17-5.不可視
ロンデール公爵の思惑も謎なら、父や兄の隠し事もあの声の主も謎のまま――いくつもある疑問を確かめることができないまま、やってきてしまった祝賀会当日。
声の主を確かめる勇気はまだないけれど、主役のロンデール副団長は今日ここにいるはずだ。他の二つの謎はなんとか解決しよう。そう決心してはいるものの――。
「……」
(本当にこれで大丈夫なのか……?)
兄とターニャがうきうきで見立ててくれて、実家と懇意にしているという仕立て屋さんが腕によりをかけて仕上げたと言ってくれたドレスをまとい、フィルは馬車の中で溜め息をついた。
手にはそこかしこにある傷を隠すための長い手袋。地毛とそれに絡ませたかつらの髪とがうぞろっと背に流してあって、頭がひどく重いのも憂鬱な気分に拍車をかける。もちろん腰に愛用の剣はない。太ももにこっそり仕込もうとしたナイフも、ターニャに泣かれて諦めた。
(私の場合、『女』の人の衣『装』を着ているというより、『女』の人のように『装』うだよな……)
つまり女の人に見せかけている――つくづく詐欺っぽい。いや、ロンデール公爵も世間も騙す気満々なのだが。
(……ああ、うん、グリフィスに囲まれている方が絶対精神に優しい)
身じろぎした瞬間に耳元でイヤリングが金属音を奏で、思わず顔の片側を引きつらせた。
頭を掻きむしりたい衝動と戦うそんなフィルの前には、同じく正装をした兄がいる。
窓の外を見、何かを考え込んでいる彼の横顔を逃避がてら眺めてフィルは心の底から思った。
断言しよう――兄が着るほうが、このドレスは活きる。社会も喜ぶ。
緩やかに馬車が止まった。どうやら目的地に着いたらしい。
「行こうか」
「あ、はい」
兄に手を取られ、長ったらしいドレスの裾をつまみつつ、フィルは馬車を降りた。その瞬間、周囲にいた華やかな装いの人々が、奇異の目で振り返る。
「……」
結果、出かけにオットーが「化粧も衣装も台無しですよ、お嬢さま……」と嘆いたような顔になってしまって、フィルは慌てて顔を伏せた。
そう、『貴族の深窓のご令嬢』とされている『フィリシア・フェーナ・ザルアナック』は、そんな顔を見せてはいけないのだ――自分から言い出したこととはいえ、なんて面倒くさい。
兄が一歩踏み出したのに合わせて顔を上げれば、馬車四台が並んで通れるであろう、大きな門。その両脇には軽めとはいえ武装した私兵が立っていて、それがフィルにはひどく嫌なものに思えた。
その向こうに、意匠を凝らした彫像がそこかしこに配置された庭園が広がっている。真ん中を白い石の敷き詰められた道がまっすぐ貫き、王宮の迎賓宮より少し小さいだけの建物へと続いていた。
(これが夜会のためだけの場所……)
居住用の邸はまた別にあると聞いた。メーベルト公国の外交官邸も以前はこの家の所有だったというから、その辺の貴族とは格の違う家柄なのだろう。
思わずザルアナック伯爵家の邸と比較してしまう。実家もそれなりに広いと思っていたけれど、比較にならない。場所もそうだ。あっちはにぎやかな街中にあって、塀どころか垣根すらなくて、道行く人と窓越しに目を合わせて普通に挨拶ができるような気楽な雰囲気だ。
(ば、場違い感しかない……って、そうじゃなかったっ)
実家とのあまりの違いに顔を引きつらせていたフィルは、はっと我に返ると、他人の視線が外れた隙に頬をぺしっと叩いて気合を入れ直した。
そう、今日フィルがすべきことは二つ。
第一に、兄に何が起こっているかを知る。そのためにロンデール公爵本人もしくはその息子のロンデール近衛副団長と話をする。副団長は正直苦手だが、この際そんなことは言っていられない。
第二に、ザルアナック伯爵家のフィリシア・フェーナ・ザルアナックが、騎士団のフィル・ディランだとばれないように振る舞う。兄のためにこんなことをしているのに、正体がばれてその彼に迷惑をかけるようなことになれば本末転倒だから、これは必須だ。
そのために必要な時以外なるべく話さない。話すとすぐ変だとばれてしまうから。……自分で言っておいてなんだが、悲しくなる事実だ。落ち込む。
あとは、世慣れしていないように見せるためになるべく人を避け、かつ『病弱』に見えるように立ちくらみでもしてみようと企んでいる。病弱――フィルから最も縁遠い言葉だ。風邪だって一生のうちにかかったのは数回程度だ。立ちくらみだってどういうものか、本当は想像すらつかない。試練だ。
フィルは祖母に教えられたとおり、控えめな微笑を顔に貼り付けた。
「……フィルはそういう笑い方が本当に似合わないね」
直後に横の兄がぼそりと呟いて、フィルは慌てて顔を上げた。「や、やっぱり無理がありますか?」と小声で焦るフィルに、兄は苦笑を漏らす。
「ううん、そうじゃなくて……フィルは笑いたい時に笑う方が似合うっていう話」
「……兄さま?」
その表情に、何かが引っかかってフィルは眉をひそめた。
「それでは参りましょうか? お嬢さん、お手をどうぞ」
確かめようとしたが、彼が腕を差し出してきた時には、さっきあったはずの暗い影のようなものは消えてしまっていた。目を凝らしてみたけれど、にこにこと笑う兄の顔はいつも通りだ。
勘違いだったのかな、とフィルは首を傾げながら、作法どおり兄の腕に腕を絡めた。
* * *
眼前の大扉が開いていく。
小さく聞こえていた音楽と話し声が一気に大きくなった。眩い光が扉の隙間から差し込んできて、フィルは目を細める。
光に慣れた目に映ったのは、さすがは現王家より古い家というだけある、と言わざるを得ないものだった。
広大なホールは、百年ほど昔に流行った建築様式で、柱の一本一本、窓の一枚一枚の細部にいたるまで意匠が凝らされていて、とても優美だった。足元を彩る毛足の長い絨毯は真新しく、ふわふわだ。フィルの記憶が確かなら、これは遙か彼方の国の伝統工芸のはずだ。
四階ほどの高さの天井から吊るされたたくさんの灯りは、繊細なガラス細工に乱反射して、華やかに着飾った人々の頭上に虹を落としている。
「っ」
その人たちへと目を移した途端、フィルは自分と兄がひどく注目を集めていることに気付いて、息を止めた。いつの間にか人々の会話もやんでしまっている。再び気後れしてしまって、自然と顔が俯き気味になった。
「……」
兄のエスコートに任せて、奇妙に静まった空間を、動きにくいドレスの助けを借りて静々と歩いていく。背があるからこれぐらいはいいよね、と兄が用意してくれた踵のない靴は、足元の絨毯の弾力を足の裏に如実に伝えてきて、その感触でフィルはなんとか気を紛らわせた。
「これは、これは、ザルアナック家はラーナック殿」
奇妙に静かな空間を楚々と歩いて行き着いた先にいたその男は、フィルと兄を大仰に出迎えた。爬虫類を思わせる視線をこちらへ向け、歪な笑いを見せる。
直後に、静まっていた広間にどよめきの様なものが広がって、フィルは困惑を深めた。
兄が型どおりの口上を述べる間にも彼はその白目の多い目で、舐めるようにフィルを見てくる。観察というべき類の目つきは不躾なだけでなく、ひどく嫌な気配のするものだった。
(この人がロンデール副団長の父親……)
よくよく見れば瞳の色は同じだし、もとの顔かたちも整ってはいる。だが、印象が違いすぎた。
息子の副団長から、値踏みとしか言いようのないこんな視線や、これほど不快な空気を感じたことはない。体型も物腰も違いすぎる。金糸をふんだんに使った夜会服の下は、運動不足の中年そのものだ。
「そちらが『秘めたる華』と評判のフィリシア嬢ですな。我が息子の誕生を祝いに敢えてお越しいただけるとは」
次に自分へとふられた言葉は、歓迎しているような字面とは裏腹に、見下すような感じがした。
フィルはついに堪えきれなくなって眉根を寄せた。そもそもお前が来いと言ったんじゃないかとも思ったし、声高に何かを強調しているような物言いもひどく癇に障る。
「……お初にお目にかかります。フィリシア・フェーナ・ザルアナックと申します」
だから顔を伏せ気味に、小声で最低限の挨拶だけを返した。
はにかんでいるように見えなくもないはずだが、なんのことはない、一瞬にして浮かんだ嫌悪と面倒くさいことを全部すっ飛ばして『人の兄に何をしている?』と問い詰めてしまいたい衝動を抑えるための苦肉の策だ。
「噂に違わないお美しさだが、名高き母君よりアル・ド・ザルアナック……老伯爵に似られたようだ」
彼が祖父を呼んだ瞬間、肌をチリリと刺されたように感じた。とってつけたように付け加えた敬称といい、この人は祖父、そして私にとっていい相手ではないようだ、と判断する。
「アンドリュー、何をしている? こっちに来ないか」
視線を上げれば、公爵の後方にはアンドリュー・バロック・ロンデール副近衛団長の姿があった。驚いた表情を隠そうともしていない。
「……」
こちらへと歩いてくる彼に凝視されて、フィルは身動ぎする。服の下まで見透かされるのではないかという視線に、居心地の悪さが増した。趣味に合わない格好で知り合いに会っていることが恥ずかしくて、頬が上気していく。
彼の長い茶の髪は、今日は結わえられることなく、光沢のある赤色の服の背にそのまま垂らされていた。彼の歩みに合わせて後方に靡く。
「フィ……リシア嬢、お会いできて光栄です、よくぞおいでくださいました」
ロンデール副団長は目の前までやってくると、フィルを真剣な顔で見つめた後、作法どおりにフィルの手の甲へと唇を落とした。
(やっぱりこの人が公爵に私や私の実家のことを話した訳ではないらしい……)
もう一度目を合わせて、小さく、けれど本当に嬉しそうに微笑んだ彼に、フィルは少しだけ胸を撫で下ろした。
「……あ、あの」
が、ほっとできたのは束の間だった。握られた手が離されなくて、フィルは顔を引き攣らせる。
(こ、こういう場面ってあった? ど、どうするんだっけ?)
祖母の教えを思い出すが、心当たりはない。知恵を絞るしかない。
「え、えと……」
つかみ返して関節を決めて落とす――のは論外だ、いくらなんでも。
(じゃ、じゃあ、振り払う? ああ、でもそれもおかしいかも……というか、そもそもこれがおかしくない? な、何考えてるんだろう、この人……)
片頬を痙攣させるフィルに対し、副団長は平静なまま。
「アンドリュー殿、私にもご挨拶の機会をください――この度はお誕生日おめでとうございます」
困って兄を見れば、兄はにこやかに笑って副団長の前へと進み出てくれた。結果フィルは兄にかばわれるような形になって、ロンデール副団長の手がようやく離れた。
安堵の息を吐き出したものの、いつも優雅な兄の横顔に微妙な緊張が混ざっていることに気付いてしまって、別の動揺を誘われる。やはり何かがおかしいらしい。
「はて、フィリシア嬢にまでお越しいただいて今日の良き日を設けたというのに、ザルアナック伯爵のお姿が見えぬようですな」
(……え、な、なに?)
公爵の声に、またも広間がざわついた。
「父もご子息ご生誕の日をお祝いしたいと望んでおりましたが、生憎と所用がございまして、今宵は失礼させていただきました」
「なんと……フィリシア嬢にとっても晴れの日でしょうに」
「ありがとうございます。ですが、我が妹にとっては、こうした社交の場に初めてお邪魔するというだけのことです。お招きは感謝いたしますが、どうかお気遣いなく」
涼しげな微笑を崩さない兄とは対照的に、公爵は露骨に顔を歪めた。いよいよもって訳がわからない。
「……どうやらあなたは状況を理解しておいでではないらしい」
「っ」
ぞっとするような公爵の小声に、フィルは思わず腰を探った。が、生憎と求めた感触はその場所にない。
「いいえ。理解しております、誰よりもよく」
対する兄は穏やかに笑って応じた――フィルが見たことのない類の笑顔だった。視界の端に、ロンデール副団長が眉根を寄せているのが映る。
「父上、その話はまた。フィリシア嬢、さぞご緊張なさっていることでしょう、あちらへどうぞ」
視線を感じたのかもしれない、副団長は目を合わさないまま、フィルの手を再び取った。不自然なほど自然に距離を詰め、手を引こうとしてくる。
彼には不似合いに見える強引さに、以前の王宮での出来事を思い出してフィルは、咄嗟に自らの手を奪い返そうと引いた。だが、向こうはそれを承知していたのかもしれない、強く握り返してくる。
異常を感じて顔を強張らせた瞬間だった。
「失礼」
(あ……)
よく通る低い声によって、人ごみが裂かれた。
その真ん中を優雅な足取りでまっすぐに進んでくる人――その姿を認めた瞬間、全身を包んでいた緊張が自然と解けた。いつの間にか詰めていた息を吐き出す。
(本当に来てくれた)
顔を歪めたロンデールがやっと手を離してくれたことにも気付かないで、フィルは現れたその人――アレックスを見つめた。あれもこれもわからないこと、不思議なことばかりで、恐慌をきたしそうだった心が、嘘のように凪いでいく。
抜きん出て高い身の丈は、長い手足と鍛えられた筋肉でバランスよく整えられ、黒を基調とするシンプルな正装と相まって精悍な豹のように見える。冷たく見えるほど整った顔には、いつものように怜悧な表情が浮かんでいて、後ろへと丁寧に流された黒髪が雰囲気の鋭利さを彩る。
どんな宝石よりも美しい、濃い青色の瞳がフィルを捉えた。その瞬間目元が少し緩んだことに気付いて、フィルも顔を綻ばせる。
彼の傍らにはよく似た容貌の彼の兄がいて、さらにその横に、神秘と讃えられる運命神の斎姫が長い黒髪を天井から注ぐ光に惜しげもなくさらしていた。
三人そろって歩く様は、壮観としか言いようがない。
彼らが進むにつれ、広場のざわめきが激しくなっていく。そこかしこから「フォルデリークがなぜ?」「ザルアナックだけじゃないのか」という囁き声が上がっている。
「今宵はお招きありがとうございます」
三人の中央にいるアレックスの兄、スペリオスさんが、目をみはっている公爵に向かって悠然と微笑みかけた。
アレックスはアレックスでロンデール副団長へと距離を詰め、祝辞を述べている。副団長が後ろへと一歩退く形になって、フィルの周囲から彼の気配が消えた。
「では公爵、アンドリュー殿、失礼いたします」
その隙をつくように、兄のラーナックがフィルの腕を取って、その場を退くよう促してくれた。それでまた安堵する。
「……」
すれ違う一瞬、アレックスと目が合ってしまった。真っ赤になって、慌てて視線を伏せる。
騎士服に街の少女たちが騒いでいるのをよく見かけるけれど、正装したアレックスは彼を見慣れているはずのフィルでさえ正視しにくい。
アレックスは少し苦笑したようだ。余計に恥ずかしくなって、フィルは逃げるようにその場を後にした。