17-12.収穫祭
収穫祭は、その年の恵みを農業の神々に感謝する祭りだ。秋の終わり、冬が来る直前に実施される。
祖父が育った村にも収穫祭――古くは収農の儀と言った――はあったそうで、昔旅をしている途中に、秋の麦穂の刈り入れを見ながら彼が話してくれた。農村には農業に関するたくさんの神さまがいた、と。
耕作、種まき、麦踏み、草取り、水やり、収穫、脱穀などの各種作業を司る神さまたちには、それぞれ男女のお好みがあるとされていて、その年の各々の作業始めには、神ごとに男衆なり女衆なりが細々とした儀式を行っていたという。
農作業の総閉めとなる収農の儀の際もそれに倣って、男女わかれて集っていたそうだ。
そこでそれぞれ受け持ちの神々を祀り、舞踊や歌謡などを奉納して感謝を捧げた後、男女は暦の上で秋が終わる深夜に一か所に集う。そうして、夫婦を中心とする家族が一緒になり、冬の神を迎えるんだ、と祖父は懐かしそうに子供時代を語っていた。
王都のカザレナでも、収穫祭は一応あるという。カザレナ河沿いの肥沃な土地にあるこの町は一昔前までは農業がさかんで、収穫祭こと収納の儀は春の花祭り以上に重要視されていたようだ。古い記録が残っていると聞いた。
だが、開発が進み、畑地が消えた今は、農耕の神々を祀る神殿も神事も衰退し、細々と残る祭りからも厳かさは消えつつあるらしい。古くからの下町以外の多くの場所では秋のちょっとした慣習として非日常を楽しむ、世俗的なものとなっているという。
それというのも、昔の農作業の慣習に則って儀式化された収穫祭の趣向――男女別々に集って、合図をきっかけに意中の相手へと歩み寄るという部分が、特に若者にとって面白いからだろう。
さすがに、王宮では古くからの伝統が残っていて、王族を中心に儀式も厳密に行われるし、冬の訪れとともに儀場の仕切りがなくなるという習慣も守られているらしいが、フェルドリックに言わせると、「色恋に頭の沸いたやつが、変わった趣向を珍重するだけ」という点では城だろうと、城下だろうと変わらないそうだ。
馬車が止まった。
「……」
御者の手を借りて馬車を降りると、辺りはもうすっかり夜の気配に包まれていた。明日から冬というだけあって、空気がひどく冷たい。以前同様長くした髪は、今日は頭の後ろに結わい上げられていて、うなじが夜風に直にさらされる。思わず身震いすれば、葡萄を模した真珠の耳飾りが揺れて、耳元でしゃらりと小さな音を立てた。
目の前には、今日の会場である白砂宮に続く、長い階段が延びている。宮殿入り口の両脇にそびえる石柱が妙に威圧的に見えて、つい眉根を寄せてしまった。
(この先に彼がいる……)
その姿を思い描いて、フィルは決意が揺るがないよう、大きく息を吐いた。もう決めたことだ、今更引き返せない、やるしかない、そう自分に言い聞かせる。
傾斜の緩い階段に足をかければ、足元でこつりと細い音が立った。折れそうに細い、高い踵の靴は、歩き方のコツを覚えたら、普通に動けるようにはなった。好きかと訊かれれば、相変わらず嫌いだけれど、『ザルアナック伯爵令嬢』としては仕方がないのだろう。諦めた。
到着が遅かったためか、周囲に人影は少ない。儀式の趣向に則ってか、いるのは女性ばかりだ。彼女たちの視線が自分に集まっているのを感じたが、フィルは意識して顔を上げ、真っ直ぐ行く先を見つめる。
上りきった先にある扉の前に佇んでいるのも、近衛騎士ではなく、それに似た制服を身に着け、小麦や果実などの装飾品で着飾った、王宮付きの侍女と思しき人たちだ。事前に聞いていた通り、こちら側は徹底して男子禁制らしい。
「……え?」
その中の一人と目が合った。彼女の黒色の目が目一杯見開かれる。
「フィリシア・フェーナ・ザルアナックと申します」
「は? あ……ええ、と、ザ、ザルアナック……伯爵、れいじょう……ど、うぞ……」
差し出した招待状を、挙動不審気味に確認した彼女は、微笑みかけたフィルに半ば呆けながらも、扉を開けてくれた。
「フィリ……って、ザルアナック……って、は、伯爵令嬢! ひ、秘めたる華!」
「え、だって……うそ、ほんとに……?」
「う、わあ……私、帰ったら、見たって自慢しまくるわ、絶対……」
背後で、興奮を交えた声がする。胸を撫で下ろすべきかそれとも嘆くべきか。複雑な気分を覚えて、フィルは片眉をしかめた。
「……大きい」
なるほど、フェルドリックやナシアの説明どおりだった。会場の中央には、上は天井、左右はそれぞれの窓まで届く広大な幕が引かれていた。
銀糸で蔦や小麦、葡萄、林檎などの模様が刺繍された、透けそうで透けない白い布製の幕の向こうにも人々の気配がある。
日が変わって、暦上の冬となるまであと少し。儀式は既に済んだのだろう。幕の前には女性たちが集まっていて、仕切りが取り払われるのを今か今かと待っている。
会場は不思議な昂揚に包まれていた。ある者は隣に立つ者とくすくすと笑いながら囁きを交わし、ある者は布を隔てた向こうの誰かと、言葉を交わしている。
いつかの夜会より砕けた感じがして、皆どこか子供みたいな顔をして見えた。フェルドリックは、毒いっぱいに「最悪にくだらない」と言っていたけれど、いつもの取り澄ました作り物っぽい表情よりもよほど好感が持てる。
――だからと言って、今後を考えると、フィルは微笑む気分にもなれないのだけれど。
『一週間後の王城での収穫祭。そこで私をパートナーとして選んでください』
あの幕が開いたら、既婚者は伴侶の元へ、そうでない人は婚約者や想う相手の元へと行くのだとアレクサンドラに聞かされ、フィルはあの晩のロンデールの言葉の意味を知った。
私に、彼、アンドリュー・バロック・ロンデールを『選ばせる』気なんだ、アレックスを含むたくさんの人の目の前で――そう理解して、愕然とした。
そうせざるを得ないように仕向けておきながら、私に、私が本当に好いている人の目の前で、別の人を選ばせる。それがどれだけ残酷なことか、わからない人ではないと思っていた。
兄の身を引き換えにしたことといい、なぜ、そうまでして、と思わずにはいられない。
「……」
この幕の向こうにいるだろう、緑灰の瞳の主。いつもどこか翳りのある表情を帯びた、けれど、根は優しいだろうと思っていた彼の姿を思い浮かべ、フィルは眉間に深い皺を寄せた。
あそこには彼の父、ロンデール公爵もいる。そのつもりで出席する、と使者に優越に満ちた言葉を持たせて、実家に知らせてきたそうだから。フェルドリックやアレックスの父であるフォルデリーク公爵にも、城で出会った際にわざとらしく出席を確認してきたそうだ。
(あの幕が取り払われたら、すべてが決まる……)
ロンデール父子、祖父母、父、兄、そして最後にアレックスの顔が、順に脳裏に浮かんでは消えていった。
緊張とこみ上げてくる苦味。知らず握り締めていたてのひらには、いつの間にか汗が溜まっている。
楽しそうにおしゃべりに興じていた少女たちが、斜め後ろのフィルに気付いて、目を丸くした。ぽかんと口を開ける彼女たちに、フィルは寄せていた眉を咄嗟に戻し、できるだけ柔らかくみえるよう、微笑みかける。
彼女たちの頬が赤く染まっていくのを見て、息を吐き出すと、フィルは再び歩き出した。目指すのは会場の中央、空間を二つに仕切るあの幕だ。
心臓がばくばくと音を立て始めた。
これでいいのだろうか、自分のやっていることは、やろうとしていることは、本当に間違っていないだろうか――。
決心してきたはずなのに、この期に及んでそんな考えが浮かんできて、揺らぎそうになる。
少しずつ周囲の目が自分に集まり、それに応じて幕のこちら側のざわめきが大きくなっていく。
「あの方……」「嘘……」という声があちこちから聞こえてくる。
必死に平静を装っているけれど、内心逃げ出したくて仕方がなかった。でも、兄のために逃げられない。
命すら諦めていいと、兄はそこまでフィルのことを思いやってくれた。兄をこの上なく大事にしている父は、それでも彼のためにフィルを犠牲にしようとはしなかった。そんな二人を見捨てることはできない。したくない。
誰もがフィルを遠巻きに凝視している。誰一人近寄ってこない。
そんな中、人垣を割り、躊躇なく自分へと向かってくる人影が二つ――。
「アレックスが貴女に人を寄せるなと言っていたけれど……そうきたのね」
「アレクサンドラ」
冷たく見えるほどの美貌を持つ彼女が、フィルの前に立つなり全身を頭のてっぺんから足先まで眺めまわし、呆れ声を出した。幼く見えるその顔に、少しだけ緊張が解れる。
「前も思ったけれど、あなた、本当に綺麗だわ。あの叔母さまがあなたのお母さまのことを、『並んで立つのも気が引けてしまうくらいに美しかった』と仰っていたけれど、きっとこんな気持ちだったのね。けど……」
続いて顔をしかめ、「スペリオスが当日のお楽しみって言ってたのは、こういうことだったのね。びっくりさせて後で笑う気だったんだわ」とぼやく。
それから、「あ、あの、アレクサンドラさま、その方、」と遠くから話しかけてきたどこかの令嬢に、「ご覧の通りです」と目も向けずにぴしゃりと返して黙らせた。
「ふふふ、だって彼女、泣いて王子さまの救出を待つお姫さまって柄じゃないもの」
澄んだ声に、フィルはサンドラと共に祭壇の置かれた上座を仰いだ。
儀式を司っていたのだろう、裾の長いローブを纏い、小麦の穂を抱えたナシュアナが近づいてきて、フィルににこやかに笑いかけた。
「――ね、フィル?」
その瞬間、動揺が沸き起こった。興奮と疑念を交えた早口があちこちで飛び交い始める。
ナシュアナの向こうには、同じ衣装を身につけた第一王女セルナディアがいて、茫然自失といった顔でこちらを見ていた。
「なるほど」
ナシュアナの言葉に、アレクサンドラはなぜか納得したらしい。にこっと笑ったサンドラに苦笑を返すと、フィルはナシュアナに向き直った。
「ナシュアナ殿下」
信頼を込めて見上げてくる茶色の澄んだ瞳は、遥か下方にあるのに、いつもいつもフィルを励ましてくれる。
敬意を示すために彼女の前に膝を落とせば、結い上げた長い髪がふわりと床に触れた。その動きにあわせて、金鎖と真珠、翠石でできた髪飾りがしゃらしゃらと可愛らしい音を奏でる。
そして、フィルはいつものように王女の小さな手を取り、甲に口付けを落とす――。
「……」
その瞬間、会場は異形を見る目と、耳鳴りを起こすような深い沈黙に埋めつくされた。