18-1.試練
「!!」
ビギリと音が立つのではないかという様相で固まったフィルを見て、アレックスは気まずさを隠すべく前髪をかき上げた。
視線を明後日の方向に逸らしつつ、言い足す。
「いや、俺の両親への挨拶に関しては、そんなに緊張する必要も、真剣に考える必要もないから……」
そう口にしてしまってから、『しまった』と思った。
「……あー」
(普通は緊張するもの、真剣に考えるものだと言ったも同然だった……)
顔をさらに強張らせたフィルを見、アレックスは眉尻を下げた。
途方にくれて思わず天を仰げば、冬には珍しく高く青く澄んだ空が広がっていた。
今日はせっかくの休日だ。ここのところ、仕事以外の時間をすべてとられていた、ロンデールやら何やらのごたごたが一旦落ち着いて、ようやくゆっくりできるようになったところだ。
この日一日、久しぶりにデートでもして、ただ二人で過ごせるなら、どんなに幸せだっただろう……?
しかも、半ば騙しうちのようにフィルを外に連れ出したことに罪悪感を覚えているから、なおのこと気まずくて、正面から彼女の顔を見られない。
「その、フィル、」
呼びかけに応じて、フィルはのろのろと顔をあげた。
「あの、今日、今から、ですか……?」
「……っ」
心臓がドクリと音を立てた。アレックスは顔の下半分を左手で押さえて、再びフィルから顔を背ける。
「その、色々お世話になった、とお伺いしています、から……一度、その、ご挨拶とお礼をしなくてはいけない、と思ってはいるんです。けど、今日、すぐ……?」
不安そうに、困ったようにこちらを見上げてくる表情は、普段の彼女とのギャップが強すぎて、壮絶に可愛い。愛する人から頼りにされたいという願望はアレックスにも人並みにあるが、フィルがこんなふうに縋るように頼ってくることは今までなかったし、おそらくこの先もない。
湧き上がってきた、『人生で多分唯一のフィルだ、抱きしめて、思うまま口付けよう』などという不埒な衝動を、だが、アレックスは全力で抑え込んだ。
瞳を潤ませるフィルの姿を大衆にさらしてやる趣味はないのだし、大体そんなことをしようものなら、すぐに抑えが利かなくなる。必然的に実家に行くのは延期だ。
『いい加減私たちにも会わせて! いーい? 今度こそ、今度こそ連れてきなさい!』
十八年間ずっとシンディの娘の彼女に会いたかった、アレックスがザルアを訪れて帰ってきてからは一層、と言い募ってきた母の姿を思い出し、アレックスは唇を引き結ぶ。
彼女からすればようやく取り付けた約束だ。反故にすれば、彼女の性格上、もう黙っていないだろう。父もおそらく今回ばかりは母をなだめてくれない。――是が非でも避けるべき事態だ。
蒼褪めつつ、アレックスは急いで次の言葉を探して口を開いた。
「スペリオスもいるし、アレクサンドラも遊びに来ることになっているから、」
「サンドラ……ひょっとして結構前から決まっていました……?」
(しまった、さらに墓穴だ……)
本当に今日はらしくない、と思ってから、どうやら自分も相当動揺しているようだと気付いた。
「……」
「その、ごめん」
どう答えたものか考えあぐねた挙げ句、フィルの泣き出しそうな、悲しそうな、責めるような、拗ねたような不思議な視線に降参し、頷いた。
「言ったら最後、ずっと悩みそうだったから」
「う」
「実際今ひどく悩んでいるだろう」
「そ、それは突然の話だからで」
「前もって言っていたら、大丈夫だったか」
「うー……」
「ほら」
「で、でででも、制服ですよ、騎士団の」
「制服で、という話だから」
「うぅ」
フィルがついに頭を抱え込んだ。
フィルが騎士団にいることが両親にばれてから既に一年。彼らにフィルを実家に連れて来いと言われるのを、のらりくらりとかわし続けてきたわけだが、それももう限界に近い。
あれこれと助力を仰ぐことが増えてきて、最近では実家に頭も上がらなくなってきたし、何より……――。
「その、俺の希望でもあるんだ。フィルを両親にちゃんと紹介しておきたい」
それが本音だ。からかわれることも文句を言われることも何もかも承知の上で、それでも彼女をきっちり両親に紹介したい。
「……っ」
赤くなったアレックスに釣られたように、フィルも頬を染めた。泣きそうな顔のままではあったが、コクリと頷いてくれる。
「ありがとう」
安堵とかわいさと嬉しさが相まって、つい顔を緩めてしまった。当の彼女には恨めしそうに睨まれてしまったが。
フィルの手を握り、冬の柔らかい日差しの中を実家に向かって歩き出す。
「……あ。ひょ、ひょっとしてお土産とかいるんじゃないでしょうか? だってジルさん、オッズの実家に行く時、どうしようってすごく困ってた。ど、どうしよう、何がいいですかね?」
「いらないと思うが」
「そ、そうなのかな? あ、でもオッズも同じように言って、ジルさんはそれを聞いて怒ってましたよ? 『あんたは自分の家族と気安くて当たり前でも、こっちはそうはいかないの!』って」
「……なるほど」
先日の喧嘩はそのせいだったのか、とアレックスは同期から聞いた恋人との諍いの愚痴を思い出して眉をひそめた。
(そうは言っても、うちの親の場合はフィル自身が一番の土産な気が……)
アレックスは再び視線を泳がせる。
まず間違いなく正しいと思うが、そう口にすれば、フィルをさらに怯えさせるのは目に見えているので、口にはしない。
「それに、今までも夏に色々頂いてきましたし、今もお世話になっているし、どうせなら何か喜んでもらいたいし……」
微妙に眉間を寄せつつ、フィルは「でも本当に何がいいんだろ?」と首を傾げた。
「ケーキ? チョコレート? バランスの整ってる投げナイフ? 打ち身に効く膏薬? 意表をつくなら……レメント?」
「……それはフィルがもらって嬉しいものだな」
(というか、最後の、本音ではやっぱりほしかったのか……)
「うん、いくらあっても困らない――あ、お茶」
「レメントだけは賛成できないが、じゃあ、それで。いつもの所に寄って行こう」
眉根を寄せていたフィルが明るく顔を綻ばせたのを見て、アレックスもつられて微笑んだ。
「……」
そうして馴染みの紅茶を専門とする問屋へと方向を転換しながら、アレックスはふと右頬を痙攣させた。
今日これから顔を合わせるのは、あの母とあの父、そして、フィルだ。
(俺にとって最強の組み合わせになるかもしれない。それどころか……)
「どの葉が良いかな、喜んでくれるかな……」
わずかな期待を緊張に交えて呟くフィルの傍ら――。
「最凶、の可能性もある……」
アレックスは嫌な予感にうめき声を漏らした。
街はそんな二人の心境とは対照的に、晴れた午前の日差しの中で、穏やかな賑わいを見せている。