【転生】1
「その二本の剣をこちらに渡せ、と言った」
父はいつもの凍えるような目でそう言い放った。
二か月近く前、祖父を看取ったフィルと兄ラーナックは、ザルアの別邸で簡易に葬儀を行った。最も近い町から馬で三時間もかかる、森の奥深くの屋敷だというのに、祖父を慕う地元の人々が大勢来てくれた。
フィルはそれで余計悲しみを誘われた。いなくなった彼を皆が惜しんでいる――その光景を目の当たりにして、本当に祖父も自分を残して逝ってしまったのだと実感させられたから。
死の一月前からザルアの別邸にきていた兄がずっと手を握っていてくれなかったら、きっと耐えられなかっただろう。
あとは埋葬となった段階で、カザレナの王城から急使が来て、祖父を国葬にするとフィルたちに告げた。
祖父の遺体は特殊な処理を施された後、王都へ搬送されることとなり、フィルはそれに片時も離れず付き添った。もう祖父は話してくれることも、抱きしめてくれることも、笑ってくれることも当然なかったけれど、その身だけはフィルの側にある。彼と離れるのが先延ばしになったことに救われる一方、無言のままただ横たわる彼の姿に体の芯が蝕まれていく気もした。
そうして、一ヶ月の馬車の旅の後、小雨の降りしきる中、フィルたちは王都カザレナに入った。フィルは街に目をやることもなく、棺の中で眠っている祖父の顔をひたすら見つめる。
彼の表情は穏やかだったけれど、病と闘ううちに随分痩せてしまっていた。あれほど強くてしなやかだったのに、と思うとひどく悲しかった。
フィルが祖父の祖父らしい姿を見たのは、それが最後だった。後はどこの誰とも知らない人たちがあれこれと手配をし、祖父の身を再度清め、豪奢な衣装を身に着けさせ、死化粧を施し、カザック王国建国の亡き英雄アル・ド・ザルアナックとして飾った。
賑やかな都会の街の、高く透き通った青空の下。葬式らしく華美ではないものの、意匠を凝らした斎場の入り口から先に、フィルは足を踏み入れることが出来なかった。祖父ではない人が中心に祀られているような気がして足がすくんだ。
皆が“英雄”を愛し、その死を嘆き悲しんでくれている。でも死で遠ざかった祖父がさらに遠ざかって行く気がして、苦しくて、自分が場違いな気がして、フィルは結局国葬に立ち会うことが出来なかった。
苦い顔をする父を敢えて見ないふりをして、祖父と祖母が愛した王立のデラウェール図書館に向かった。そして、古いその建物の最上階の窓枠に腰掛けて、棺が国立墓地に運ばれていくのを見送り、葬儀の終了を知らせる神殿の鐘の音と共に静かに泣いた。
膝上に置いた祖父の剣を撫でる。自分のものと姉妹剣であるこれを、ザルアのあの湖のほとり、祖母の眠る場所の傍らに埋めよう。だって二人ともあんなに仲がよかったのに、最後が離れ離れなんてきっと寂しい――残された者のただの感傷だとはわかっていた。だがそうしなくては自分が壊れてしまう気がした。
フィルを育ててくれた、フィルの大事な人たちは皆いなくなってしまった。
一通りの儀式が終わってひと段落着いたカザレナのザルアナック伯爵邸で、フィルはザルアへの帰郷――フィルにとってはあちらが故郷だ――を告げに父の元へと赴いたのだが、彼はその必要はないと言う。祖父の剣を埋めたいのだと食い下がったフィルに、彼は「ではその剣を寄越せ」と言ってきた。
「嫌です」
その父にフィルはほとんど反射で返すと、唇をかみ締め、怯まないように意識しながら彼を睨み付けた。
フィルはこの父が苦手だった。ほとんど会ったこともなければ、何を考えているかわからない。その上、彼の纏う空気が、フィルにはとても重く感じる。
昔祖母に、なぜお父さんとお母さんがフィルにはいないのか、と訊いた時、彼女は寂しそうに笑って、お母さんが亡くなって、お父さんだけでは大変だったからだ、誰も悪くなどない、と答えていた。だが、きっとそれだけではない。多分だが、自分は彼に好かれてはいない。
「お前には必要のないものだ」
父は顔色一つ変えることなく、そう告げる。それに一層苛立つ。
「あなたにこそ必要はないでしょう」
父は剣を今はほとんど嗜まないと聞いた。フィルの言葉に、その通りというように父は頷き、「剣など私の役には立たない」と言う。
「……」
その冷たい響きに自分が用無しだと言われているような気がして、胸が軋んだ。
「だが、お前にそれを持っていられても困る」
フィルは父を睨みつけたまま、眉をひそめる。その顔を疑問と思ったのだろう。父はひどく不快気に鼻を鳴らした。
「お前ももう十六だ。いつまでもそんな物を振り回し、剣士を気取っていてどうする。せいぜい着飾り、結婚相手を探す努力でもしろ。いつまでも居座ってラーナックに負担をかけるつもりか」
「……」
顔から血の気が失われたのが自分でもわかった。
それは半年ほど前、血を吐いて祖父が倒れた時に気付き、敢えて考えないようにしていたことだった。祖父が元気な間は、祖父と一緒にあちこちを旅して野宿して、たまに村人の依頼を受けて魔物や山賊を掃討して、そうしてずっと過ごしていくんだと思うともなしに思っていたのに。
そんなフィルを父は見下すように見ている。
着飾って、結婚して、母になって……それ以外の女性の生き方なんてよく知らない。女性剣士なんて会ったことはおろか、聞いたこともない。知り合い以外の誰もフィルが女だなんて知らないし、気付かなかった。
昔ザルアの町の子供たちに言われた『変』という言葉が、その時向けられた蔑みの視線と共に蘇る。
「わかったなら、それを手渡せ」
知らず顔を伏せれば、こちらに踏み出してきた父の足が視界に入った。同時に左腰に挿した二本の剣も。
そのうちの細い方、飾りっ気のない実用一辺倒の細剣――頑丈で、軽くて、切れの落ちない、バランスのいい剣。これを指して、知り合いの名匠に頼んで作ってもらった、何とかという名の剣だと祖父は言っていたけれど、そんなのは覚えていない。でも何度もフィルの命を救ってくれた、フィルの剣。ある時は祖父にボロボロにされて、ある時は全然上達しなくて、嫌になって捨ててしまおうとした。でもしなかった。出来なかった。ずっとこれと一緒に生きてきた――。
「……」
顔をあげて父を見ると、苛立たしげに彼が顔を歪ませたのがわかった。
「そんな物を持つお前に価値などない」
その顔の歪みが自分に移る。
「それは父さ……あなた、の決めることではない」
勝手に込み上げてこようとする涙を堪えるために、腰の剣を握り締め、父を睨み付けた。彼の苛立ちが増したのを感じる。
「私の命令に従えないならば、出て行け。以後ザルアナックの名を名乗ることも、周囲に関係を疑われることも慎んでもらおう」
そう言い捨てて、父は執務室を出て行った。
扉の閉まる音を聞いて、フィルは詰めていた息を吐き出し、凝り固まっていた左のこぶしをぎこちなく剣から外す。そして息をするために顔を上げて……執務室の一角に祖父の肖像画を認めた。
「じいさま……」
厳しい表情をしているのに、目元にどこか笑いを湛えているその顔に、ついこの間まで生きていた彼の面影を見つけて、フィルは一滴涙を零した。
外は静かに、霧のような雨が降っている。
王都に入って二週間。自分が貴族の、特に女の子とどれだけ違うかはなんとなくわかった。遠目でもあっても喪服を着ていても、彼女達は華やかで奇麗で、おとぎ話の中の妖精のようだった。
(剣を捨てたら……? ううん、元々持っていなかったら……?)
そんな自分を、その先の自分を想像しようとして――結局できなかった。
(そうか、だからここに私のいる場所はないんだ……)
フィルは苦さと共にそう悟ると、自嘲気味に笑った。
「ばあさま」
祖父の傍らに掲げられた祖母の肖像画に目を留める。優しい微笑み。泥だらけ傷だらけになって帰ってくる自分に、陽気に笑った人。
『フィル、生きたいように生きなさい。私はそうしたわ。楽しい人生だったのよ』
臨終の床で、祖母は『ねえ、アル』と祖父を見て微笑み、それからもう一度フィルを見た。
『それでいつか楽しい話をいっぱい聞かせてね』
そう言って、やはり優しい眼差しで笑った。
『フィル、私はこの身が朽ちてなお、お前の幸せを願い続ける。幸せになりなさい、幸せに生きなさい』
意識を失う前の最後の会話で、祖父はフィルを真っ直ぐ見て真剣にそう言い、それから幸せそうに微笑んだ。
『フィル、誰かを守れるってすごい力だね』
そんな風になりたい――そう何かを決意したような顔を見せて、アレクは王都へと帰っていった。
「……」
フィルは目を閉じる。大きく息を吸い込むと、雨の香りが体に満ちる気がした。
(――帰ろう、ザルアへ。そしてそこから探しに行こう、私の場所を)
「……見ていて」
フィルは目を開いて顔をあげると、唇の両端を無理に持ち上げ、にっと肖像たちに笑って見せる。
それから、窓辺に移動して「ねえ、アレク、みんななくなっちゃったみたい」と雨の降りしきるカザレナの空を見上げ、この空の下にいるだろう親友に話しかけた。
「でも、これだけは捨てない。だって、これは大事な人のための力だから。アレクがそう言ってくれたから、だから頑張るよ」
剣の柄に手を添え、そうしたら、きっと私の居場所は見つかる――そう自分に言い聞かせる。
それでも寂しさも不安も消えない。
アレクはまた会える、フィルのいるところに行くと言ってくれたけど、と眉尻を落とした直後に、フィルは目を瞬かせた。
「……そっか、探せばいいんだ。私から会いに行こう」
そうしてちゃんと見つけられたら、今度こそ一緒にいよう、ずっと、ずっと――そう思いついたら、今日初めてちゃんと笑うことができた。




