17-9.落鱗
「フィル」
冷たい夜風が紛い物の髪を揺らしていく。視線を落としたまま、その場に立ち尽くしていたフィルは、アレックスに呼ばれてのろのろと顔を上げた。
「……」
視線が交わった瞬間、彼の青い目が痛ましいものを見るように歪んだ。その向こうに、兄ラーナックが姿をみせる。
「……」
フィルはじっと彼を見つめた。傍らにはスペリオスとアレクサンドラもいる。
「兄さま……薬って、なに」
アレックス越しに兄に向けた自分の声は、他人のもののように響いた。
兄の左側から広間の明かりが差し込み、彼の美しい顔の左右を明暗でくっきり分けている。
「なんで教えてくれなかったの」
ロンデールが去って、様々なことが頭に浮かんでは消えて行き――最後に残ったのはそれだった。
なぜそんな大事なことを、兄は隠していたのだろう? なぜ教えてくれなかったのだろう……?
些細な変化も見逃してはならない気がして、フィルは兄をひたむきに見つめた。
「まさか息子の方が言うとは思わなかったな」
けれど、兄はフィルの問いに答えてくれない。こちらを見つめて、ただただ困ったように笑っている。
諦めを含んだその顔に悟った。
(……死ぬつもり、だったからだ――)
「っ」
その瞬間、頭に血が上った。憤りとも慟哭ともつかない激情が、全身を駆けめぐる。
「どうしてっ」
フィルは兄を睨みつけ、声を荒らげた。
「なんでそんなことをっ、一体何を考えてるんだっ」
彼がいつも顔に浮かべている微笑が、生まれて初めて癇に障った。感情が高ぶって、視界がにじんでくる。
「笑っている場合じゃないっ、何か手を――」
「だめだ。家のことには関わらないと父さまと約束しただろう」
応じた兄の声は、激昂するフィルとは対照的な、冷たく切り捨てるような響きをしていた。兄のものとは思えず、フィルは衝撃に目を見開く。
「い、家のことじゃない、兄さまのことだっ」
「同じことだ。君は既にザルアナック家の者じゃない。父――ザルアナック伯爵にもそう言い渡されているだろう。僕も同じ考えだ」
なんとか言い募るも、兄は取り付く島を見せない。
「君にできることなど、そもそも何もない」
「そんなことないっ」
「じゃあ、言い方を変えよう。今更君に何かしてほしいとは欠片も思わない。期待もしていない」
フィルを見る兄の顔は、どこまでも冷たかった。美しさとあいまって、怖く感じられるほどに。目の前の人が、あの優しい兄だとは到底信じられない。
「大体……」
絶句して立ち尽くしたフィルに、兄は唇の片方だけを吊りあげ、「君は僕の妹じゃない」と冷たく笑った。
「血が繋がっていると言ったって、一緒に暮らした時間なんてほとんどないじゃないか。父も娘など存在しないと言っている」
「……」
ずっと慕ってきた兄、ただ一人家族だと思っていた人からの徹底した拒絶に、両眼から涙が溢れ出した。
(……ああ、ようやくわかった……)
彼を見つめたまま、フィルは唇を噛みしめる。
彼が薬のことを言わなかった理由、彼が今になって、フィルを家族ではないと言い出した理由は……、
「に、いさま……っ!」
(全部私のため、だ。私がしたいようにできるため――)
「っ」
続いて脳裏に浮かんできた厳しい父の顔に、フィルは小さく嗚咽を漏らした。
夏の青い空の下で、自分に向けて両腕を差し出してきた父の、少し緊張した顔にそれが取って代わる。彼の肩の上で歓声を上げた自分に笑った彼が伝えてきた体の振動、その記憶が今全身を揺さぶる。
「っ、とう、さま……」
本当に、本当に何も考えていなかった。なぜ父が家から出て行けと言ったのか、なぜザルアナックとの関わりを人に知られるな、とあれほど強く言ったのか――貴族がするように、生き方を割り切れないフィルに、彼が残してくれた道だったのだろう。
(なのに、ただ私は不必要なのだと、ザルアナックに相応しくないのだと、嫌われているのだと……)
自分を可哀想がって、その気持ちに手いっぱいで、自分がこれ以上傷つかないために必死で、それ以外考えていなかった。彼を嫌な人、怖い人だと決めつけて、見ようとさえしていなかった――。
体が嗚咽で支配されていき、兄へ向けている目から力が失われていく。
ボロボロと流れ続ける雫が、顎の先から滴り落ちる。跡に風があたって、肌が冷えていく。
フィルは顔をくしゃくしゃに歪めた。
視界が涙の膜で覆われて、兄の顔がよく見えない。けれど、知っている。彼はきっと今フィルと同じような顔をしている。
兄が大きく息を吐き出した。その音が震えているのがわかって、胸が抉られる。
「君の家族は……祖父母であって、僕らではない。君は君で勝手に生きるといい」
口を開くと慟哭になりそうで、フィルはただ首を振った。応じて滴がはらはらと左右に零れる。
無言のまま、兄の気配がフィルから遠ざかっていく。
「……っ」
フィルはフィルで一言も発することができず、涙でぼやけた彼の後ろ姿をただ見送った。