17-6.意図
「フィル、大丈夫?」
兄の気遣いに、フィルは頬を痙攣させつつ、コクコクと頷いた。さっきまでの驚きの余韻で、言葉がまだうまく出てこない。
「慣れていないときついだろうね」
「慣れていても気分のいいものじゃないがな」
アレックスのお兄さんとアレックスが心配そうに眉根を寄せ、しつこく外から注がれる視線を体で遮ってくれた。
「もう、変なところで情けないわね」
顔をしかめつつ、近寄ってこようとした男の人を目線だけで凍りつかせてくれたのはアレクサンドラだ。
フィルは今、祝賀会会場の隅っこで、兄のラーナックとフォルデリーク公爵家兄弟、その従妹に囲まれて、なんとか息を吹き返している。
ロンデール公爵親子への挨拶を終えた後、フィルと兄は四方を人に取り囲まれ、つい先ほどまで質問攻めにあっていた。すごかった。くらくらした。
なんでもフィルたちの母が相当な美人だったそうで、『フィリシア・フェーナ・ザルアナック』の噂(それ自体がかなり驚きだ……)には随分な尾ひれが付いていたらしい。
その最たるものが『秘めたる華』だ。病弱というのも大概だと思ったけれど、『華』――誰が何をどう見てどう勘違いしたらそんなことになるんだ、と思ってから、その自虐さに呻いた。
そんなこんなの衝撃に見舞われて思考が停止したフィルを、だが、誰一人待ってはくれない。
浴びせられた言葉は色々だ。初めましてに始まり、噂どおりだ、いや違うとか、誰に似ているとか彼に似ているとか、身体の具合はどうかとか、これまで社交の場に出てこなかったのはなぜ、なのに今日出てきた理由はとか、アンドリュー殿とは親しいのかとか、父上は今日どうされたとか、王太子殿下とはとか、とにかくいっぱい。
しかもそれぞれの質問が、ゴテゴテの装飾に覆われていてわかりにくい上に、とても回りくどい。
びっくりしたのと混乱したのとで固まって、それから順に答えを探さねば、しかもうまく誤魔化さなくては、と冷や汗を流した矢先に、アレックスたちがやってきて、フィルと兄を人だかりから救い出してくれた。
ちなみに、フィルたちの周囲の人々を追い払うのに必要だったのは、「少し静かにお話したいの――遠慮してくださる?」というアレクサンドラ・カダル・ニステイスの微笑のみ。
丁寧な言葉と美しい顔から醸し出される圧倒的な威圧感に、場が凍りついた。まったく逆らえる気がしないことといい、さすがはアレックスの従妹、と思った。きっとスペリオスさんが微笑んでもああなるのだろう。あれを自分に向けられるのは勘弁して欲しいけれど、こういう時はひどく頼もしい。
「あの、なんというか、びっくりしてしまってまったく動けなくて……助けてくださってありがとうございました」
ようやく言葉を取り戻したフィルは、情けなさに眉尻を落としつつ、三人にお礼を述べた。
「気にしなくていい。驚いただろう」
苦笑と共にアレックスの大きな手が頭に落ちた。その感触に顔が綻ぶ。周囲がまたざわついたけれど、今はそんなに気にならない。
「甘やかしすぎよ、アレックス。本当に危なっかしいわ。いい? ああいう時は笑ったまま、空気で『あなたごときが私に近寄れるとでも? 身の程を弁えなさい』と教えてやりなさい。有象無象にいちいち付き合わなくていいわ」
顔をしかめつつフィルに助言?してくれているアレクサンドラは、あれ以来か弱い子ぶるのも済ました顔をするのもやめたらしい。近寄りがたいほどに神々しい美しさはなくなってしまった。でも、怒ったり口を尖らせたりしている今の方が、ずっと綺麗だと思う。
「フィルには多分無理。というより大半の人には無理だろう」
スペリオスさんがそんな彼女を苦笑して見ている。見た目だけじゃなくて、表情もアレックスに似ていて、しかもなんだか幸せそうで、フィルはまた少し笑うことができた。
誰かが誰かを大事に思っていると伝わってくる、こういう空気はなんだかほっとする。
「うん、本当にありがとう、助かったよ」
「この程度のこと、大したことじゃないさ」
兄ラーナックに、スペリオスさんが笑って応じる。
(? あれ、結構親しい?)
リラックスした感じの二人のやり取りに、フィルは目を瞬かせた。それから、両親が仲良しだったなら、それが普通かもしれない、と一人納得した。
(……ん? ひょっとして私も普通に王都で暮らしていたら、アレックスと当たり前のように仲良しだったのかな)
「サンドラ、そう威嚇するな」
「だってフィル、妙なところでぼうっとしてるんだもの。これぐらいして牽制しておかなきゃ」
呆れたようにアレクサンドラと話しているアレックスの横顔をこっそり見、フィルは首を傾げた。
その拍子にターニャが整えてくれた髪がさらりと肩から落ちた。フィルはその長い髪をつまみ、しげしげと眺める。
『後で解くだけなのに、なんでそこまで……』と言ってターニャに叱られた髪は、サンドラや会場の他の女性たちと同じように複雑に結われ、金属や石、花で飾り立てられている。
フィルが今身にまとっているのも、彼女たちが着ているようなちゃんとしたドレスだ。
言われるまま身につけた宝飾品や香水のせいで、体のあちこちから金属や香水の匂いが漂っているあたりも一緒。
対するアレックスも、髪を整えて正装を身にまとっていて、ちゃんと貴族の男の人に見える。
(じゃあ、もし私が王都にずっといて、アレックスの家と行き来があったら……)
八年も会えないなんてことは、もちろんなかっただろう。それで、定期的に会って、偶にこんなふうにお互い着飾って夜会で出会って、偶に一緒に馬車で出かけて……それでも好きになっていただろうか、それでも好きになってくれただろうか――。
もしかしたら、と想像した日々は、毎日剣をつき合わせて、血まみれになりながら盗賊やら刺客を追いかけて魔物を倒して、人を殴り飛ばしたり砦を壊したりおかしな魔物を拾ったりした不始末の数々を庇ってもらって、という今とあまりに違いすぎて、フィルはくすりと笑い声を漏らした。
「……う」
そんなことを考えてアレックスを見上げれば、視線が彼とまともにぶつかった。顔の表面に血が集まってくる。
(本当に別人みたい……い、居心地悪……)
思っていることが、いつものようにばれてしまったのだろう。彼が目の端を緩ませて笑った。さらに恥ずかしくなる。
「ラーナックさん、フィルが人酔いしたようなので、少し風にあたってきます。ご一緒しましょう」
「!」
彼がそう言ってフィルの背を押した瞬間、あたった手の感触にビクっと全身が震えた。優しい仕草だったのに、驚きで声を上げてしまいそうになって必死に抑える。
努力空しく、全部お見通しらしい兄と目があって、にっと笑われてしまったが。
「そうだね、でも僕はまだいいから、二人で行っておいで」
上機嫌のまま、兄はアレックスにそう返した。
「……」
だが、アレックスはその兄に沈黙した。怖いぐらい真剣な顔で彼を見つめている。
怪訝に思って彼の横をうかがえば、スペリオスさんもなぜか厳しい顔で兄を見ていた。
「よろしく頼むよ。ほら、フィルも息抜きしておいで、疲れただろう?」
「え、ええと……い、いいんですか?」
「構わない」
兄と、表情を消したまま彼を見つめているアレックスとを見比べたが、結局兄にアレックスと一緒に背後のテラスへと押しやられてしまった。
フィルが背を向けた瞬間、ラーナックは笑顔を消した。
横に並んだアレックスを見て微妙に視線を揺らしつつも、嬉しそうにしている妹の横顔をじっと見つめる。
周囲も同じ二人を見ているのだろう。一旦収まったかに見えたざわめきが再び大きくなっていく。
会場の中央のロンデール公爵から驚愕、次いで忌々しげな視線が送られているが、隣の彼と会話してはにかんでいる今の彼女には届かないらしい。
「……本当にいい子だ」
見つめ合っているフィルの腰にごく自然に回そうとしていた手を、アレックスは途中でひどく不自然に落とした。それを見てラーナックは独り言を漏らし、口元を緩める。
(あの子が側にいてくれるなら、安心だ)
「ラーナッ――」
「フィルはああやって感情を露にしている方がいいんだ」
話しかけようとしたスペリオスを遮って、ラーナックは再度優しく――暗く微笑んだ。
「……」
スペリオスとサンドラの顔が曇る。
華やかに賑わうはずの会場は、奇妙なざわめきとどこか不穏な空気に包まれていた。無数の視線がテラスに消えていく二人の背に突き刺さっている。