18-6.ヘンリック観察記10(前)
「ヘンリック、なあ、もうそろそろ」
「嫌だ」
「……だが、わしも年老いてきたことだし」
「引退するの? 兄さんたちも大変だなあ。まあ、あの二人ならなんとでもするだろうけど」
「……どうしても嫌か」
「どうしても嫌だ」
「生活に苦労はしないぞ、女にも」
「今だって別に苦労してない。大体そのセリフ、母さんに言い付けるよ」
うぐぅ、と呻いた父に、ヘンリックは白い目を向けた。
久しぶりに王都に来たからと呼び出されて、馴染みの宿に父を訪ねてみれば、飽きもしないでこんな話だ。
(しつこいにもほどがある)
父がいつも滞在している最上階の部屋のソファに、ヘンリックはだらしなく身を沈めた。うんざりとした顔を隠す気は微塵もない。
「あのねえ、兄さんたちが二人いれば十分でしょ? どっちも商売向きじゃない」
既に父を手伝っている兄が二人もいるのだから、もう十分だろうと思うのに、末っ子のヘンリックにまで共に家業を継げ、実家に戻れとしつこく勧めてくる。
そんなのは絶対に嫌だ。騎士をやめるのも考えられないが、家業なんて継いだら王都のメアリーの側にいられなくなる。メアリーが隣にいる今こそがバラ色。彼女を離す気は死んでもないから、この先もずっとバラ色だ。
(なんだってしたくもないことのために、そんな生活を放棄しなきゃなんないんだ)
ヘンリックは父親をじろりと睨む。
「姉さんたちだって、商才の塊じゃん。みんな自分たちで商売始めたって。ミラ姉んとこの装飾品、王都の女の子たちの間でも評判になってきてるよ」
「だが、お前にも、いやお前にこそ商才がある。いいか、ヘンリック、商業とは即ち、人々に生の糧を運びつつ、国における経済という血管にその血をめぐらせ、生かしてやるものなんだ。やりがいがあるぞ。わしはお前にもその喜びを分けてやりたい」
「騎士団の仕事だってやりがいがある。皆の人生を守る、その為の集団なんだ――アル・ド・ザルアナックがその理念の元に作ったんだから」
「おお、それはそうだろうとも! それは当たり前なんだ、それは。わしはそこを否定しているわけではない。アル・ド・ザルアナックさまは真に素晴らしい方だった。建国王さまをお助けして、我らの生活を第一にお考えくださって……」
(ありがとう、フィルのお祖父さん)
あっさり引っかかってくれて熱弁をふるい始めた父親を前に、ヘンリックはこっそり息を吐く。これが始まると中々終わらないのが難点だけど、家に戻って家業の一部を担えとしつこく言われるより遥かにましだ。
「あの方のおかげでわしは商売を広げることができたのだ、そうでなければ今頃貧民街で糊口を……」
目を輝かせ、身振り手振りを交えながら、時に口角から泡を飛ばし、信奉するアル・ド・ザルアナックを語る――そもそもヘンリックが騎士に興味を持つきっかけを作ったのは、この父だ。英雄アル・ド・ザルアナックの話はもちろん好きだけど、何百回と聞かされれば、自分でもそらんじることができる。
(今更聞き古した話はいいよ、騎士団でもっと色んな話聞いてるし……)
と思ったところで、ヘンリックは目の前の木の実を慌てて口に放り込んだ。
『グリフィスは食べられないよ。? うん、ある。祖父さまも一緒になってやったくせに、最後の最後で裏切ったんだ。食べ物の匂いじゃないとか言って自分だけ逃げたんだよ、剣士なのに。婆さまに怒られて二日かけて家中の布という布を、洗濯してたけど』
『路銀がなくなって、よく祖父と賞金稼ぎしたから。だから、小さな平和な村とかだと困るんだ。ご飯も買えない』
『そういう時は二人で山に入って自給自足。けど、見かけないキノコや野草を試して大抵祖父さまがおなか壊して、村から出られなくなって、っていう悪循環も時々あった』
――フィルから聞いたそんな話を思い出して、顔が引きつりそうになったから。
先日ヘンリックは、父や大人たちが自分に話して聞かせた英雄アル・ド・ザルアナックが、フィルが時々話していた『祖父さま』と同じ人だと知った。ものすごく驚いた。フィルが女だと気付いたときの比じゃなかった。
騎士団の皆、特に若い人たちもかなり驚いていたけれど、ヘンリックの驚きの理由はフィルが英雄の孫だったことじゃない。英雄が、フィルのちょっと変わった(ごめんなさい、でも事じ……ご、ごめんなさい)お祖父さんだったことだ。
フィルそっくりの計画性のなさと無謀さで、魔物料理に手を出し、洗濯させられ、道に迷っては食いっぱぐれ、孫の劇物手料理でおなかを壊し、傭兵のごとく賞金稼ぎに走り、道々妙なトラブルに巻き込まれていたという、フィルの『祖父さま』が、かの英雄――そこに衝撃を受けたヘンリックは正しいはずだ。
フィルは素性とかは別に気にならない。今更フィルのすることなすことに、いちいち驚いたりショックを受けたりなんてしていられないし、大体あの傑出した強さに、常識を逸した豪胆さ、そして常識を気にも留めない(留められない?)神経の太さ――どうやったって普通に育ったんじゃ、培われないだろう。
『勘当されてた』
――家名を名乗ってなかった理由。
『剣を捨てて結婚しろって言われて、嫌って言った』
――勘当の理由。
『兄の薬が欲しかったら、嫡男と結婚しろってロンデール公爵が言った。で、結婚しないで薬を手に入れるのに必要だった』
――勘当を解いてもらった理由。
『公爵を脅した。アル・ド・ザルアナックの孫を脅迫して思い通りにしたって世間にばれるとまずいんじゃない? って』
――結婚しないで薬を手に入れることができた理由。
『ああ、祖父さまありがとう、おかげで兄さまも私も元気です』
そんなふうにフィルは締め括って、すべての理由は一分で説明された。いくらなんでも短すぎない、フィル?
(変わっているとは思っていたけど、本当、なんていうか……。そう、脅したの、フィル……ロンデール公爵家って本当に厄介なところなんだよ? って、間違いなく知らないんだろうな……)
ヘンリックは目の前で、滔々としゃべり続けている父を見つつ、親友を思ってため息をつく。
父は建国王さまやアル・ド・ザルアナックの話になるとこんな人だけど、商売だけは天才的に上手だ。なのに、あそこに睨まれて、一時すごくやばかったと聞いたことがある。
内戦前までは平民相手の小売りか、限られた品目の少量買い付けしか許されていなかった平民階級の出のバードナー家が、内戦後、取り扱い品目も流通も増やして成り上がったことが、あの家はそもそも気に入らなかったらしい。
そこにきて、あの家――というより貴族階級が独占してきた諸外国との貿易にうちが手を出したものだから、反発がすごかったようで、取引相手へ悪評を広めるという間接的な妨害から、資金繰りや買い付け、輸送などの直接的な妨害にいたるまで、執拗に嫌がらせされたと聞いた。
「商売上の利益のためにやるんじゃないんだ。嫌がらせのためだけに、湯水のように金を投入してくるんだぜ? うちが敵うわけがない、というか、そもそも価値観が違いすぎる」
「そんだけ体力があるってことだろうけど、狂ってら」
とは、兄たちのセリフだ。
(今はあの家の関係する箇所から手を引いたから、何とかなっているらしいけど……アレックス、大変なんだろうなあ)
フィルは元の素性も素性だけど、あの性格だ、公爵の癇に障るようなことをしまくったはずだ。親友としてそこは断言できる。
その彼女をあのロンデール家からかばおうとするなら、というか、アレックスは間違いなくそうするだろうから、きっと凄まじい苦労があるんだろう。
「そういえば、アル・ド・ザルアナックさまのお孫さまも騎士団にいらっしゃるとか」
「……いる、けど」
というより入団以来の親友、今考えてたフィルだ。けど、『お孫さま』? 『いらっしゃる』?
ヘンリックは、身を起こすと首をひねった。革張りのソファがそれに応じて音を立てる。
「どんな方だ?」
「どんな……って、強くて、めちゃくちゃいい奴だけど」
(『方』? あのフィルを『方』呼ばわり……?)
「ばっかもんっ、あの方の孫でいらっしゃる方に向かってなんたる言いようだっ」
「……」
怒鳴られて、ヘンリックは思いっきり顔を引きつらせた。
「聞けば、既に大層なご活躍をなさっているとか。さすがザルアナックさま」
「ご活……なさって……」
「なんでもヴァルアス・ロッド・フォルデリークさまのお孫さまと恋仲とか……なんとおめでたい」
「フォルデリークって、アレッ……」
「フォルデリークだと!? 呼び捨てにするんじゃない!! くっ、そうか、わしとしたことが、ちゃんと語ったことはなかったかっ」
父が心底悔やんでいるという顔を見せた。
「いいか、現フォルデリーク公爵のお父君であらせられるヴァルアス・ロッド・フォルデリークさまは、派手なご活躍をなさった方ではないが、今の政治の仕組みの根幹をお作りになった方だ」
「国民の身分格差を廃し、財産権を認め、移動や職業選択の自由を……」
「最後には暗殺されて、生まれたばかりのお子さまたちをお遺しになって……葬儀では建国王さまもアル・ド・ザルアナックさまもお労しくて見ていられなかった……」
「ええと、じゃあ、やっぱりアレックスのお祖父さんって、」
「ばっかもんっ! いいか、ちゃんとさま付けでお呼びするんだっ。そんな方のご子孫、しかも、ご自身も既に素晴らしい騎士でいらっしゃるというではないかっ。お前はキーマ渓谷戦を知らんのか!? あれに負けていれば、カザックの物価は恐ろしいことになっていた!」
「知ってる、けど……」
いや、アレックスにさま付けするのには、さほど抵抗はないんだけど。昔はそうしてたし、今でも時々そうしたくなるし。だけど……。