17-10.畢竟
ぼろぼろと泣き続けるフィルを、スペリオスとアレクサンドラと共に人目を避けるように帰した後――。
会場に戻ったアレックスは、招待客に囲まれるアンドリュー・バロック・ロンデールへと視線を走らせた。先ほどフィルにしたことを忘れたかのように微笑み、招待客に優雅に応じている彼に、強烈な唾棄を覚える。
予想外の事態に、アレックスは苛立っていた。
ラーナックのセリフではないが、ロンデールがこんな形で自分からフィルに話を突きつけるとは思っていなかった。彼のことだから、自分がフィルに敬遠されないよう、もっとうまく立ち回るだろうと見ていたのに。
彼に怒りつつ、自分自身にも歯噛みする。
ロンデールの行動も意外なら、フィルの兄がああも明確にフィルを優先するつもりだったこともそうだ。
結果、見通しをすべて立ててから、フィルに事情を説明しようなどと悠長にしていたせいで、彼女をみすみす泣かせてしまった。
先ほどテラスでラーナックが見せた思い切りに、事情を知るアレックスですら一瞬絶句した。自分の兄も衝撃を受けたようだった。
まったく事情を知らないところに、いきなり兄の命の代わりに我が身を要求され、しかもその兄がその要求を断るために死ぬつもりだと知らされたフィルは、一体どれだけの衝撃を受けたのだろう?
(あのフィルがあんなふうに泣くなんて……)
アレックスは眦を吊り上げ、他者を意に介することなく、まっすぐロンデールへの距離を詰める。
露骨な殺気を感じとったのか、周囲の人々が青褪めた顔で潮が引くように引いていった。
「どういうつもりだ」
「……欲しいものを手に入れるために、必要な手段を講じた、それだけのことだ。別に珍しくもなんともない話だろう、アレクサンダー・エル・フォルデリーク」
ロンデールの顔から、社交用の仮面が剥がれ落ちる。彼は彼で、憎悪を隠さない視線をアレックスに返してきた。
「ロンデール」
「フィリシア・フェーナ・ザルアナックは私のものだ。彼女にもそう告げた」
既に決定したことであるかのように、殊更に淡々と言葉をつむぐ。その顔が癇に障った。
「彼女の大事な兄の命を盾に、脅して彼女を手に入れる、と? そう彼女に告げたのか」
「……だとしたらなんだ? フォルデリークの出であっても、ロッドの名を持たぬ君が口出しできることではないだろう。それとも父上、兄上に縋ってねだるのか?」
歪な嘲笑を見せたロンデールに、アレックスは低く哂い返した。
「なるほど、欲しいのは彼女ではなく、アル・ド・ザルアナックの孫娘か、アンドリュー・バロック・ロンデール? ならばこのやりようも納得がいく。さすがロンデール家の嫡男、下衆な手段だ」
「っ」
侮蔑を吐き捨てれば、目の前の顔の目尻がつり上がった。天井からの眩いまでの光を受けて白む彼の顔の中で、そこに納まる瞳だけが異様な光を放つ。
「……おまえに、何がわかる」
無言の睨み合いの後、ロンデールが押し殺したような声で「当然のように彼女の横にいるおまえに、何がわかる?」と繰り返した。
「ただ出会うのが遅かった、それだけのことで側に行く機会すら奪われた私の気持ちがわかるのか……っ」
抑えていた声は、終盤に向かうにつれて憤りを帯びて荒々しくなった。灰色がかった緑の瞳にはそれに応じる激昂がある。
「それで?」
彼から向けられる、理不尽極まりない怒りに、憎しみが沸き起こった。アレックスは殺意を込めてその目を真っ向から見返した。
「そのために彼女を泣かしたのか。泣かすのか」
泣くのを嫌うフィルがあんなふうに泣いた。彼女の泣き顔と嗚咽を思い出すと、目の前の男をずたずたに切り刻んでやりたいと思う。
「……それでも」
ロンデールの顔が一瞬歪んだ。が、すぐに壊れたような笑いに代わる。
「それでも、私は彼女を望み、手に入れる。彼女の性格からして、勝算は十分すぎるほどある――それこそ君はよくわかっているだろう」
奇妙な愉悦と優越に満ちた宣言だった。
「出会いの早さの問題じゃない」
アレックスは目を眇め、断言する。
「そんなおまえに彼女の側にいる資格などない――それこそお前にもわかるだろう」
ロンデールの顔から笑いが消えた。
上等だ、と喉の奥で呟き、アレックスは完全な無表情となったロンデールを真っ向から見つめた。
「私も退かない。だが、私は彼女を泣かせることもしない」
そう言い捨て、アレックスは遠巻きに人垣を作る周囲を目線で威圧して退けると、踵を返した。
* * *
一足遅れて着いた実家のフォルデリーク邸では、応接室でスペリオスとアレクサンドラが待っていた。
「こんなことになるんだったら、会合の日をずらしてもらって、父さんたちにいてもらったほうが良かったな……僕たちじゃ慰めようを思いつかなくて」
スペリオスが「ラーナックもラーナックだ……」と溜め息をつく傍らで、アレクサンドラは眉をしかめている。
「馬車の中でも子供みたいにぼろぼろ泣いていたわ……およそ泣くような子じゃないと思うのに。慰めようとすると、こっちに気を使って一生懸命泣きやもうとするのよ。もう見ていられなかったわ……」
そして、「あの男、最低ね。呪ってやろうかしら」と呟き、爪を噛んだ。
「まあ、ラーナックの言うとおり、ああやって感情を出している方が、パーティで引きつった顔で笑っているより、よっぽど似合ってはいたけど……」
泣き疲れたみたいだったから、二階の客室に案内した、とスペリオスに苦笑しながら告げられて、アレックスは即座にその部屋へと向かった。
扉を開いた先、室内の照明は抑えてあった。
執事のホーランあたりが気を使ってくれたのかもしれない、かすかな茶の香りがする。
「フィル?」
フィルは一つだけ灯された明かりからも背をそむけ、ベッドの上に小さくうずくまっている。
「……」
呼びかけに彼女は顔を上げ、潤んだままの緑の瞳をこちらに向けた。
(まだ泣いていたのか……)
泣き腫らしたとわかる赤い目元が痛ましい。
アレックスは眉を寄せると、ベッドに膝を落とした。同時に彼女の身が自分の方へと小さく傾く。それを丁寧に支えて、白い頬に残った滴の跡を指で拭った。
「……なさけなく、て……」
しばらくされるままになっていたフィルが口を開いた。言葉はまだ震えている。
「い、色々考えてもらっていたのに……今回だって、わ、たしをさっさとロンデール家にやっちゃうことだってできるはずなのに……。ぜんぜ、気がつかなくて……拗ねて、い、いらないって言われたって、そ、れだけでいっぱい、になって」
そう言いながら、フィルはまたほろほろと新たな涙を流す。その涙の一つ一つに瞳の緑が一瞬移っては消える――アレックスはその光景に見惚れた。
「ちゃ、んと考えてみるべき、だった。なのに、わ、私……じ、自分は可哀想って気持ちだけで手一杯、で……」
「フィル、それは仕方がないだろう……」
「アレックス、が前、言ったみたいに、……そ、その人に会っていないときに、良、くない情報で、その人を判断しちゃ、だめ……だった、です」
フィルはクシャリと顔を歪ませ、何度も首を振った。
「父さ、まが私を、さ、蔑んで、突き放すようになった、の、カザレナに戻っ、結婚しろ、って話を、私が拒んでから、だった、です」
しゃっくりに、言葉を途切れさせながら、彼女は懺悔のように言葉を吐き出した。
それまでは、最初に目が合った時、ぎこちないながらも笑ってくれていた。
緊張しながらでも話しかければ、同じぐらい緊張した顔で、でもちゃんと応じてくれていた。
フィルと祖父母、兄が一緒に笑っているときは、いつも一人ぼっちで、どうしたらいいかわからないという顔で外から見ていた。
一度だけ肩車してもらった時も、最初はすっごくぎこちなくて、でもなんだか一生懸命に見えて、だから結局自分は差し出された腕を取った――。
「……」
そのすべてをアレックスはひたすら黙って聞いていた。
なぜだろう、フィルが語る、ザルアナック伯爵のそんな様子が、アレックスには手にとるようにわかった。
剣技大会でフィルの様子を話題に乗せたときの、とってつけたような不自然さも、自分がザルアナック邸にフィルを迎えに行ったときに見せた、一見した矛盾に満ちた行動も、きっと根は同じだったのだろう。あの人は……ひどく寂しい人なのかもしれない。
「なのに、そんなこと、ぜ、ぶ忘れて、見ないふり、て、わ、私を嫌うひどい人、怖い人、て決め付けて……」
――私が彼に嫌われてると思って寂しかったように、彼だってそうだったかもしれないのに。
語尾はまた嗚咽に紛れていく。
「フィル……」
他になす術を思いつかず、アレックスは嗚咽に震えているフィルを引き寄せた。できるだけ優しく抱きしめ、その背をゆっくりと、ひたすら撫で続けた。
どれくらいそうしていたのだろう。部屋に響いていた嗚咽が止まった。
「アレックス……お願いがあります。すごく、すごく勝手なこと、なんです……」
腕の中から聞こえてきた声は、もう震えを止めていた――彼女らしい、意志の強さをうかがわせる声に、アレックスは予感を持つ。
「叶えるよ」
泣き腫らした赤い目でフィルがこちらを見上げ、「まだ何も言っていません」と不思議そうに首を傾げた。それにアレックスは苦笑を返す。
「フィルが幸せになるために必要なことなんだろう」
どうあっても彼女に側にいてほしい。だが……それで彼女が幸せでないなら?
身を切られるような仮定だし、本音を言えば、縛りつけてでも彼女を自分に繋ぎとめておきたい。
だが、何度考えてもいつも同じ答えに行き着く――彼女をそうして得ても、彼女が幸せでないならきっと意味がない。逆に彼女が笑えるのであれば、なんだってする。
「どんな望みでも」
額に額を押し付けて再度囁けば、フィルは再び泣き出しそうに顔を歪めた。
「……ごめ、ごめんな、さ……」
小さくそう呟いた彼女は、一滴だけ雫を零した。後に続こうとした嗚咽をのみ込むためだろう、同時に言葉をとめる。謝罪を涙に紛れ込ませまいとするのが、フィルらしくて愛しくて……ひどく寂しい。
「フィル……」
だからだろう。彼女を苦しめるだけになるのではないかと、告げるのを迷っていた言葉をつい漏らしてしまった。
「愛している」
この先、何があっても、何がどうなっても、それだけは覚えておいてほしい――。
「アレック、ス……」
眼下の緑の瞳から新たに雫があふれ出た。それを拭おうともしないまま、フィルが白い両手を頬へと伸ばしてくる。
そして、アレックスの頬に触れた後、たどたどしく動き、顎を包み込んだ。
「……」
彼女の手から伝わる震えに、アレックスは少しだけ微笑むことができた。目の前の瞳が泣き笑いを浮かべる。
緩やかに引き寄せられ、焦がれ続けてきた吐息が唇に触れた。
そうしてフィルから受けた二回目の口付けは、アレックスに言いしれない痺れを運んできた。