18-8.震動
「ご報告は以上となります」
二月ほど前、ナシュアナは自らの乳母が隠棲先で体調を崩したと聞いた。本当は自分で見舞いに行きたかったけれど、今の立場で軽々しく動いてはいけない、と兄のフェルドリックに諭され、ナシュアナは一番信頼している侍女のジェシーに、手伝いをかねて彼女の見舞いに行ってもらった。
その彼女が王宮に戻ってきて、帰還と見舞い、乳母の快癒を報告してくれている。
「私が不在にしておりました間に、ナシュアナさまにおかれましては、何かお変わりは…………って、すみません、もうはっきりお伺いしていいですか……?」
眉根を寄せて言葉を途中で止めた後、ジェシーが意を決したような顔を見せた。
「フィルさまです、フィルさまがザルアナック家のあの『秘めたる華』だって話、本当ですかっ? 宮殿中その噂で持ちきりですよ、すごいことになってますよっ」
なんとなく落ち着きがないと思っていたら、とナシュアナは目を丸くした後、笑いを零した。不在の間にこんなことになっていて、相当驚いたのだろう。
「一応言っておくけれど、病弱だったことは一度もないそうよ」
「見ていれば分かりますっ、やっぱりナシュアナさまも知っていらしたんですね!」
内緒にしていらしたんだ、とむくれるジェシーに苦笑する。
「勘当されていて、名乗るなと言われていたのですって。だからフィルはもちろん、私も言えなかったの」
そう告げれば、ジェシーは目をみはった。
「じゃあ、フィルさまが家族はもういなくなったと仰っていたのは……」
「ある意味本当のことだったみたい。ずっと祖父のアル・ド・ザルアナックと暮らしていて、その彼が亡くなられてからの話よ。それで、性別も生まれも内緒のまま騎士団に入ったんですって」
「……なん、て言うか、病弱で儚い、秘めたる華どころか、いわゆる令嬢ですらないですよね。勘当された、一人になった、じゃあ騎士団って……。ああ、でもフィルさまの場合はそれで正しいような気もする……」
絶句した後、しみじみともらしたジェシーに、つい声を立てて笑ってしまった。
「ねえ、今回も誰かにフィルのことを訊かれたりあれこれ言われたりしてる?」
「はい。でも以前、フィルさまが女性だと明らかにされた時とはちょっと様子が違っていて……」
ずっと気になっていたことをジェシーに問えば、彼女はそう言って眉をひそめた。
「そうなのよね。お姉さまといい……」
収穫祭での異母姉セルナディアの様子を思い返して、ナシュアナもジェシーと同じ顔をした。
恋愛感情に基づいてのことなのか、それともアレクサンダーの家柄に執着してのことなのか、はたまた恋人と言われていた彼に袖にされた矜持の問題だったのかはわからない。いずれにせよ、姉はフィルが女性だとわかって、アレクサンダーが彼女との関係を明言した後も、彼を諦めなかった。
無視されてもめげずにアレクサンダーに秋波を送り、フィルに対しては最初ほどではないにせよ、ねちねちと嫌がらせを繰り返す。自身の情勢が悪化した苛立ちをぶつける意味もあったのだろう、母親の第二夫人も取り巻きの貴族も時に一緒になって。
フィルは気にしていなかった、というより気付いていなかったけれど。
(ああ、でも身体に被害が出るような嫌がらせには、徹底して反応していたっけ……)
ナシュアナはどんな顔をしたらいいかわからず、口をへの字に曲げる。
階段から突き落とそうと背後から近づいた者は、さっと身をかわしたフィルに腕をとられて瞬時に肩を脱臼させられていたし、頭上から花瓶が落ちてきた時には、ぎりぎりで避けながら、落とした者の背後の壁、耳の脇指一本分の所にナイフを投げ刺していた。
足や水を引っ掛けられそうになった時は、まったく気付いていなさそうなのに、ひょいと避ける。
(一度はそれで自分が転んじゃった某男爵家の嫡男に、しみじみ「……新しい遊び?」とか訊いちゃって、彼を半泣きにさせていたわね……)
それでさらに不思議そうになっていたフィルを思い返して、ナシュアナは加害者の彼に微妙に同情する。意地悪してみたのに、難なくかわされて自分がすっ転んで、あまつさえ相手に「なにそれ? 楽しい?」と真正面から問われたようなものだ。きっと惨め極まりない気持ちだっただろう。
(本当、色んな意味でいい神経してるわ、フィル……って、ああ、問題はそこじゃなかった)
フィルの話になると、すぐ脱線してしまう。
そう、話はフィルの素性がその姉たちに知られた経緯だ。
収穫祭の会場に男装で、でも明らかに女性と分かる特注品、しかも一見して上質と分かる衣装を身につけて現れたフィルは、異様だった。
美しい人は他にも一杯いるけれど、彼女の特徴はその空気だと思う。意識を奪われてしまって、美しいとかそうじゃないとか、評価する発想すら生まれてこない。美の女神と称された彼女の母親もきっとこんなふうだったのだろう、とわかってしまったぐらいに。
同じく近寄りがたい雰囲気を醸すアレクサンドラ・カダル・ニステイスと並んでいたら、声をかけられる猛者なんて、そういないのではないかと思う。頑張った方も斎姫に早々に撃沈させられていたし、『フィルったらあの斎姫とも仲良くなっていたのね、いつの間に』とか関係ないことを考えて気を逸らしていなかったら、ナシュアナも話しかけられなかったと思うし。
そんなこんなで皆、美貌を自負する姉を始めとする女性たちすらも、固唾をのんでフィルを見つめる中、収穫祭会場中央の仕切りの幕が上がった。
フィルは迷いのない足取りで、アレクサンダーのもとに向かった。
その彼が愛しそうに、彼女の本当の名を呼んで……その瞬間、すさまじいどよめきが起こった。悲鳴も上がっていたし、失神した人もいたと聞く。
姉は、その間もその後アレクサンダーとフィルが踊る間――これがまた目のやり場に困るような仲の良さだったの……ってまた話が逸れたわ――も、彼らを見つめたまま、真っ青な顔で立ち尽くしていた。フィルたちがロンデール公爵に近寄っていって彼を脅している間も、その後彼女が会場を出て行く時も。
彼女がようやく動き出したのは、フィルを送り出した扉が完全に閉まってから。
「……アレクサンダー、説明してくれないかしら?」
アレクサンダーらを問い詰めていた人々の頭越しに、姉はそう問いかけた。衝撃と緊張のせいか、ひどく掠れた声での詰問に、会場中が二人に注目した。
「彼女のことであれば、通称の方がよく知られているようですが、ご想像のとおり――本名はフィリシア・フェーナ・ザルアナック、ザルアナック伯爵令嬢です」
アレクサンダーは微かに笑いつつ、よく通る低い声で応じた。
「かのアル・ド・ザルアナックの愛孫、そして、彼の最後弟子でもあるそうです」
「さすが血と言うべきか、才能といい、容姿といい、そっくりでしょう? 民衆に慕われる性格も似たようで、彼女の敵はいまや民衆の敵。噂と違って……」
「「病弱ではないけれど」」
そこかしこで蒼褪めたり震えていたりする人々に人の悪い視線を向けつつ、彼の従妹と兄がその後を受けた。
「そして、周知の通り私の恋人です、この上なく大切な」
それからアレクサンダーは、とても綺麗なのになぜか背筋が冷えるという微笑を姉に向けた。
次いで憤怒を隠そうともしていないロンデール公爵へと冷めた視線を向け、最後にその息子を刺すように見据える。
「……」
いつかのようにヒステリックに喚くかとどきどきしていたのに、姉は無言のままだった。青を通り越して白くなった顔で取り巻きの人たちと一緒に、逃げるように会場を後にする。
そして、ナシュアナにも一切接触してこない。いつもだったら、八つ当たりを仕掛けてくるのに。
「セルナディアさまも第二夫人もお部屋からあまり出ておいでにならないようですよ」
いい気味です、とジェシーがちょっとだけ意地悪く笑った。
「そうなの?」
「当たり前です。元々平民だってだけで、あれだけのことをフィルさまになさっていたんです。フィルさまは別に気にしていらっしゃらないようだったけど、城勤めの者はみな怒ってたんですよ?」
「しかも、そのフィルさまがアル・ド・ザルアナックさまの孫! 内戦の再現みたいじゃないですか、貴族対平民アル・ド・ザルアナック。大体知らなかったとは言え、あの方のお孫さまにあれだけのことをしてたなんて許し難いです」
捲くし立てるように話すジェシーに目を丸くした。
「……アル・ド・ザルアナックってやっぱりすごい人気なのね」
「当然です。だって、祖父母も父母も近所のみんなも、暮らしやすくなったのは建国王さまと彼のおかげだって毎日のように言っていましたから」
「じゃあ、きっと安全ね、フィルは」
(ラーナックもきっと大丈夫――)
そう思ったのに、ナシュアナがすべて無事終わったと胸をなでおろしていたあの晩、一緒に踊っていた兄が一瞬見せた厳しい顔がふと気になった。