小躍りしながら、彼らが向かった先の部屋には、“病人らしく”もこもこと着膨れたフィル。

 「みなに風邪をうつしてはいけないだろう」と彼女は一人窓際のテーブルに隔離されて、ありがたくアレックスの試験予想を拝聴した。

 ちなみに、その姿は勉強を教えてくれるアレックスの長身に遮られて、フィルの同期たちからはほとんど見えなかったそうだ。



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