17-15.祈り
「二年半前はお祖父さまが亡くなって、ひたすら途方にくれているという感じだったのに」
王城から邸に戻るなりさっさと着替え、言いたいことだけ言ってお茶を一気飲みし、フィリシアは深夜の町に駆け出していった。彼女が置き去りにしたまだ温かいティ-カップを手にとって、ラーナックが苦笑を零す。
息子のその感想にステファンも同意する。あの日泣きそうな顔で、孤独と将来に怯えていた娘は、いつの間にか自分の身を担保に一公爵を牽制できるところにまで至っていた。
「父によく似ている」
息子の私より遙かに、とステファンは呟いた。
「だから私は余計あれにわだかまりを抱いてしまうのだろうな……」
英雄と呼ばれて多くの国民から慕われた父、アル・ド・ザルアナックは、今なおステファンが最も憧れ、最も憎む相手だ。
彼は息子に自分のようになれとは決して言わなかったけれど、周囲、そして誰よりステファン自身がそうなることを望んだ。
それが無理だとわかった時、憧れと尊敬は嫉妬と憎しみとなってステファンの内に宿り、その刃でステファンの精神を切り刻み始めた。
一体何の因果だったのだろう……? あの娘の容姿は謀ったかのようにそんな彼にそっくりだった。
シンディとの別れから時間が経って、もう大丈夫だろう、いい加減約束を果たさなくては、とザルアに赴くたびに、その姿と言動に父の面影を見て自信を失い、結局王都に逃げ帰った。
(それなのに……)
「器が違うな」
目の前で、ラーナックが目を見開いた。その瞳の色にステファンは今は亡き最愛の人を思い出す――そんなステファンに、初めて自分自身を受け入れさせた人だ。
『私には特に問題ではありません。だって愛情も葛藤も全部含めてあなたでしょう? 私はそんなあなたが好きなのです』
そう言って、何が問題なのかという顔をして、平然とステファンを好きだと言ってのけた――。
もしかしたら、あの娘が彼女に最も似ているのは、その辺りなのかも知れないと思いついて、ステファンは天を仰いだ。
あの日、最愛の彼女を引き換えに生まれてきたあの娘は、ステファンにとって、自分の罪の象徴であり、恐怖の対象だった。
彼女がこの世から消えた慟哭のままに、何の責もないと本当は知っているはずのあの娘を遠ざけ――それから二月ほど経った頃だっただろうか、意識が少しだけはっきりした。
彼女の娘という思いと父としての義務、何より彼女がそう願っていたという事実に、何度も娘に近寄ろうとしては身を竦ませた。
彼女の忘れ形見を愛しいと思う一方で、その泣き声を聞くたびに、彼女がもういないという事実を突きつけられた。ラーナックの時、彼が泣くたびに優しく笑ったり困ったような顔をしたりしながら、彼を抱き上げ、穏やかに話しかけていた彼女の様子を思い出してしまったから。
今、泣く娘を抱き上げる者は彼女ではない。それを確かめるたびに、叫びたくなった。
ラーナックを抱き上げた自分に、シンディが幸せそうに微笑みかけてきた光景――ある晩、静まり返った夜の屋敷の中で、初めて娘を抱き上げようとした瞬間にそれが蘇った。
今この娘を抱き上げても、それを見て笑ってくれる彼女はもういない。
うまく抱けなくて泣かせてしまっても、慌てて駆け寄ってくる彼女はもういない。
腕にこの娘を抱き、自分を見上げて幸せそうに微笑みかけてくるはずの彼女はもうどこにもいない。
それを確かめたら、間違いなくもう生きていられない、そう思った。
「……」
ならば、と小さなベッドに眠る小さな娘を見つめた――共に死んでしまおう、と。
「っ」
だが、小さな首に手をかけた瞬間、その娘は目を開いてこちらを見つめてきた。
月明かりを受けて鮮明になった、父にそっくりの色の瞳は、亡くなる寸前だったのに、彼女が「綺麗」と笑っていたもので……。
「っ、なぜ、なぜ私とこの娘を置いていった……っ、なぜ一緒に死ねと言ってくれなかった……っ」
出会ってから初めて彼女に対して怨嗟の声を上げた。そんなことが起こりうるなど、考えたことすらなかったのに。
恐ろしかった。
娘が存在することが、彼女の不在を突きつけてくる。
娘はラーナックとは違った。娘はステファンと共に彼女との時間を共有していない。共に彼女を偲んだりはしない。だからこそ余計不憫だと思う部分も確かにあったのに、顔を見るとだめだった。傍らにいると、今度こそ何をするか自分でもわからなかった。
そして……父と母に縋った。
一年経った頃、そんなステファンに諦めをつけたのだろう。両親はカザレナでのすべてをおいて、娘と共にザルアに行くとステファンに告げた。それに安堵した。彼らがどう自分を育ててくれたか、誰より良く知っている。
このまま一緒にいてもうまく愛してやれない。共に命を絶ってしまうかもしれない。そんな自分の元にいるよりも、娘も幸せになるだろうと勝手に結論をつけて……逃げた。
それでもその後も思い返すたびに、もう大丈夫かもしれないと思うたびに、娘に会いにザルアに行った。
幼い娘がどこか彼女に似た顔で笑うのを愛しいと思い、なぜ彼女を知りもしないくせに、お前は同じ顔で笑うのかと憤った。
肩車をしようとの申し出に娘がひどく驚き、緊張を露わにする。自業自得のくせにそれにいらついた。それでも、乗った肩の上で娘が小さな手で自分の頭をつかみ、笑い声をこぼす。その声を泣きたくなるくらい愛しく思った。
両親に懐き、幸せそうにしてくれていることに泣きたくなるぐらいの安堵を覚える一方で、私は彼女を失い、お前も母である彼女がいないはずなのに、なぜそうも幸せそうなのか、と心のうちで理不尽に責めた。
憎むことも愛することもできない、憎まないことも愛さないこともできない――。
父が死んで一人になったその娘が手元にやってきて、一番戸惑ったのはステファンだった。
何を考えているかもわからないあの娘に、今更どう接したらいいかわからなかった。
今思えばそれは娘も同じだったのだろう。娘は何も言わないまま、ステファンの手元から再び出て行った。
それからは、父に似たあの強い瞳を恐れて、向き合うことを避け続けた。
しばらく後には、幸いだったのか逆なのか判別のしようがなかったものの、父と同じ類の瞳を持つ男が娘の側に見え隠れするようになる。
彼は良くも悪くもステファンの幼馴染、ヒルディスの息子だった。嫌になるくらい聡く鋭いのに、どこか他人に、ステファンのような人間にすら甘い。
すべてを手中にするか、すべてを捨て去るか―――普通の人間には難しいと思ったが、彼ならそのいずれかを選択してあの娘の側に居続けようとするだろうと、出会いからしばしの後に悟った。
ならばもういい、どうせこの関係は一生変わらないのだから、と思い始めた時だった。同じく自分が避け続けた友人たちが、いい加減その娘と向き合え、と促していくようになった。
それに『当の娘が向き合おうとしない』と言い訳していたのに……。
あの日、娘はここへやってきて、緊張を露わに、それでもステファンをまっすぐ見つめた。そして、「どんな形であれ、私は幸せだったから、それがすべてなんです。あなたが私を愛していたかどうかも、私にとっては実はあまり問題じゃないんです」と言い放った。だから、彼女はきっと私のことであなたを責めたりしない、と。
いっそ罵ってくれれば良かった。最低な父親だ、と。そうすれば、それに抗弁しようと、亡き妻の思い出に縋って、ただ呼吸しているだけの自分を正当化することもできた。
いっそ謝罪を要求されれば、それに応じることで、自己憐憫に浸って、自分を見ないふりすることもできた。
そのために、実の娘に憎んでいるとまで言ったのに。
『私は幸せだったから問題ない』――許しに聞こえる寛容な言葉が、実は最も厳しい言葉だとあの娘はわかっているのだろうか。
その言葉に脳裏に浮かんだのは、息子と同じ色の瞳が悲しげに自分を責める幻影――「なぜ?」と、「幸せになってと頼んだのに、幸せそうに笑った顔が好きだといつも言っていたのになぜ?」と。
『お前はシンディの影を追って、生きることを放棄する気か』
母と乳母にまかせきり、同じ邸にいながら娘を見ようともしなかった自分に、父が投げかけた問いを、十八年経った今再び突きつけられた気がした。
「父さま?」
苦笑を浮かべたステファンに、ラーナックが怪訝な顔を向けてきた。
きっと十八年の間に築かれた、父に似たあの娘との距離は埋まらないだろう。
だが、『問題ない』のだ。あの娘とこの息子が幸せでありさえすれば、そして自分が幸せとなるための努力を放棄しなければ。
それができるようになれば、この十八年間、夢の中ですら笑ってくれなかった自分の最愛のあの人、あの娘の母たる彼女は再び笑ってくれるのだろう。
(こんな私にそう言ってくれたあの娘は、間違いなく彼女の娘だ……)
そう実感して、ステファンは泣き笑いを顔に浮かべ、左手で両まぶたを押さえる。
「どこまでも嫌みな娘だ」
なのに、それにこそ救われる。
「名、まえを考えた、の……フィリシア、よ。可愛、いでしょ……?」
十八年前、彼女があの娘に贈ったもの。
「ふふ……綺麗、なひと、み……きっと、美人、になるわ」
十八年前、彼女があの娘に与えた慈しみ。
「一緒、にいられなくて、ごめんね……」
十八年前、彼女があの娘に向けた謝罪。
「……フィリシ、ア……幸せに……なって……」
十八年前、彼女があの娘に託した祈り。
彼女が命のほかにフィリシアに残したものは、たった四つ。ステファンはそれすらあの娘に伝えていなかった。
彼女を失ったことを直視したくなかった。
「幸せに……なって……」
本当は知っていた。彼女が繰り返したあの言葉の二回目が、自分に向けられていたことを。
だから死ぬに死ねなかったくせに、知らないふりをしていた。気付かないふりをしていたかった。
君なしでどうしたら幸せになれるというのだ? そう思ったから。
彼女はきっと酷く悲しんでいたのだろうに。
「十八年かかってしまったな……」
――シンディ、ようやく君の僕のための祈りを受け入れる覚悟ができた。
ステファンはソファの背もたれにゆっくりと身を任せると、目を閉じ、脳裏に愛しいその人の瞳の色を思い、語りかける。
君が名を贈ったあの娘は、君の予言通りに中々美人になった。あの娘は君の祈りどおり、幸せになるつもりらしい。
君が遺した言葉をようやくその娘に届ける。彼女が君の言葉にどう反応するか、父親であることを放棄してきた私には予想もつかないのが悲しいけれど。
それから、少しはあの娘の父親らしくなってみようと思う。彼女がそれを今更受け入れてくれるかはわからないけれど、それでも今から初めてみようと思う。
そして、いつか君に会うまでに、少しは幸せを感じられるようになっておく。君がいないなりに、だが、そこは妥協してほしい。
そうしたら、君は私を許してくれるだろうか。君との約束を長い間反故にしていたことを。
そうしたら、シンディ、夢の中でいい。私が今なお恋うて止まないあの笑顔をもう一度だけ見せて欲しい――。