2.醜
そんなある日のことだった。
王宮の小さな庭園の木の下で、少女が泣きながら、はるか上の枝に引っかかったリボンを見つめていた。
その子が先頃金で爵位を買った男爵の養女であることを思い出す。見た目のいいその子を、そういう趣味の上位の貴族にくれてやって、更なる高みに登ることがその父親の野心。それゆえに王宮に出入りさせられているその子は、ミレイヌたちにとって虫けら以下の存在だった。
苛つきも手伝って、視界に入ったその存在と耳に入った彼女のすすり泣く声に眉をひそめ、そして……嗤った。
(ゴミ同然の存在なのだから、どうせ今も泣いているのだから、もっと泣かせてやろう……)
自身の苛立ちを自分より弱いその子で解消する――おぞましい思考は、その時のミレイヌにとって、怖ろしいことにどうしようもなく甘美だった。
暗い思いを抱えて少女に近付き、口を開く。
「っ」
だが、その子はミレイヌを見た瞬間、息を止めた。露骨な怯えを見せて後退ると、転びそうになりながら逃げていった。
「ちっ」
ストレスを解消し損なったと舌打ちし、何気なく視線を落とした、すぐ傍らの泉。その水面に目が釘付けになった。
(……誰だ、この、ひどく醜い人間は……)
悪意と傲慢さの滲み出た目元、いやらしい笑いをたたえて曲がった口元、人というよりも絵画に描かれる悪魔のように醜く歪んだ顔……。
驚きに丸くなった目も、叫びそうになるのを抑えるために口元にやった手も、確かに自分と同じ動き。
(なんだ、これ……)
あまりの醜さに呆然とし、次いで体が震え出した。元の造形の問題ではなかった。醜怪そのもの――寒気がするほどに。
あの少女がミレイヌを見るなり逃げ出した理由を、ミレイヌはそうして悟った。
「っ」
恐怖を感じて、その水に手を突っ込んだ。自らの顔を見ずにすむよう、表層をバシャバシャと乱す。飛沫が飛び、袖や顔を濡らしたけれどやめられなくて、そのまま水をかき混ぜ続けた。
だが、水紋によって乱れた顔はさらに醜くなっただけ。悲鳴を上げそうになって、両手で顔面を覆うと、ミレイヌその場に立ち尽くした。
(誰だ、俺は? 一体なんだんだ……?)
自分がなんなのか、わからない。わからないのに、自分がとても醜いことだけはわかる。
それは恐ろしいことだった。吐きそうなくらい気分が悪くなって、ふらふらとその場から離れようとした時だった。
「そんなに走ると転んじゃうよ? 焦らなくったって大丈夫だってば」
左方から澄んだ声が聞こえてきた。
「あれよ、あの赤いリボンなの、失くすとまた怒られてしまうの」
聞き覚えのある声に、視線をそちらへ向ければ、先ほど自分から逃げた少女が、ミレイヌを今の状態に落としたあいつの手を引いて走ってくるところだった。後ろにはアレクサンダー・エル・フォルデリークもいる。
「っ」
慌てて木陰へと身を潜めた。あの二人にこんな惨めなさまを見られたくなかった。
「ああ、そうだね、あれはアニーには取れないな。ちょっと待ってて」
「フィル、俺がやる」
「でもアレックスじゃ、確実に枝が折れますよ?」
「……」
「いい子で待っててね、アニー」
そいつは笑いながらあの子の頭を撫で、躊躇う様子すらなく、するすると王宮の木を登っていった。
(何考えてるんだ……なんなんだ、あいつ……)
唖然とした。
「お兄ちゃん、ありがとうっ」
まだ若い木の上でリボンを手にし、そいつは得意そうに笑った。瞬間、そいつが踏み場にしていた枝が音を立てて折れる。
「フィルっ!」
「っ……あ、平気です」
足場を失ったそいつは、器用に途中で枝をつかんで落下を免れる。そして、そいつを受け止めようと下に走り寄っていたアレクサンダー・エル・フォルデリークへと笑って見せた。
「お、お兄ちゃん、ごめんなさ――」
「アニー、後ろを向いてくれる?」
驚いたのか、再び半泣きになった女の子の目の前に、そいつは身軽に飛び降りると、やはり笑いかけた。
無器用な手つきで、その子の髪へとリボンを結わえる。
「ええと、こ、こんな感じ……?」
「……俺がする」
アレクサンダー・エル・フォルデリークが苦笑して、奇妙に歪んでいたリボンを結わえ直すうちに、その女の子はまた笑い出した――あの子が本当にさっき自分を見て怯えて逃げた子なのだろうか、と疑いたくなるくらい楽しそうに。
「フィル・ディランっ、お前はまたっ!」
「げ」
(あれは……庭師、か?)
小汚い服装の老人が真っ赤な顔をして走ってくる。そいつは顔を引き攣らせると、その女の子を抱き上げてアレクサンダー・エル・フォルデリークに押し付けた。
「お兄ちゃん?」
「アニー、とりあえずそっちのお兄ちゃんと逃げて」
「でも……」
「大丈夫だ、アニー、フィルは怒られなれているから」
少女を抱えあげて笑ったアレクサンダー・エル・フォルデリークの顔に、更なる衝撃を受けた。
あんなふうに笑ったのを見たことがなかった。そもそも笑うとは思っていなかった。何より……彼の笑顔にはミレイヌのような醜さがなかった。
(……何が、一体何が違う……?)
疑問がさらに増えてしまう。
そいつの前まで来て、顔を真っ赤にして怒鳴っていた庭師の老人は、それでもどこか楽しそうに見えた。
そいつと話すうちに庭師は次第に笑い出す。少し離れていたところにいたフォルデリークも、彼に抱かれていた少女も、彼らにつられるように一緒に笑い始めた。
「……」
その光景がなぜか懐かしく見えて……なのに、ひどく遠く見えた。
そして、なぜだろう、無性に悲しくなった。
その女の子を再び見かけたのは、それから一月ほど経った頃だった。
例によって所在無く、人気のない場所にいたミレイヌがそういう場面に遭遇するのは、必然だったのかもしれない。
自分の父親ほどの年の子爵が下卑た笑いを浮かべながら、怯える少女を引きずって、さらに人気のないほうへと歩いていく――その意味が分からないはずはなかった。
「……」
関係のない話だ、そう思って踵を返したのに、その瞬間、あの二人と笑っていたあの子の年相応の顔を思い出した。
そうしたら……、
「セルーガン子爵、私の小さな友人にどのようなご用件がおありなので?」
なぜか声をかけてしまっていた。
「っ、ジュ、ジュリアン殿……?」
その子にいつかのように怯えられるとまずいと思って、顔を見せないように近づき、その頭に手を置く。
その頭が小さくて、髪も柔らかくて、こんな幼い存在を卑しい欲望の対象にしている父親と子爵を軽蔑して……自分も同類だと気付いて動揺した。
あの日、自分はこんな小さな存在にあたろうとしていたじゃないか。自分はこいつらと何一つ変わらない。自分も醜い――。
「……アニー、久しぶりだね、元気だったかい? あの木に引っ掛けた赤いリボンは今日はしていないの?」
なんとか動揺を飲み込んで、あいつが呼んでいたその子の名を呼んだ。自分でも引きつった笑顔をしているとわかっていたから、それに気づいたこの子が以前のように泣き出したり逃げ出したりしないよう、内心で必死に祈った。
「私の友人なんです、セルーガン子爵。フォルデリーク公爵家のアレクサンダー殿とも特に親しい様子で、彼に彼女のことを頼まれておりまして……どういったご用件かお伺いしても? ずいぶんと手荒に扱っているように見えたのですが?」
さりげなく、その子を自分の足の後ろに回した。
言葉使いだけは普通だが、実質は有力この上ない公爵家の名を利用しての威圧だ。
他人の名、しかも仲が良いとはまったく言えない彼の名を借りるなんて、とも思ったけど、彼はこういうことであれば、名を騙ってもおそらく怒らないだろう。
彼は自分とは大きく違っているようだから、と思った瞬間、また胸が痛んだ。
そうして、何事かをしどろもどろに呟きながら、あたふたと走り去っていく子爵を見送った。
上手く事が進んで思わず息を吐き出せば、呆気にとられたように自分を見上げていたその子と目が合って、また息をのんだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
前のように逃げ出すかと思ったその子は、けれど今度は泣き笑いを浮かべた。ミレイヌの足へとぎゅっと抱きついてくる。
「……」
その感触に、こんなふうにじゃれ合っていた領地の友人を十年ぶりに思い出した。
「すごく怖かったの、本当にありがとう」
少女はお礼を繰り返し、ミレイヌを見上げて、満面の笑みを浮かべる。
その顔に、自分にもこんなふうに笑いかけてくれるのか、と我ながら驚くほどの衝撃を受けた。
「……いいかい、今度誰かにこんなふうにどこかに連れて行かれそうになったら、ミレイヌ家のジュリアンのお嫁さんになる約束をしていると言うんだよ? お父さんにもそう言うんだ」
「ミレイ……ジュリアン?」
「そう、ジュリアン・セント・ミレイヌ。さあ、もうおゆき」
そう言ってアニーを見送って、ミレイヌはその場にしばらく立ち尽くしていた。
ああ、自分はどこかで何かを、多分すごく大事なことを間違えたのかもしれない――やっとそう思い始めていた。
「君まで少女趣味の気があったとは、知らなかった」
「っ」
その声に飛び上がらんばかりに驚きながらも振り向き、同時に跪いた。
(王太子殿下だ)
十年前の父のもくろみは外れ、才能でも人望でも後ろ盾でもセルナディア王女を突き放し、今では第一王子のこの方が太子の座についておられる。よほどのことがない限り、彼の地位はこの先も揺るがないだろうというのが、大方の見方だ。
見た目といい、雰囲気といい、彼を前にするとミレイヌはいつも圧倒される。常に柔らかく微笑んでいらっしゃるのに、周囲の空気がビリビリと震えている感じがして、敬服するより他に選択がなくなる。
そんな方に声をかけられることなど、今まで一度もなかったのに……。
(――コワイ)
何がと言うわけではない。けれど、下げた頭に彼の視線を感じるうちに、伏せた顔の額に知らず汗が滲んできた。
「ミレイヌ、君、今暇でしょう?」
「……は? は、はい」
「今度からの視察に同行するように。近衛の長には言っておくから」
だが、殿下はそうとだけ仰って、そのままゆっくりと通り過ぎていかれた。
「し、さつ……って、あれだよな、即位の地固めって言われてる……それに同行? ……俺?」
ミレイヌの実家は名の知れたセルナディア王女派だったし、ロンデール副団長のように個人的に王太子殿下に気に入られているわけでもない。むしろ一番遠いくらいの関係で、しかもこの間の剣技大会にいたってはあんな体たらくで……。
「なんで選ばれるんだ……?」
その栄誉に感激することもお礼を申し上げることも忘れたまま、遠ざかっていく殿下のすらりとした背を、馬鹿みたいに口をあけて見送った。