18-7.ヘンリック観察記10(後)
「フィリシアさま」
「……ヘンリック?」
扉を開けてヘンリックを出迎えたフィルが、心底気持ち悪そうな顔をした。
「アレクサンダーさま」
「……どうしたんだ?」
その後ろから姿を見せたアレックスも、片眉を跳ね上げる。
今、ヘンリックは騎士団宿舎東棟に、フィルとアレックスを訪れている、フィルと自分が同期だと知った父親が押し付けた土産を携えて。
『フィルが宝石やドレスを喜ぶわけないだろうっ、大体同僚への土産にしてはおかしいじゃないかっ』
『なんと……奥ゆかしい方なのだな、さすがは平民出の英雄の――』
『ちーがーう! いや、奥ゆかしくないとかじゃなくて、生存本能そのままに生きてる奴なんだ。興味があるのは強くなることと食べ物だけなの!』
本当のことを言っただけなのに、父に『ご無礼申し上げるな!!』と激怒された挙げ句、土産として結局茶菓子を押し付けられた。いらないと言ったのに、持って行かなきゃ、無理やり実家に連れ戻すとか言って。
「俺の父親がフィルたちに無礼な口利くなってさ」
「ヘンリックのお父さん?」
「建国の英雄の孫だからって」
ぶすくれているヘンリックに、フィルとアレックスは顔を見合わせた。
「五時間だよっ、五時間っ、建国王さまとフィルたちのお祖父さんの話を延々と聞かされたんだっ」
「……俺たちの責任じゃないだろう」
「おかげでメアリーんとこ行こうと思ってたのが、パアになったっ」
「またなんか理不尽なことを……」
片眉を跳ね上げたアレックスと、「メアリーが絡むとすぐこれだ……」とため息をついたフィルに、ヘンリックは八つ当たり気味に菓子箱を押し付けた。
「っ」
その箱を受け取ろうと腕を出したフィルが、さっと顔色を変えた。音を立てて飛び退る。
「へ?」
ヘンリックが思わず声を漏らしたのと、アレックスが落下していく箱を器用に宙で受け止めたの、そして「何の話?」と背後から麗しい声が響いたのは同時――。
「……」
(こ、の声、は……)
目の前で真っ青な顔をするフィルと、硬直したヘンリックを横目に、アレックスは平静そのもので「今日は何の用だ」と廊下へと視線を向けた。
(な、なんでこの人はこんなに普通でいられるんだ……?)
盛大に顔を引きつらせたヘンリックは、恐る恐る後ろを振り返る。そして、ありがたくない予想が当たったことで、さらに怯えた。
「久しぶりだね」
「別に久しぶりというほどでもない」
「ただの常套句だってば」
そう、そこにいたのは、太陽光の髪と、金と緑の斑の瞳を持つ――、
「……お、うたいしでんか」
「やあ、確かヘンリックだったかな?」
この国の太子が自分へと向けた、蕩けそうに美しい、けれど「絶対それ裏があるでしょうっ」という類の微笑みにヘンリックも蒼褪める。
フィルの「名前、覚えられちゃってる……」という呟きと憐れみを含んだ視線が、ぐさりと突き刺さった。
* * *
温かみのある午後の光の差し込む窓辺は、穏やかで心地がいい。
「例の件、八割は抑えた。あとは件の侯爵だけなんだけど、これが中々しぶとい」
「弟のほうから手を回したらどうだ?」
「……なるほどね、そっちのほうが手っ取り早いかな。フォースンに探らせてみるか」
――わけのわからない政治話を聞きながら、魔王もかくやという、最悪に性悪な権力者と共にお茶をしているのでなければ。
ヘンリックが持ってきた菓子は、どうも王太子のお気に入りだったらしい。それが悲劇を生んだ。
それを茶請けにお茶にすると勝手に決めた王太子に、ヘンリックまでなぜか、本当になぜか、めちゃくちゃありがたくないことにお呼ばれしてしまった。
もっとも、「じゃ、じゃあ、ぼぼぼ僕はこれで」と逃げようとしたところを、
「――僕の誘いを断ろうと言っているのかな」
とにっこり笑われて(目がまったく笑っていない!)、逆らえる気がしなくてよろよろと足を踏み出し、
「っ、止せっ、ヘンリックっ、自殺行為だっ」
ヘンリックより彼に免疫のあるらしいフィルが、そのヘンリックの腕をとって止めてくれたものの、
「フィル」
という一言で、その彼女も総毛立って逃げてしまい、頼みの綱のアレックスにも、
「……大人しくしておくほうが被害は少ない。フィルは見習わないほうがいい」
などと哀れむ視線を送られ、
「……」
他にしようがなくなって、半泣きで王太子の指差す席に腰掛けた、
――こういうやり取りを『お呼ばれ』というのであれば、の話だけど。
ちなみに、俯いて涙目で部屋に入っていくヘンリックと、部屋の入り口でシャーッとでも言いそうな露骨な警戒を見せるフィルを見比べて、「こっちが子犬で、あっちが子猫。犬の方が御しやすいかな、やっぱり」と王太子が呟いたこと。それを聞いたアレックスが思わずというように吹き出したこと。
これがひどいことでなければ、他に何をそう言うのだろう……?
(……どうなってんのかな?)
(黙ってろ、いずれ嵐は過ぎる)
窓際のテーブルで、顔を茶のカップで隠しつつ、ヘンリックはフィルと横目で会話する。さすが親友、言葉は要らない。
が、祈りむなしく、嵐はわが身に降りかかった。親友の言葉が当てにならないこともわかった。
「へえ、フォルデリークとザルアナックって、そんなふうに言われてるんだ。ああ、バードナーって、あのバードナー商会。そういえば以前末の息子が騎士団にって話があったな」
「う゛……ああ、父さん、兄さん、ほんとごめん……」
思わず呻き声を漏らしたヘンリックに、王太子は目を細めて笑った。漂う邪悪さに、やっぱりとんでもないことをしたらしいと悟って、ヘンリックは真っ青になる。
(っ、父さん、兄さん、僕はメアリーをおいて逝けないけど、冥福は影ながら祈ってるから! 恨まないで!)
王太子の耳に家名が届いたら普通は喜ぶものなんだろうけど、この笑みの黒さではとてもじゃないけどそうは思えない。
「商家の出であれば、常識や世情にはフィルより詳しいわけだ」
「……ほ、ほとんどの人間はそうかと」
親友がティーカップに口をつけたまま、「どういう意味だ」と呟いたのはこの際無視。我が身が可愛いのだ。メアリーを遺して、死ぬわけにはいかない。というより……キス止まりの今のままだったら、死んでも死に切れない!
「――で、気にしないの? 英雄の孫で、有力貴族」
おもしろいものを見る目でヘンリックを見ながら、王太子はその長い指をフィルとアレックスに向けた。
「貴族……」
(アレックスはともかく……)
「……今見えないってまた思っただろう?」
「さすが親友。てか、一度父さんに会ってよ。アル・ド・ザルアナックさま、お孫さまっていちいちうるさいんだよ、一回徹底的に幻想を打ち砕いて」
「どういう意味だ」
「そしたら、フィルと付き合ってるアレックスへの幻想も一緒に解けると思うんだよね」
「それ、ものすごく失礼なことを言っているだろう、私だってそれぐらいわかるんだ!」
「……」
奇妙な顔で沈黙したアレックスと眉を跳ね上げた王太子を横目に、フィルとぎゃあぎゃあ言い合う。
「……いつもこんな感じ?」
「? ああ」
「腕も結構いいんだよね?」
「そうだな、急速に伸びている」
「いいね」
「へ?」
アレックスと話していた顔を再びヘンリックに向け、ふわりと微笑む王太子の顔は優しくも美しい……がすぎて胡散臭い。
「使えそう」
「!?」
(つ、使うってなにー!?)
戦慄するヘンリックと、「……ああ、ついにヘンリックにまで魔の手が……」と顔を覆うフィルを歯牙にもかけず、王太子は「じゃあ、また」と言って、優雅に立ち上がった。
「送って行く」
長々と息を吐き出したアレックスが、先ほど脱いだ上着を再度羽織りながら、彼を追って部屋の外に向かった。
「……」
振り返ったそのアレックスに気の毒そうな視線を送られてしまったこと――これをどう解釈しよう……?
ついでに、彼の仕草と目線が色っぽくて、そんな場面じゃないのに赤面した自分に、別の意味でさらに泣きたくなった。
「フィルのばか……」
「いつも言ってる。あたるな」
「フィルのせいだ」
「悪魔のせいだ、私じゃない。あとはこんなタイミングでうちに来た自分を呪え」
「フィルがいなかったら、悪魔だっていなかった」
「じゃあアレックスだ。悪魔の目的はアレックス」
半泣きで立ち尽くすヘンリックに、「やっと瘴気が消えた……」とテーブルに突っ伏していたフィルが自棄気味に応じる。
換気のためだろう、彼女が開けた窓から響いてくる、夕暮れのカラスの鳴き声がなんだか切ない。
王太子をはっきり悪魔と言いきるフィルと、ちゃんと畏まっている僕、じゃない、俺がこの先同じ扱いをされるらしいというのはもっと切ない。
「フィル、俺、騎士団にいたいんだよ、ずっと」
「? 私もだ」
「つまり、この先ずっとあの方に憑かれるってこと……?」
「い、嫌な想像を……」
「だって現実じゃん!!」
涙声でフィルを振り向けば、フィルはフィルで「現実って厳しい……」とがっくり肩を落とした。
「けど、ヘンリック、物は考えようだ、二人一緒なら悪魔相手であってもきっと乗り切れる」
「い、嫌な誘い……」
「……現実って最初に言い出したのはヘンリックだろ」
「「……」」
夕焼けに陰る室内、吐き出したため息が親友とぴったり重なった。それこそがもっとも切ない。