【第3章】3-1.お近づき
「もう駄目だ。俺は飲みに行く」
「馬鹿か、ここまで来て。脱落決定だぞ」
「俺、実家に戻って家業継ごうかな……」
「きったねえ、安易な道に逃げるとは貴様それでも騎士か」
「いいんだ、どうせ俺なんて見習いで終わるんだ。一度でいいから騎士らしいことしたかった……」
「ずっと詰め込まれて勉強、勉強、勉強、合間に剣の稽古……挙げ句これかよ」
「あーっ、畜生! こんなことがしたくてここに来たんじゃないっ」
――あちこちで喧々諤々、阿鼻叫喚。事は盤根錯節、そして轍鮒の急。気分はさしずめ釜中の魚。
「……」
いや、もうこんなことを考えている時点でフィル自身、現実逃避も甚だしいのだけれど。
鬼のように勉強に追われること既に三ヶ月。残すは最終試験のみで、それさえ通過すれば、地獄から開放されるという今この時。
これまでフィルたち五十二期生は、何とか一人の脱落もなく来ている。が、ここで仕損じれば四十何倍だったという入団試験突破も、苦痛極まりない三ヶ月の勉強も意味がなくなるとあって、みな悲壮なまでに必死も必死。
だが、事はここに来て中々残酷な盛り上がりを見せている。無論、フィルとしてはそんな盛り上がりはまったくもって不要だと声を大にして叫びたいところだが、事の始まりは今から四半時前、法律学の講義の最後に遡る。
「最終試験、明日っ!? なんでいきなりっ!?」
「少々都合ができまして。団長には既に許可を頂きました」
難解と評判のこの授業は、すべての騎士の悩みの種。加えてフィルたち五十二期生にとって運の悪いことに、本来の講師は一月前に持病で療養休暇。代わりに来た臨時講師は厳しい上に根性悪――何でも昔、騎士団にいたらしいのだけれど、剣の腕があまりに上達しなくて退団する羽目になったそうだ。
その彼がフィルたちに申し渡したのが、いきなり明日の最終試験。当然包括試験――今まで習ったところ全てが出題される――で、七割の点数を取ることを求められる。
フィルは思わず唸った。不合格が一つでもあれば、騎士で居続けるのが難しくなるというのに、この非道さ。嫌がらせ以外の何だというのだろう。
団長は何を考えてこんな人を講師に、しかも何だってそんな無茶を許可するんだ、みなそう思ったに違いない。
「いくらなんでも無茶です」
講師に異議を申し立てたカイトを、みな心から応援していたに違いない。
「ふん。知性と教養を兼ね備える、カザックの栄えある騎士にしては、なんとも情けない発言ですね。さては質が落ちましたか」
みなカチンと来たに違いない。基本的に負けん気が強いし。
「私は最初に、試験前の一夜漬けは感心しない、試験に備えて復習を欠かさず、常に万全の知識を身につけておくよう言ったはずですが」
それは一般的な話、建前というやつで、でも普通は……、とみな思ったに違いない。
「まあ、重点事項をあらかた示した紙を作りましたから、各自とってから帰りなさい。それに沿って勉強すれば大丈夫ですよ」
にこりと笑った講師に、さすがにそこまで鬼じゃないかとみな胸を撫で下ろしたに違いない。フィルも正直ほっとした。それならまだ何とかなるかも、と。
――そして。
「騙された……」
見たことも聞いた覚えも無い単語の山だ、みなそう思っているに違いない。
「ロ、ロデルセン……」
頼みの綱、と振り返った先、驚異的な記憶力でこれまで全ての試験をほぼ満点でクリアしている彼が青くなっている。それを見てフィルを含め、みなの顔は青を通り越して白くなった。
「五十二期生全滅……?」
「うわあ、洒落になんない」
(ああ、笑い声がちらほら混ざり出した。みんな、壊れてきたな……)
冷静になろうと状況を分析してみたが、フィルだって笑うしかないという心境だ。
「フィル、どうしよう~」
紙を握り締めてヘンリックが涙目でやってきた。
「せっかく騎士団に入ったのに、メアリーも喜んでくれたのに……」
「……」
こんな場合でもお前はやはりメアリーなのか。いや、問題はそこではなく。
そりゃあ、確かに彼女はメロメロになりそうなくらい可愛かったけど。いや、問題はそこでもなく。
(そうだ、せっかくここに入れたのに……)
フィルはぐっと眉根を寄せた。
ここを出されたら他に行くところなんてない。ここで居場所を見つけたいのに――。
「?」
そう考えた瞬間、アレックスの顔が思い浮かんでフィルは首を捻った。
「団長に直談判するか?」
フィルは目を瞬かせると、同期のエドワードへと顔を向けた。
「無理だろう、やる前から諦めるのかって絶対怒られる。特に副団長……」
その声に誰もが押し黙った。フィルも同意する。これまで何度も遭遇したが、怒ったポトマック副団長は本当に怖い。
(さっぱりわからないけど……)
フィルは改めてじぃと手元の紙を見つめた。
「やる」
逃げるなんて嫌だ。もし逃げたら、きっとここが自分の場所かわからなくなる。顔を上げてアレクやアレックスに「頑張った」と言えなくなる気がする。
「おい、フィル」
カイトが怪訝そうに声をかけてきたが、フィルは紙を持ってすくっと立ち上がった。
「教科書を開いてできるだけやる」
「フィルぅ、そんなこと言ったってさ、ロデルセンが厳しいって言うんだよ。見込みはあんの?」
「だって腹が立つ。こんなのむちゃくちゃだ。絶対見返してやる」
みなが顔を見合わせて、それから溜め息と苦笑と共に立ち上がった。
「しょうがないよなあ。直談判は失敗した後、な」
そう決意はしたものの――、
世の中の勉学を志す者ならみな知っているように、決意や根性だけで知識は増えたりしない。切なくも残酷な事実。身体なら決意次第でうまく動いたりするのにね。
「……」
談話室に陣取った五十二期生を重く暗い、悲愴な沈黙が包む。
「よお、何してんだ?」
「っ、隊長ーっ」
そこに顔を覗かせた第三小隊長のカーランに話しかけられて、ヘンリックが彼にまた泣きついた。
(本当に彼は末っ子だ。憎めなくてかわいいけれど、とにかく今は無視だ、無視。弱音を吐いたら一歩も前に進まないと爺さまも言ったじゃないか)
フィルは字面を追う毎に萎えそうになる気力を振り絞って、ペンを片手に教科書をめくり……、
(……ん?)
「!?」
視線を感じて顔をあげると、必死、いや、むしろ決死の面持ちでみながこちらを見ていた。
* * *
「フィル? どうした、勉強しに行ったんじゃなかったのか?」
「ええ、と、その……」
急遽戻った自室。ベッドに寝転がって恐ろしく長い足を組み、何か小難しそうな本を読んでいたアレックスが本から目を離し、話しかけるタイミングを探っていたフィルを怪訝そうに見た。
『フィル、フォルデリークさんなら何とかなるかもしれないって』
『勉強してる様子もないのに、ほとんど失点無しで試験クリアし続けてるって』
『その辺の講師よりよっぽどすげえんだって。王太子殿下のご学友だったんだって』
『頼む。相方だろ、頼んでみてくれよ。俺あの人怖いんだよ』
『頼むよ、フィルぅ』
『僕がメアリーに嫌われてもいいって言うのかっ』
――全ては有難いのか有難くないのか、フィルにとって非常に微妙なカーラン小隊長の入れ知恵のせい。
これを機にアレックスと同期たちが仲良くなるかもしれない。それは有難い。
試験には受かりたい。これも切実な望み。
けれど、祖父母は自分で出来ることは自分でしろと言っていた。そんな風に人に頼っていいのだろうか?
ついでに言うなら、そんなふうに言われていたから、フィルは誰かにお願いをしたことなんて、人生で数えるくらいしかない。すごく駄目で恥ずかしいことをしている気分で真っ赤になり、視線をきょろきょろと彷徨わせつつ、おそるおそるアレックスを見上げた。
「ア、アレックス、その、お、お願い、したいことが……」
いつも迷惑を掛けているのに、その上申し訳ないんですが、と縮こまる。自分で発した言葉に情けなくて泣きそうだった。
(本当に迷惑ばかりだ。そのうち愛想を尽かされて、相方を解消すると言われるかも……)
「……」
(……解消? それは……イヤ――)
「お願い?」
アレックスは切れ長の瞳を一瞬見開き、本を持っていた手を支えに身を起こした。
「……えと」
湧き出てきた感情に自分でも戸惑う。
(ええと、だって、そうなったら、目が合っても、ああやって笑ってくれなくなるのかも)
「……」
フィルは自分の思いつきに目をみはった。
頭を柔らかく叩いてくれたり、一緒に遊びに行ったりもなくなって、色々話したりすることもなるのかもしれない。あれやこれを気にかけてくれたり、優しくしてくれたりするのも相方だから。だからそうじゃなくなったら、きっと『嬉しい』がすごく減ってしまう。
(そうなったら、きっと楽しくなくなる。彼を見てほっとすることだってきっとなくなる、それはすごく、ううん、絶対に嫌――)
「……」
知らず視線を伏せ、フィルはゴクリと唾を飲み込んだ。そうして顔を引き攣らせ、やっぱりいいです、と言おうと顔をあげた瞬間、
「なんだ、お願いって? フィルがそんなことを言ってくるなんて珍しいな」
視線の先で、アレックスが宝石より美しい瞳の収まる目を優しく緩めて笑ってくれた。
「……」
ひどく幸せそうな顔に見えて、背負っている同期の懇願も自分の葛藤も忘れて、魅入られたかのように、フィルはただその顔を見つめる。
呆然としている間にも、顔が紅潮していくのだけはわかった。
「アレックス、僕からもお願いしますっ」
「すみません、すみません、フォルデリークさん、でも助けてください」
「最後の頼みの綱なんです、見捨てないでくださいっ」
そんな情けないくらい赤くなったフィルを救ったのは、待つことに耐え切れなくなったらしく、部屋に雪崩込んできた同期たちだった。
唖然としていたアレックスはすぐに立ち直ると、涙ぐむ五十二期生達から事情を聞き出し、自分のベッドの上に正座したフィルが両手で差し出した紙を受け取って眉を顰めた。
「これは……また横暴な」
わかるんだ、すごい――みなそう思ったに違いない。
一縷の希望を見出したらしく、アレックスを見つめる仲間達の顔に明るさが戻った。が、アレックスはそれに構わず、「確か法律学は臨時講師が来ているんだったか」と溜め息をついた。
「あまりな内容だと抗議するなら手を貸すが……」
「――やります」
狭い部屋の中で、自分に詰め寄ってくる三十名ほどを前に、アレックスは停止する。
(あ、顔、引き攣った)
慣れてきたフィルだからこそわかる表情の変化を見つけ、申し訳なさに身を縮める。
「それは……つまり」
「教えてください」
「お願いしますっ、助けてくださいっ」
「……フィル?」
(あー、やっぱり困ってる……)
眉を寄せたアレックスに視線を向けられて、フィルは顔を俯けると、もごもごと願いを口にした。
「ご迷惑なのは承知なので、できれば、でいいのですが、その、やれるだけやりたいんです……お願い、してもいいですか……?」
(鬱陶しがられるかな、呆れて『もうフィルの相方なんて嫌』とか、『フィルなんて嫌』とか、言われるかな……)
怯えと共に恐る恐る目線をあげた先。
「……う」
アレックスが仕方ないなという感じで、でもすごく優しく笑ってくれていて、再び真っ赤になってしまった。
ちなみに、今度の犠牲者はフィルだけじゃなかった……。
「教科書は持ってきているな?」
アレックスは自身の本棚においている別の本を取り出した。そんな仕草すら妙に格好よくて、五十二期生たちは口を開いたまま、彼を呆けたように見つめている。
(ああ、試験だけじゃない、アレックスとみんなも上手くいきそう)
とフィルもうっとりしながら喜んでみる。
「最初の問いは、教科書の第三章の第一節で扱われている事象を包括的にさす言葉で、その言葉の……」
「!!」
――すぐに現実にひき戻されたが。
そうして、廊下まではみ出して本を片手にペンを走らせる五十二期生たちと共に、アレックスが徹夜する羽目になった翌日。
終業を知らせる鐘が鳴り響く中、集めた回答用紙を見ながらわなわなと震える臨時講師を残し、五十二期生は得意満面の顔で講義室を走り出る。
「あっ、フォルデリークさんっ」
「ありがとうございました! もう最高ですっ!」
「うまく行きましたーっ」
鍛錬場で彼らにつかまり、感極まった彼らに次々に握手を求められたり抱きつかれたりして固まるアレックスを見、他の騎士たちが呆気に取られている。
「……」
そのすべてにフィルはにんまり笑みをこぼす。
法律学の試験はおそらくみんな合格。アレックスは変わらずフィルの相方で、しかも同期たちと仲良しになれそうだ。
偶々だったけど、結果よければそれで良しってことにしておこう。




