17-11.折損
アンドリュー・バロック・ロンデールは、現王家より古くから続く貴族の血筋に、嫡男として生まれた。兄弟は既に嫁した妹と、数回見かけたことがあるだけの、歳の離れた腹違いの弟が一人。
両親の夫婦仲は政略結婚の例に漏れず冷め切っていて、互いに向ける目には嫌悪が宿っている。目の前で彼らが繰り返す、醜い諍いやあてこすりと嫌みの応酬の数々に、こういう関係を築きたくはないものだ、と漠然と思っていた。
そのどちらからも嫡男に対するもの以外の関心や愛情を感じたことはない。彼らはロンデールの内心に興味などなかった。ただ、嫡男として彼らが望むに足れば、それでよいということだと、十になる頃には気付いていた。
名門の貴族の嫡男に相応しい教養をと、早くからその教育を受け、五歳の頃には婚約者も決まっていた。その後何年間も顔すら見ることのない相手だった。
また、貴族の子弟の素養と一つだからと、言われるまま師に付いて剣を習った。幸いにして才能に恵まれ、父の勧めるまま近衛騎士団に入った。そこで王子なり、王女なり、他の貴族の子女なり、時勢を握るのに鍵となる人物たちと知り合ってこい、そういうことだった。
息をするより自然に本音を隠し、笑顔は喜楽というより必要性の産物。怒りも痛みも何もかも仮面の裏に隠すくせに、必要があれば裏に何もなくても、仮面にその色を貼り付ける。
思いやりや優しさは道徳の中だけに存在している観念で、『そうしなければいけないとされているからそうする』代物だった。
何かがおかしいと感じても、正体がわからない。周囲もみなそうしていたから、それが人というものだと考えるともなしに思っていたように思う。違和感を覚える自分こそが、どこかおかしいのだ――そう自分を納得させる毎日だった。
そんなロンデールが、アル・ド・ザルアナックに出会ったのは、近衛騎士として王宮に詰めていたある日のこと。
祖父や父、一族が激しく憎む、平民出の英雄の戦歴は華々しいものだった。
旧王権下の公爵家の次男だったアドリオット・シルニア・カザックは、追放先からカザック――当時はカザレナ国と言ったが――に密かに戻ると、不満を持つ民衆を先導・組織化し、旧王権に対して宣戦を布告した。後にカザック朝の建国王となった彼を、最初から最後まで支えたのが、名字も許されない、農奴の出のアルと呼ばれる青年だった。
無能な平民の寄せ集めという旧王国軍の侮りを嘲笑うかのように、彼は内戦の初戦を劇的に飾った。五対一という兵力差も装備の圧倒的な差も、彼の率いる反乱軍にはなんの意味もなさなかったという。
将校として優れる一方、一人の武人としても傑出していた彼は、戦場においては常に先頭に立って陣を率い、破竹の勢いで敵を蹴散らし突き進んでは、味方を鼓舞した人物でもある。
彼はそのカリスマでもって反乱軍を、そして旧王権に疲弊しきっていた国民全体を勢いづけ、結果たった四年の内戦の末に、王権の交替は実現した。
戦後においては建国王と諮り、騎士団を樹立。徹底した選抜と訓練、統制を通じて、後に大陸最強と謳われることになる軍組織を作り上げる。
旧王家に肩入れして国境を侵犯してきた北西のシャダ王国軍、西の隣国ドムスクス、東海の海賊メファート、追放貴族によるいくつもの叛乱未遂に内政干渉など、国を揺るがすような事件は、すべて彼と彼の騎士団によって一蹴されている。
その日、王宮を訪れていた白髪の英雄は、目を細めて近衛騎士団員たちの訓練を眺めていた。年老いてなお失われない威厳と、少年の瞳の輝きと生気。建国王とどこか同質で、どこか異質なその空気は大らかで、彼に今なおよい視線を向けない、一部の近衛騎士たちの卑小さを浮き彫りにしていた。
これがアル・ド・ザルアナックか、と知らず見惚れた。
彼は目が合ったロンデールに微笑むと丁寧に名乗り、「どれ、手合わせ願えないかな」と茶目っ気のある笑いを目に浮かべ、剣を抜いた。
周囲の近衛騎士たちの視線を感じたし、一瞬父の顔も思い浮かんだが……抗えなかった。こんなチャンスを逃せば一生後悔する、そう思ってしまった。
六十代半ばで既に引退していた英雄は、なお力強く、優雅に鋭く剣を操り、舞うように華麗に動いた。
自分が彼を嫌っているロンデール家の者だと知っているだろうに、それを気にした様子もなく、剣をつき合わせる合間に、楽しげに、優しくアドバイスをくれた。その物腰にも言葉にも、今まで誰かから感じたことのない温かみと陽気さがあって、気付いたら笑みを浮かべていた。
「うむ、いい出来だ。きっともっと伸びる」
「っ」
どれくらいそうしていただろう。最後に彼はにこりと影なく微笑み、温かい大きな手で小さな子供にするようにロンデールの頭を撫でて、去っていった。
そうしてロンデールは完全に彼に魅せられた――彼こそがロンデールの憧れ。彼こそが目標。
十三年後。その憧れの人――正確にはひどくよく似た人にロンデールは再会した。
「フィル・ディランです」
先の剣技大会でおぼろげに認識してはいたが、目の当たりにしてやはり美しい騎士だと思った。グリフィスを退治するためにタンタール国境へ向かうという騎士団の中で、ロンデール家のもう一つの仇敵と言えるフォルデリーク公爵家の次男、アレクサンダー・エル・フォルデリークと並び、その人は異質な空気を醸していた。
初日の宿で荷を下ろした後、宿の裏で稽古を行うその人と少しだけ手合わせをした時、ロンデールは憧れの騎士の幻影を見た。
優雅に、舞うように剣を動かし、その華奢な身体からは想像のつかない重い一撃を繰り出す。似た動き、似た瞳の色、似た視線の強さ――気になり始めたのはそれからだ。
冷たく見えるほど整った容貌は、口を開き笑えば、一瞬で雰囲気が変わる。騎士団員たちによく懐き、フェルドリック殿下にも気後れせず、喧嘩腰のジュリアン・セント・ミレイヌもいつの間にか懐柔してしまう。
馬に乗って移動している時ですらどこか陽気。一人歌を口ずさんでいる時もあるようだった。そんな空気のせいか、道中すれ違う人々も彼には一切の気後れなく、よく話しかけている。
フォルデリークと行動を共にし、目線で彼を追いかけ、話をしてよく笑う。フォルデリークの方も彼を気にかけていて、社交用では明らかにない、温かい微笑をフィル・ディランに返し、それを受けた彼が本当に嬉しそうに笑う。
その姿を気に入らないと思うようになるまで、さして時間はかからなかった。同じように自分と話をして笑って欲しい、気付いたらそんなふうに思っていた。
「若い時のアル・ド・ザルアナックの肖像を見たことがある」
あの晩、その人にそう言ってみたのはなぜだったのだろう。
その直前、「あなたの師は、あのアル・ド・ザルアナックではないか」と訊いた瞬間、フィル・ディランが浮かべた表情があまりに頼りなげで、迷い子のように見えたから、それに促されたのだろうか。あるいは心の底で、その人が『フィリシア』であってくれたらいいと願ったからだったのだろうか。
だから心に思い浮かんだ二つの事柄を無理に繋げて、鎌を掛けてみたのかもしれない。
フィリシア・フェーナ・ザルアナックの存在を知ったのは、その一年ほど前。そりの合わなくなった父に嫌気がさしてここ何年も戻っていなかった実家に、母に懇願されて久しぶりに戻った時のことだった。
そこで出てきたのは予想通り、いい加減に身を固めろという話だった。
昔婚約していた少女とは、彼女の実家が失脚したことで、五年ほど前に破談となっていた。
そうと決まった時、自分に泣きながら縋り付いて来た彼女の姿を思い出し、父母の勝手さを皮肉に笑った。同時に、彼女を抱きしめていたくせに、他人事にしか思っていなかった自分を思い出し、嫌悪した。
だが、誰でもかまわないと投げやりに聞いていた、父があげた名の中に、アル・ド・ザルアナックの孫――フィリシアの名があった。
その時、父が「アル・ド・ザルアナックの名を利用するのに、子を産むまで生きていればそれでいい」と評した、病弱で一度も社交の場に姿を顕していない娘――アル・ド・ザルアナックとの関係を匂わされたその彼女は、月明かりの下でなおわかるほどに蒼褪めた。
「……」
静かな夜、銀色の月の下で自分へと向けられた、その瞳の美しさにロンデールは決定的に魅せられた。
けれど、ロンデールが彼女へとさらに踏み込もうとした瞬間に、フォルデリークがやってきた。
彼女は動揺を露わに、彼の背後に逃げ込んでしまう。そして、彼は彼女の期待に当然のように応えた。
それが、それまで好感を持っていたアレクサンダー・エル・フォルデリークを、ロンデールが敵視し始める契機となった。
翌日、正体を言い当てられることを恐れてロンデールを避けていたその人は、誰もが死を予感して声をなくすグリフィスを前に、凛然と前に踏み出し、鮮やかに切りかかっていった。
彼女に続いたのは、彼女から全幅の信頼を寄せられ、彼女の微笑を一身に受けていたあの男。
信頼し合っているとしか言いようのない動きを見せる二人を魔物の前に残して、ロンデールらは王太子と共にその場を退いた。
彼女は無事に戻ってきた。戻ってくる可能性が高いと冷静にみていたはずだった。なのに、その姿を目にした瞬間、自分の中で生まれた安堵の大きさに、我が事ながら恐れを抱いた。
邪魔にしかならない、政治的になんの価値もない小さな少女たちが彼女に付きまとう姿、それを微笑ましいと思った自分の変化に驚いた。
生き残りのその少女たちについて話す彼女とフォルデリーク、それを聞く王太子殿下と騎士団のシェイアス小隊長の顔には、それぞれ彼女たちへの同情とその原因となった者たちへの憤りが、にじんでいた。
自分は?と思った。
自分は、彼らと同じ顔を作っているだけで、心の底から少女たちを哀れんでいるわけではない。ただ『哀れむべき存在。そして少女たちを哀れんでいると周囲にみせる必要がある』から、そうしているだけ。そう気付いて、彼女との距離に愕然とした。
衝撃はそれにとどまらなかった。「お姉ちゃん」と少女の一人に呼ばれた彼女が慌てて退出して行った時、驚くタンタールの警備隊長にフォルデリークは無言を通した。
それで確信した。彼女に気付いているのは私だけではない、と。
アレクサンダー・エル・フォルデリークは、自分より遥かに彼女に近しい――その事実に焦りが生まれた。
距離を縮めたい。そう願って、彼女と話そうと、その晩タンタールの砦で彼女を探した。だが、夜陰であの男が彼女を抱きしめている姿を見つけ、その彼を見上げる彼女の表情に、全身が凍りつく。
あの男の唇が彼女に落ちた瞬間、自分の中に走った激情に慄いた。
その後、彼女が男の名を呼びながら見つめたその目線に……不幸にも彼女が大人の女性に変わっていることに気付いて、血の気を失った。
彼女が熱の篭った視線で見つめる先にいるのは、ずっと彼女の隣にいたあの男。
彼女のその視線に当然のように応じる彼に、ロンデールは生まれて初めて身の焼けるような強い羨みを抱いた。
素性を隠して、騎士団にいる彼女。ばらしてしまえば、彼女はあの男の側にいられなくなる。そうすれば、素性を知られまいと自分を避けることもなくなるかもしれない――何度実行しようとしただろう?
それを押し留めることができたのは、あの温かい空気が悲しみで凍ることを何より恐れたから。
それでもあの男ではなく自分を見て知って欲しい、そう切実に望み続けた。
彼女に会える機会は多くは無い。
彼女の実家と親しい家が開く夜会に出席するようにし始めたが、有力な貴族の娘であるはずなのに、彼女は相変わらずどんな夜会にも顔を出さない。どうやら、父であるザルアナック伯爵とかなり疎遠であるらしいと知って、ロンデールは計画を変えた。
第二王女の護衛のために彼女が宮殿にやってくる日を一ヶ月以上前から頭に入れていて、彼女を一目見るだけでも、と可能な限り予定を調整した。
彼女は第二王女に柔らかく微笑みかけ、その身をひどく大切そうに抱き上げる。
自分が話したこともなければ、気にも留めたことのないような庭師の老人と楽しそうに話し込み、考えられないことに、時には何事かを怒られ、言い返し、さらに怒られている。すれ違う侍女たちに声をかけられては、笑って手を振る。宮廷の料理長に焼き菓子をもらい、王女やフォルデリーク、侍女まで誘って、庭の片隅でお茶をしている。
第一王女や近衛騎士、他の貴族からの謂れのない嫌がらせにも、あの澄んだ陽気な空気を失わない。
ロンデールが王女へと話しかけ、その王女が笑うと本当に嬉しそうに自分を見つめる。戸惑ってはいても、自分が笑いかければ微笑を返してくる。
知れば知るほど、ロンデールは彼女に、あの日アル・ド・ザルアナックと出会って初めて知った、陽気で優しい、温かい空気にはまっていった。
だが……その横には常にあの男がいた。そんな空気に常に浸かり、なおかつ彼女からあの微笑みを向けられているあの男を激しく憎む。
「アンドリュー、フェルドリック王太子から、ザルアナックの娘の話を聞いたことはないか? 后がねという噂は馬鹿にはできん。これ以上あの勢力を増長させる訳にはいかない」
(それはない。知り合いではあったようだが、あの二人の空気は気の置けない幼馴染という感じだった)
「今更ザルアナックとフォルデリークに縁組が必要とも思えんが、あそこの嫡男という線もあるな……」
(嫡男じゃない)
そう反射的に思ってから、ロンデールは顔を歪めた。
「ザルアナックめ、勿体つけおって……。こちらから頼んでやっているというのに、下賎の血の分際で」
ロンデール家からの婚姻の申し入れを、ザルアナック伯爵家は断り続けているという。
「少々脅してやるか」
どこまでも卑劣な男だと我が親ながら思うのに、結局止めることをしなかったのは……淡い夢を描いてしまったから。自分の横で彼女が微笑み、自分との子供を彼女があやす、そんな将来を――。
彼女を知らない自分。知れば知るほど惹かれていくのに、彼女は自分をほとんど知らない。そして……知ろうともしてくれない。
今年の剣技大会の閉幕後。
「殿下はあの二人のことをご存知でしたか」
彼女とあの男と別れた後、直前に彼女が自分に言わんとしていたことがわかってしまって、痛みを誤魔化すために呟いた一言。
「……十年以上」
一瞬歩みを止めた殿下が、不自然なまでに抑揚のない声でボソリと応じた。
彼には珍しいほどに短い、なんの装飾もない言葉。同時に、一瞬だけ彼が見せた素の顔――どうにもならない事態に直面した者への憐憫を含んだ視線に悟った。あの男と彼女は古くからの知り合い、そして……親の思惑での関係ではない、と。
ロンデールが知らない彼女を知り、彼女を射止める機会に恵まれたあの男。
あの男がいる限り、彼女は決してこちらを見ない――機会の不平等さに眠りを奪われるまでに歯噛みする。
彼女が視線を受けて頬を染めるのも、触れることを許すのも、身を委ねて共に踊るのもあの男。彼女が困難を共にしようとするのも、喜びを共にわかち合おうとするのも、すべて……。
その男は彼女を守ると公言し、その発言を耳にした彼女が自分の目の前で嬉しそうに笑う、その残酷さに全身が悲鳴を上げる。
その男は彼女は自分のものだと、言葉と行動の両方で主張し、彼女がそれを自分の目の前で受け入れる、その無慈悲さに身が切り裂かれる。
心に降り積もっていく狂気にもう堪えられない。
貴女がその男に向ける笑みを見ていたくはない。
貴女がその男と踊る様を見ていたくはない。
貴女に付けられたその男の所有の証を見たくはない。
私は、その男の位置に立ちたいのだ。
願わくは、私が貴女の微笑みを。
願わくは、私を貴女の一番近くに。
願わくは、私に貴女に触れる権利を。
フィリシア・フェーナ・ザルアナック、私は貴女が欲しい。
私はもう貴女の涙を厭うことすらもうできない。貴女が私をここまで堕としたのだ。
フォルデリークの蔑みをもっともだと思っても、どうにもできない。罵ってくれていい、憎んでくれていい。
それでも私は貴女に側にいて欲しい。