18-9.未知
アーサーがやってきて、彼と連れ立って王宮の温室に花を見に行った。
ガラスに囲まれた空間は温かく、一足早く春の花が咲き乱れていて、空気まで華やかだ。
「……あ」
温室のガラス越しに、中庭で女性たちに囲まれているアンドリュー・バロック・ロンデールを見かけ、ナシュアナは息を止める。
社交界で一番人気があるのがアレクサンダーの兄で、その次が彼。アレクサンダーは人気があるけれど、爵位がないせいか、どちらかといえば令嬢の個人的な思い入れという面が強いらしい。
「……」
最低限の礼儀は弁えているものの、基本的に女性たちにそっけないアレクサンダー兄弟と違って、その彼は今も女性たちに丁寧に優雅に接し、綺麗に笑っている。いつもならさすがと思うそのそつのなさと秀麗さが、癇に障った。
「相変わらず大人気ね、ロンデール副団長」
「家柄はもちろん、才能にも恵まれ、お人柄も素晴しくていらっしゃいますから、当然かと」
皮肉を交えて零した声に、アーサーがいつもと同じようにまっすぐな答えを返してきた。つい乾いた笑いを漏らしてしまう。
(その人柄のいい人が、ラーナックの命を盾にしたの。彼をその命ごと道具のように扱って、フィルの意思を無視して、彼らがお互いを思う気持ちにつけ込んで、自分の、家の思うままにしようとしたの……)
――……ナンデアンナカオヲシテイラレルノ。
冬の日差しを受けて、彼の細い茶の髪は金色に、肌は白く輝いて見えた。その姿を見つめる。
「……アーサー、少し彼と二人で話がしたいのだけれど」
アーサーが一瞬驚きを顔に浮かべた。すぐに平静な顔に戻り、「畏まりました」とだけ言って、ロンデールの方に歩いていった。
「時間を割いてくれてありがとう」
「いえ。殿下がお望みとあればいつでも」
樹木に囲まれた人気のない小さな庭園で、いつものように柔和に丁寧な返事をよこしたロンデールに、ナシュアナは正面から向き合う。
茶色の綺麗な髪の間からのぞく、緑灰色の瞳は優しげ。実際そうなのだと思っていた。彼は以前、ナシュアナがどうしようもなく情けなかった頃から、それでも見下げたり侮ったりせず、丁寧に接してくれていた。何気なくかばってくれたこともあった。
きちんと話すようになったのは、フィルがナシュアナの護衛のために王宮に来るようになってからだ。
タンタールへ行く際に知り合ったという彼とフィル。フィルは彼に対していつもどこかぎこちなくて、彼もそれに気付いているようだった。そのせいだろう、彼がいつも最初に話しかけるのはフィルと一緒にいるナシュアナで、それを見るフィルが空気を緩ませるのをどこか切なそうに見ていた。時折フィルが笑みを彼に向けると、本当に嬉しそうに笑う。
フィルは気付いていないようだったけれど、彼はフィルが本当に好きなのだと思う。
だからこそ、なぜ? と思わずにはいられない。いい人なのに、フィルを好きなのに、なぜ? なぜあんなひどいことができたの……?
「質問があります。王女としてあなたを問い詰めるつもりのものではないから、答えられないなら、答えなくてかまいません」
「……はい」
刹那、彼は顔を歪めた。それで、彼がナシュアナの意図に気付いていることを知った。
自分より遥かに大きい、大人の男性のそんな表情に、ためらいが生じる。だが、脳裏に紫の瞳と緑の瞳が浮かんで、ナシュアナはそれをのみ込んだ。
(ごめんなさい、私も彼らが大事なの。だからあなたを許せないの――)
「なぜあんな話に乗ったの? あなたのことをたくさん知っているわけではないけれど、らしくないわ」
完全な無表情に陥った彼は、沈黙とともにナシュアナをじっと見た。
短くはない時間が過ぎていく。
冷たい風が彼の背後から吹いてきて、彼の長い髪を乱した。日差しに温まっていた体が急速に冷えていく。震え出したくなるほど寒い。
「……どうしても手に入れたい」
その風が治まって、彼の髪が元の場所に落ち着いた後、冬の庭園に声が静かに響いた。
「心がなくてもいい。それでも自分の傍らにいて欲しい――」
そこに隠された、声音とは裏腹の激情に目を見開いた。鳥肌が広がっていく。だが、負けまいと声を振り絞った。
「不毛だとは思わないの?」
(だって賢いはずでしょう? 駆け引きだっていつだって完璧にこなしているじゃない? お兄さまもなんだかんだ仰るけれど、あなたを気に入ってらっしゃるわ)
「……」
彼はそう言ったナシュアナに苦笑を向けた。
(……ああ、違う、これは自嘲だ……)
そんなふうに思ってしまうほど痛々しいものだった。
彼は私に指摘されるまでもなく、自らの行為が何も生まないと知っていたんだ、と悟った瞬間、ナシュアナは再び口を開いていた。
「どうして? なぜそんなことを? 誰も、あなただって救われないわ。わかっているでしょう? いいえ、あなたにわからないはずがないわ……っ」
なぜだろう、ひどく悲しくなってきた。同時に怒りが増してきて、返事ができないならしなくてもいいと言ったことを忘れて、彼に詰め寄った。口を引き結んだ彼に、「なぜ?」と繰り返す。
「……今は、ご理解いただけなくても、いつか……あなたもそんなふうに思われる時が来るかもしれない」
そんなナシュアナを悲しそうに見つめたまま、彼は呟いた。勢いを削がれる。
(そう、なのかしら……? よくわからない……)
「ただ側にいて欲しい、私だけのものにしたい、そのためならたとえあの人が泣いたってかまわな――」
「泣かないわ」
フィルは自分を哀れんで泣いたりしない。自分のために慈悲を請うて泣いたりしない。
つい口を挟んでしまったナシュアナに、彼は顔を歪めると、きつく目を瞑った。
「……」
悲しいまでに晴れ渡った天を仰いで、苦しそうに息を吐き出す。
「ええ、涙も、懇願も……罵りの言葉すら、くれなかった。ただ……ただすり抜けて行ってしまった……」
その声はきっと一生耳から離れない、そんな気がした。
あなたは私とは違う、だから理解できないなら、できないほうがいい――そう言い残して去って行く彼の後ろ姿を、ただ見つめた。そうすることしかできなかった。
怖い、と思った。人を愛するということを初めて恐ろしいと感じた。
冷え切った自分の身を両腕で抱きしめ、ナシュアナは独り言を呟く。
「私が私でなくなる……?」
フィルに恋したロンデール。歪んでしまった彼の行動。彼が彼でない、それを彼は自覚しているのに止められなかった。
「フィルは……どうなのかしら?」
アレクサンダーに恋したフィルも、歪んでしまうことはあるのだろうか。フィルがフィルでなくなることはある?
(じゃあ、私は……? ラーナックに恋している私も、いつかそうやって歪んでしまう? それで私が私でなくなって……)
「……わからない……」
ナシュアナは視線をそっと伏せる。
それがわからないのは、子供だからなのだろうか。
「ごめんなさい、ラーナック」
彼がラーナックにしたことを問いただして、とことんなじろうと思った。でもよく分からないくせに、彼のあの顔を見ていたらできなかった。
それもナシュアナがまだ子供だからだろうか。
ぎゅっと眉根を寄せる。自分がまだ大人でないことを思い知らされる。
「でも……私は私でいたい」
どれだけ苦しくたって、最後にラーナックが笑ってくれる、そんな恋がしたい――。
そんなふうに思ってしまうのも、できそうな気がしてしまうのも、子供だから……?
ナシュアナは城の西方へと顔を向ける。木漏れ日を散らす樹冠の合間から、デラウェール図書館の尖塔が見えた。あの下、古い本の並ぶ書架の合間に佇む彼の姿を想う。
「……早く大人になりたい」
ねえ、ラーナック、そう言ったらあなたはなんて答えてくれる?