18-4.決意
母セフィアの手によって連れ去られたフィルが、彼女の微笑に騙されて、今まさに着せ替え人形にされようとしている時――。
アレックスはアレックスで、ぐったりと革張りのソファに沈み込んでいた。
先ほど父が言ったように、あの母がフィルに危害を加えることはない。……フィルにとっての『害』は時々人と激しくずれているが、それはとりあえずおいておくことにして、アレックスは深々とため息をついた。
(いい様にやられている)
フィルが絡むと本当にこういうことが増える。
なんせスペリオスに今日の集合時刻を聞いておかなかったのは失態だった。母が変なことをフィルに吹き込んでなければいいのだが……。
「……」
思い浮かんだ恐ろしい事態に顔を蒼褪めさせる。
先ほど母が匂わせてきた話だ。すべてバレているのも恐ろしいが、何よりフィルだ。あんな話にあの彼女がどう反応するかなんてまったく予測がつかないのだから、頼むからやめてくれ、と呻き声を漏らす。
取り返しに行くか? と自問するも、即否定した。
邪魔をすれば、それこそあの母のことだ。ろくなことにならない。
加えてフィルだ。そんな状況で彼女がとるだろう行動は、これまでの経験上、アレックスにとって危険以外の何ものでもない。
「……っ」
ついに堪えきれなくなって、アレックスは頭を抱え込むと、両手でがしがしと髪をかき乱した。
目の前に腰かけている父は、あれからずっと黙って冬の庭を眺めていた。
おもむろに同じ色の瞳をアレックスへ向け、口を開く。
「いい子だな。まあ、ステファンとシンディの子で、アル小父とエレン小母が育てたのだから、間違った子になるはずはないんだが」
何かを懐しむかのような表情を見せた彼は、虚をつかれて顔を赤くしたアレックスに、「事実お前が惚れるような子だったわけだし」とにやっと笑いかけてきた。
(だから、ずっと連れてこなかったんだ……)
アレックスは内心で愚痴りながら、顔にこれ以上血が集まらないよう神経を集中させる。
顔を父から背けるも、視界の端に入った彼の表情が緩んだ気がして、気恥ずかしい。
が、父は母より甘い。気づかないふりをしてくれるつもりらしく、「この間、久しぶりにステファンと飲んだんだ」と言いつつ、ソファへと背を預けた。
「あいつ、十八年経ってようやくシンディがいないことに向き合う気になったようだ」
穏やかに笑って、「あの子のおかげだそうだ」と続ける。
「あの子は、『憎かった』『愛せなかった』という、ステファンの捻じ曲がった告白に、『幸せだから、私のことは問題ない』と返したらしい。ステファンはそれに、『だが、お前はそうじゃない。だから母が悲しんでいるなら、お前自身が原因だ』と言われたように感じた、そして実際そのとおりだと思ったのだそうだ」
「……彼女らしい話です」
アレックスはその話に小さく笑いを零した。
多分「問題ない」というフィルの言葉には、少し嘘が入っている。彼女は父親に嫌われていると思っていて、ひどく怯えていた。そして、それをアレックスを含めた他者に知られることを恐れていた。そのことだけを考えても、「問題ない」と言えるようなものではなかったはずだ。
だが、フィルのことだ、敢えてそう言ったのだろう。それが彼女らしいと言えば、とても彼女らしい。
どこまで何をフィルが意図しているかは知らない。だが、窮地に陥っても「どうにかする。あきらめるのも嘆くのも全部やってから」と言いながら、必死に足掻いている彼女を見ていると、周囲はつい自分のことを考えてしまう――自分もそろそろ動き出していいのではないだろうか、と。
「不思議なものだな。あの子はシンディをまったく知らないはずなのに、ちゃんと彼女の娘だ」
見れば、父も同じように笑っていた。
「それにしても、アル小父が亡くなって、カザレナのステファンのところに戻ってくると思っていたのだがなあ」
身を起こし、感嘆と呆れを交えたような表情で、父がテーブル上の茶を手に取った。
「ああ、それは確かに」
アレックスも当初はそう考えていた。
(それがまさか騎士団に現れるとは……)
再会したあの日を思い出して笑いつつ、父同様陶製のカップに手を伸ばす。
「ステファンの歯切れが悪いから、それならうちの息子のところに、と言ったら、あいつ、なんだかんだと口を濁すし」
「っ」
思わず口にしていた茶をふいた。そのまま咳き込めば、父は不思議そうな顔をしてアレックスを見る。
「な、なにを……」
「? ああ、大丈夫だ、ちゃんとお前との縁談だぞ。スペリオスじゃない」
唖然とするアレックスに、父は「ずっと望んでいただろう?」とあっけらかんと言い放つ。
「そ、そんな話では、」
「だが、そのつもりだったんだろう? この際だ、と思ったんだ。セフィアにもつつかれていたし」
「……」
にっと笑う父に、今度こそ言葉を失った。
確かにいつかはと考えていた。だが、アレックスが両親にそんな話をしたことはないし、そもそもザルアでザルアナック家の娘に惚れたという話すらした覚えがない。
それなのに、なぜ我が家ではそれが当たり前となっているんだ、と今更ながら気付く。
(その上、知らぬ間にそんな話まで……)
お前はフィルのこととなると他が見えなくなる、という先ほどの父の言葉を期せずして自覚させられて、アレックスは眉尻を下げた。
「あの子に何が起きているのか、どうしているのかとセフィアと一緒に心配していたら、いつの間にか騎士団にいたっていうんだから、なんともはや……」
苦笑していた父は、それからふとまじめな顔をして、「だがと言うか、だからこそと言うか」と呟いた。
「アレックス、本当によかったな」
からかいも何もなく、ただただ率直に、自分事のように喜色を湛えた顔で、父は皺の刻まれた顔を緩めて笑った。
「……」
だから、言葉に詰まった。
彼らがどれほど心配してくれていたのか、今ようやくわかった気がした。あの頃は自分のことしか、強くなってフィルに会いに行くことしか考えていなかった。きっとひどく親不孝だったのだろう。
「その、心配をかけてしまって、というか…………ありがとう」
謝罪しようとしていたアレックスは、思い直して礼を口にする。父はそれでさらに笑い皺を深めた。さらに胸が詰まる。
「とはいえ、可愛い娘ができるのが延びてしまった、と嘆いてもいるんだが」
「……は?」
「いや、あの時フィルがうちに来てくれていれば、今頃娘として楽しく一緒に暮らしていて、ついでに孫の一人ぐら――」
「っ、父さんっ」
「……照れなくてもいいだろうに」
「そういう問題じゃないっ」
「顔、真っ赤じゃないか、どうせ図星だろう? お前だってそう思ったことぐらいあるはずだ」
「っ」
――生憎、神妙な気分はすぐに消え失せてしまったが。
戸の向こうが騒がしくなった。どうやらスペリオスとサンドラがやってきたようだ。サンドラのはしゃいだ声が、階段をのぼる音と共に遠ざかっていく。
「一応言っておくが……今更ロンデールなんぞに後れを取るなよ」
「当然です」
笑みを消した父から鋭く告げられた言葉に、アレックスは一瞬で顔を引き締めた。対照的に、父は頬を緩める。
騎士フィル・ディランが、ザルアナック伯爵家の娘フィリシアであることを公表し、ロンデール公爵家嫡男との縁談を拒絶してから一月。
今では、ほとんどの人間が彼女がザルアナック伯爵家の娘、つまりアル・ド・ザルアナックの孫だと知っている。
あっさりしていたのは街の人々だ。
『へえ、貴族、ってフィルがかい? まあ、見た目だけならそんな感じがしなくもないけど……ああ、ザルアナックの。それじゃしょうがない』
『アル・ド・ザルアナックの孫なら納得だよ。いい方だったけど、あの方もかなり変わってたし』
『今更何を言うとるんかねえ。どう見たってあの子は、ザルアナックさま縁の子だろうに』
要約するとこんなところだ。
逆に顔色を失ったのが、貴族たちだった。英雄の孫の、『病弱』なはずの『秘めたる華』が、実はあの騎士だと気付いて滑稽なほど動揺していた。
ザルアナック家は新興、しかもたかが伯爵家と言えなくもない。されど祖であるアル・ド・ザルアナックが、内戦で旧王権に組して滅んだ公爵家の娘であるエレーニナを妻にしたのでなければ、フォルデリーク家同様、公爵位を得ていたはずだ。建国後、内政に干渉してこようとする諸外国を打破したのも彼の手柄だし、だからこそ今なお大衆の間で、神のように崇められている。
その彼に外見も性質も似ているという孫のフィルは、ナシュアナ王女との話や先の剣技大会の件などで元々本人の人気も高いし、今回明かされた素性をあわせて、今や国中の噂の的。
六十年前ならいざ知らず、大衆を軽んじたが故に、内戦終結後に断頭台の露と消えた先の貴族たちの記憶はいまだ消えていないのだ。そんな中、英雄そっくりな孫のフィルに意に染まぬことを強い、あえて大衆の怒りを買おうなどという貴族はいないだろう。
さらに言えば、二代目の現伯爵は父に勝るとも劣らないやり手で、政治的にも経済的にもかなりの実力を持っている。
そのザルアナック家の出のフィルをあからさまに貶していたセルナディア王女を始めとする者たちは顔色をなくし、恐々としているという。
同じ理由で、ロンデール公爵家ほど執拗でないにしても、ザルアナックにちょっかいをかけていたほとんどの貴族たちも手を引いたようだ。
例外はやはりロンデール家だ。かの家とザルアナック家の駆け引きは未だに続いている。
彼らは当初目的にしていた、フィリシア・フェーナ・ザルアナックについてはあきらめたようだ。だが、依然強力なカード――フィルの兄の薬を握っている。
フィルのせいで表立ってザルアナック家に仕掛けられなくなったとしても、それを使って裏から手を回す、という方法は他にいくらでもあるのだ。かの家の性質を考えれば、むしろそういったやり方のほうが得手だろう。
(実際ザルアナックは、ロンデールから再び仕掛けられ始めているようだし……)
「海洋諸国の紛争は、タフォラ国を中心とする勢力が優位にあると聞きました」
「かの国の王には既に接触はしているが、決着までもう少し時間がかかるだろう。ステファン曰く、猶予は一年ちょっとだそうだ」
アレックスは眉間に皺を寄せた。
「他に考えられるのは西経由。だが、ドムスクスの現状も南と変わりない……」
「いや、陸路のほうが、ルートの選択肢が多い分ましかもしれん」
父子で同じ顔をして、それぞれの手元を見つめ、考え込む。
沈黙の落ちていた客間にノックの音が響き、二人を物思いから引き戻した。
父の入室の許可を合図に、満面の笑みを湛えた母とサンドラに囲まれた……正確に言えば、拘束されたフィルがげっそりとした顔で客間に入ってくる。
「……おかしい、逃げ出せない……」
ぶつぶつと呟く彼女の短めの髪は、何をどうやったのか結い上げられ、白いうなじと長い首が露になっている。細身のドレスはやはりシンプルで、生地が柔らかいのか、緩やかにフィルの身体に纏わりついて、身体の曲線を浮き立たせている。
「……っ」
ちらりとこちらを見たフィルは、アレックスと目が合うなり、うなじまで赤く染めて俯いた。もちろんこの上なく可愛い。
が、アレックスは緩みそうになる頬を意識して締めた。父母の視線、しかもかなり性質の悪いものが自分に集中している。彼らをこれ以上、遊ばせてやる謂れはない。
そう決めて彼らを睨めば、「やあねえ、やせ我慢してるわ」「素直にならないと愛想をつかされるぞ」などと、またもニヤニヤと笑われてしまったが。
「ね、可愛いでしょ? 叔母さまとあれがいいこれがいいって、相談して決めたのよ。この間の夜会のもその前のもよかったけど、あれはラーナックさんやアレックスの趣味が出すぎ」
どうやら母とアレクサンドラはぐるだったらしい。フィルの背後で苦笑しているスペリオスに、得意そうな顔を向けている。
暗く歪んでしまっていた彼女の性格も、元に戻ってきた。そして、その視線を受けるスペリオスが、この上なく幸福そうに笑うようになった。
「確かに可愛いなあ」
「でしょう? シンディとあれこれ試してたのを思い出しちゃったわ」
こういう褒められ方に慣れていないのだろう、フィルは限界まで眉尻と口角を下げ、情けないとしか言いようのない顔をしているが、見知った人たちが幸せそうにしている光景に、つい口元が綻ぶ。
「他人事だと思って……」
気づかれて、フィルに涙目で睨まれてしまったが。
苦笑しながら立ち上がり、輪の中からフィルを自らの腕の中に引き寄せた。
伝わってくるやわらかい感触と甘い香り――衝動のままさらされた白い額に唇を落とす。
「っ!」
口をぱっくりと開けたフィルに、アレックスは微笑みかける。絶句する親兄弟と従妹の姿が視野に入るが、もういい。
「似合っている、フィル。制服は制服で最高に綺麗だが」
今度は音を立てて頬をついばむ。
(大丈夫、フィルのためであれば、俺はいくらでも強くあれる。強くなれる……)
そうして、絶対にこの手に彼女を。何より彼女に幸せを――。
「ね? すごいでしょう、叔父さま、叔母さま。フィルと一緒だと、ずっとあんな感じなんですよ」
「本当、アレックスってあんなふうだったっけ……」
「我が子ながら、意外な発見が絶えないわ……」
「フィルのおかげでな……」
だから、背後の両親たちの揶揄も呆れも、たいした問題ではないのだ。
「……って、そうじゃないっ、そうじゃないですっ、人前、しかもご家族の前で、一体何考えてるんですか! あーもー、それ以上寄ってこないでくださいっ!」
――我に返ったその彼女に、全力で逃げられ、拒絶されてしまったことに比べれば。