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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第17章 幸せと諦観
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17-8.脅迫

 フィルがアレックスと共に会場に戻ると、音楽が変わり、ダンスが始まっていた。

 煌びやかな灯下で曲に合わせて、女性たちの美しいドレスが揺れ、装飾品がキラキラと光を放つ。浮世離れした光景だった。


「『さて、フィル。兄さまと踊るかい?』」

「お帰り」という明るい声の後兄がかけてきた言葉に、フィルは思わず吹き出した。

 夏のザルアの別邸で、フィルが兄と交わしていた会話そのままだ。オットーが伝統のある弦楽器を、ターニャがピアノを弾き、それに合わせてフィルは兄と、祖父は祖母と踊った。夏でも夜になれば冷え込むあの屋敷では、暖炉で薪が焚かれ、空気は温かみと笑いに満ちていた。

「『でも兄さま、体は大丈夫?』」

「『つらくなったらその場に座り込むから、フィルが寝室に運んでくれるかい?』」

「『じゃあ、枕を持って行くから、私もそこで一緒に寝ていい?』」

「『いいね、婆さまたちに内緒で夜更かししようか』」

「『じゃあ、お茶とお菓子もこっそり持っていく。そういうの得意だから、まかせておいて』」

 兄もふふっと笑いを零した。顔を見合わせて笑っていると、何年も昔のザルアに戻っていくような気がした。

「おー、仲いいなあ。妹もいいなあ」

 横ではそう言ったスペリオスさんがアレクサンドラに肘で突かれ、アレックスが隣で珍しい表情をしている。


 そうして兄の白い手に導かれるまま、フィルは踊りの輪の隅に加わった。

 兄との踊りは、いつものように楽しかった。兄妹だからなのか、同じ人に習ったからなのか、フィルと彼の息はぴったりだ。相手を一切意識しないで踊っていても、まったく齟齬が出ない。兄も楽しんでくれているらしく、顔が綻んでいる。それが嬉しくて、フィルも上機嫌になっていたのだが、音楽にあわせて身体の向きを変えた瞬間、そんな高揚は消えてしまった。

(……ロンデール公爵)

 彼は今また、値踏みするように自分たちを見ている――あの視線は、同等とみなす人間に向けられるものではない。

 あの嫌な感じの男が、兄の問題の根源にいるのだろう。そう悟って、フィルは男の視線を正面から見返した。

 今フィルと手を繋いでいるこの人は、この世に残された、フィルが家族だと胸を張って言える、そして、それを許してくれるただ一人だ。

(絶対に守ってみせる)


「フィリシア嬢、お相手願えますか?」

 兄ラーナックとの踊りを終えるなり、待ち構えていたかのようにロンデール副近衛団長が近づいてきた。自分たちに近寄ろうとしていた人々が、潮が引くように退く。

 すっと延びた背筋、凛とした振る舞い、余裕を感じさせる微笑、ためらいなく差し出された手――堂々としていて、存在感がある。

 実際そうなのだけれど、彼がひどく大人に思えて、フィルはかすかな気後れを覚えた。

 だが同時に、チャンスだ、とも思った。彼と話ができる。そうすれば、兄のおかれた状況がわかるかもしれない。


「フィル」

 彼には珍しい、咎めるような声に、フィルは目線を兄に移した。いつも穏やかに微笑んでいる人なのに、見たことがないほど硬い顔をしている。手も握ったまま離そうとしない。

 フィルは彼を安心させようと微笑むと、繋がった手にもう片方の手を添えた。それから、再びロンデール副団長に顔を向ける。

「はい」

「お手を」

 頷いた瞬間、ロンデール副団長の緑灰の瞳に不思議な色が走った気がした。手袋越しにフィルに触れた彼の手は、まるで逃がすまいとするかのように力強い。

 周囲に広がっていく妙な囁き声も手伝って不快感と違和感を覚え、反射のようにアレックスを探す。

(……いた)

 人垣の向こうに彼を見つけた瞬間、視線が交差した。焦がれ続けてきた深い青の瞳を見て気を落ち着け、静かに息を吐く。

「……こちらへどうぞ」

 そんなフィルを一瞥し、ロンデールは立ち並ぶ人々の間に割り入ると、フィルを広間の中央へと誘っていく。


 流れ始めた定番の音楽は陽気な調べで、応ずる踊りも活発、身体の密着が少ないタイプの曲だった。以前王宮でアレックスと踊ったような、大人っぽい曲でなくて良かった、とフィルは密かに胸を撫で下ろす。

 率直に言えば、彼に近づきたくない。

 悪い人じゃないとは思ってはいる。でもフィルには、彼がよくわからない。彼の考えはいつもフィルの想像の範囲にないし、結果の動きもフィルには複雑すぎて、理解が追いつかない。なんとか理解しようとしても、その間にどんどん別の情報をこちらに投げてくる。彼自身も行動を起こす。単純に自分の頭が悪いだけなのかもしれないけれど、なんというか、のまれそう、という感じになるのだ。


 先ほどとは打って変わって静かになった周囲。あからさまな注目に、顔をしかめそうになるのを堪えつつ、フィルは彼のリードを受けて動き始めた。

「ありがとうございます。今日ここにあなたがおいでくださったことに勝る喜びはありません」

「え。ええと、」

「あなたを目にした瞬間、自分でも信じられないほどの喜びに包まれました」

「……」

(こ、ここに来たのは、お祝いの気持ちとかじゃなくて、兄さまのため……)

 真っ直ぐに礼を言われて、居心地が悪くなった。非常に気まずい。彼と繋いだ手袋の内に、汗が滲んでくる。

「それにしても実にお美しい。見違えました。もちろんいつもの騎士姿も凛々しくて素敵ですが、今宵は一段と」

 柔和な表情で、返答に困る言葉を次々に浴びせられる。まずい、このままいけば、また彼のペースになってしまう、と気付いて、フィルは焦って口を開く。会話の文脈なんてこの際気にしていられない、なんでもいいから自分から話そう、と。

「あの、ロンデール副団長、」

「――アンドリュー」

 触れるだけの形で腰に置かれていた手にぐっと力が篭った。抱き寄せられそうになっていると察して、フィルは慌てて遠のく。

「そう呼んでくれない限り」

 ――逃げられると思わないでください。

「っ」

 目の前でそう囁かれ、フィルは思わず息を止めた。低い声音と、暗さを交えた瞳の色――本当にこれはあのロンデール副団長なのだろうか?

「……」

 咄嗟に言葉を見つけられず、彼を凝視すれば、曲に合わせた自然な仕草で彼の身が近寄ってきた。とたんに色濃くなった、馴染みのない香りに我に返る。

「ア、アンドリュー……?」

 警戒に顔を引きつらせつつ彼の要求を受け入れれば、一瞬目を見開いた彼は、次の瞬間に優しく、けれどどこか切なそうに笑った。

 それでまた混乱した。今度はちゃんとロンデール副団長に見えた。フィルに対しても騎士団の騎士たちに対しても礼儀正しい、ナシアが皆が自分を嘲笑っていた時も彼だけは違っていたと言っていたあの人だ。


「……」

 兄の件でも彼自身についてでも何か理解の手がかりがないかと、フィルは彼をそのまま見つめた。だが、灰色がかった綺麗な緑の瞳は、彼が顔を背けたことで、フィルの視界から消えてしまう。

(そういえば、彼はいつもこうして目を逸らす気がする)

 そんなことを思うともなしに思った。


 目が合わないまま、曲が中盤に近づいていく。

「ロン……ア、ンドリュー、お伺いしたいことがあります」

 フィルは仕方なしに、直球を彼に投げることにした。唇は乾いていて、我ながら声も硬い。

「私が今夜ここに来ることが、兄とどんな関わりがあるのでしょうか?」

 彼は一瞬顔を大きく歪めた。フィルの顔にもそれが移る。

(ああ、この人はやはりそれを知っている……)

「それ、は……」

 知らず咎めるような目になったのかもしれない。彼の声が強い苦味を含んだ。


 音楽の調子とは裏腹に、重たい空気が流れた。眉根を寄せて唇を引き結んだロンデールが、かすかに俯く。

「っ」

 その瞬間、彼の身体が震えた。

「アンドリュー?」

「……私が」

「?」

「私がいつまでも紳士的だ、とでも……?」

「え?」

 フィルに向き直った目は、弧を描いている。だが、そこにあったのは温かみではなかった。嗜虐に富んだ、ひどく暗い色に、全身が凍りつく。

「何度くらい彼、フォルデリークに……抱かれましたか」

「っ!」

 言葉を理解すると同時に、顔がかっと赤くなった。


 曲が終わった。頭の中で鳴り響く警鐘に従って、フィルは彼から離れようとする。が、その手が彼に捕らえられ、引っ張られた。

「……っ」

 いつの間にこんな場所まで来ていたのか、広間の端、大部分の会場から死角となる柱の影に引きずり込まれ、さらにその向こうのテラスへと押しやられた。

(――アレックス)

 常に視界に入れていた彼の姿が消える。


 背後でガラス戸が閉じる。

「!?」

 人気のないその場所で、フィルは力ずくで抱きすくめられた。首にロンデールの息がかかって、肌を粟立てる。

 なんとか彼を引き離そうとしたのに、恐ろしく強い力で押さえつけられた。圧倒的な力の差に、体に恐れが走る。

「……ア、レック」

「やはり彼ですか」

 無意識に彼を呼んだフィルに、ロンデールはさらに暗い笑いを見せた。

「っ」

 ロンデールの上身が、両腕を突っ張るフィルの努力を嘲笑い、覆いかぶさってくる。彼の指が首筋に落ちる感触に鳥肌が立った。

「この首に私が所有の証を刻んだら、その彼はどう思うでしょう」

 首筋をつっと撫でた彼の指は、そのまま下へと降りていく。

「それとも――この胸元の証を、私のものに付け替えましょうか……?」

 くつりと笑ったロンデールの指が、ドレスの襟にかかった。

「……っ」

 目の前が赤くなった。激昂のまま、膝を崩し、身体を沈める。わずかにできた空間を利用して、腰を捻ると拳をロンデールの鳩尾へと付き上げた。だが、それが彼に届く前に、彼はフィルから離れた。


 屈辱と激怒で頭に血が上り、涙が滲んでくる。眦を吊り上げ、フィルは間合いを取ったロンデールを睨みつけた。

「ふざけるな、一体何のまねだ」

 殺気を向けるフィルに、彼は表情を一切消し、平坦な声音で「ふざけてなどいない」と言い放った。

「私はあなたを手に入れると決めました。そのためなら、」


 ――手段はもう選ばない。


 寒風に彼の細い、茶の髪がふわりと舞い上がる。ガラス戸越しに注ぐ広間からの光が、余すところなく彼の表情を伝えてくる。

 落ち着いているように見える顔の中で、自分に向けられている瞳だけが異色だった。憎しみにしか見えないような強さと暗さのせいで、額に汗が滲んでくる。

「……」

 だが、なんとか彼の瞳を見据え続けた。目線を逸らすのは、負けを認めるみたいで癪だった。


 長い睨み合いの後、先に視線をそらしたのは、やはり彼だった。そして彼は目を合わせないまま、奇妙なほど静かに声を発する。

「一週間後の王城での収穫祭。そこで私をパートナーとして選んでください」

「収穫祭? パートナー? ……何の話だ」

 怒気を露わに応じたフィルに、ロンデールは奇妙な笑いを見せた。

「それができないのであれば、あなたのお兄さまの薬は手に入らないものと思ってくださって結構です」

「く、すり……」

(兄さまの? 薬……? 手に、入らない……?)

 怒り混じりの高揚が一瞬で掻き消えた。


「……なに、それ……」

『西の大陸から伝わってきた薬のお陰でね、今はすっかり良くなったんだ』

 あれは……そうだ、去年の花祭りだ。あれが手に入るようになって、健康体と変わらなくなったと、そう言って兄は春の日差しの中で笑っていた。

『ラーナックさまの御身を思えば、お嬢さまをアンドリューさまの誕生祝いに出席させるぐらい訳はないはずだ、と仰っているのを』

「じゃあ、兄さまを思えばって、命……?」

(そういう、こと……?)

 音を立てて血の気が引いていくのがわかった。指先が小さく震え出す。


「それがなければ、彼が、私の兄が死ぬと知ってて……?」

 フィルは闇の中に佇むロンデールを凝視する。彼は何も言わない。けれど、それこそが返答だとわかった。

 無言を貫く目の前の人が、人間に見えなくなった。彼の背後に広がる夜の暗がりが、深淵な闇そのものに見える。

「そう言って、今回も、私を出せと、兄たちを、そう脅した……」

「貴女は私のものになるのです」

 呆然するフィルに、彼は有無を言わせない口調で宣告する。

「フォルデリークにも、誰にも渡さない。あなたが泣こうがわめこうが、知ったことではない――貴女は私のものです、フィル」

 再び交わった瞳は、恐ろしいほどに底が見えない。


「……」

 ただただ彼を見つめ続けるフィルに、彼は一瞬だけ顔を歪めた気がした。だが、それもすぐに夜に紛れる。

 そうして、ロンデールはフィルを一人残し、静かにその場を離れていった。


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