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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第17章 幸せと諦観
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17-4.表層

「悪い方ではないのですよ」

 父とフィルの間に漂う緊張感を見かねたのだろう。ドレスの仮縫製が上がったからという連絡を受けて実家を訪れていたフィルの髪を、ついでだからといじっていたターニャが不意に呟いた。

 いつも遠慮なくフィルにものを言う彼女は、今は鏡の中で窺うようにフィルを見つめている。

 今日も自分を見るなり、スッと消えた父の後ろ姿を思い出して、フィルは視線を伏せる。

「……そうだろうね」

 彼女の期待する答えが判る気もしたけれど、そうとしか答えようが無かった。


 先ほど、その父と入れ替わりにお茶を運んできてくれた侍女のエリーさんは、フィルのロンデール家の誕生祝賀会への参加に対して、目に涙まで浮かべてお礼を言った。前よりは食事もとってくださるようになった、と安堵する様からは、彼女が本当に父を心配していることが伝わってきた。

 他の人たちもそう。執事のオラールさんも料理人の人も他の侍女たちも皆彼を敬い、親愛を見せている。

 父はフィルだけでなく、誰に対しても愛想がいいとは言い難いようだ。それでなお好かれている――あの人は多くの人にそう思ってもらえる程度に『いい人』なのだろう。

 だが、フィルは彼をほとんど知らない。

(唯一知っていることが、あの人が私を好いていないということだけだからな……)

「ほ、ほら、あのドレスの生地も、首飾りの石も最高級のものをそろえるようにと旦那さまが仰ったんです、せっかくなのだから、と」

「あー、うん、その、悪い人だとは思ってないよ」

 歯切れの悪いフィルの気分を引き立てようとしたのだろう、ターニャが明るく言ってくれたけれど、それにもうまくついていけなくて、苦笑になってしまった。

 ドレスや宝石にしたって、単純に、ザルアナック家の者として出席させる以上、恥をかかされたくないと思っただけともとれるのだ。もしくは兄がそう望んだから、とか……。

「……」

 髪に通していた櫛を下し、ターニャが悲しそうな顔をした。それでさらに胸が痛んだ。

 自分たちを心配してカザレナまでわざわざ出て来てくれて、今もあれこれ気を使ってくれる彼女にそんな顔をさせたいわけではないのに、今日もうまく行かない。



 祖父も祖母も、父の話をあまりフィルにしなかった。

 母のことはどこか切なそうに、でも懐かしそうに、優しく笑いながら話してくれた。

 ある晩、仏頂面をした父がどこからか連れてきて、祖母に「護身術のひとつでも身につけさせてやってくれ。鈍臭くていい加減目障りなんだ」と託けたのが、母だったらしい。

 母は「あたっているとは思いますが、鈍臭いとまではっきり言われたのは初めてです……」と落ち込んでいたらしいけれど、その後この邸に祖母を訪ねてくるようになって、祖父母はそれからの話を色々してくれた。

 綺麗で、優しくて、鷹揚で、でもびっくりするくらい芯の強い娘だった、彼女が父を選んでうちに来ると決まった時、父そっちのけで二人で盛大に祝杯をあげた、騎士団に祖父を訪ねてきてくれることもあって、そうなるとみんな大騒ぎになって修練どころじゃなくなった、生まれてきた兄と目の色が一緒だった……他にもいっぱい。

 正直、シンディ・メティナ・ザルアナックという女性が自分の母親だという実感はフィルにはまったくない。でも、祖父母は二人ともいつもひどく優しい顔で彼女について語っていたから、きっと母のことが大好きだったのだろうと思う。


「フィルを生んで亡くなってしまったけれど、フィルが生まれてくるのをとても楽しみにしていたのよ。毎日毎日、おなかのあなたに嬉しそうに話しかけていたの」とも祖母は言っていた。

 ――じゃあ、最期の瞬間に生まなければ良かったと思ったのではないだろうか?

 そう疑問に思ったけれど、そう訊ねれば祖父母を悲しませることを知っていたし、答えをくれるはずの母は既にいない。

 そして、仮に母が質問に答えることができたとしても、それを耳にした彼女もきっと悲しむだろう。そう思ったから、フィルは浮かんだ質問をのみ込んだ。よく知らないなりに、母はそんな人だったのではないかと思った。

 そう、直接じゃなくて祖父母を通してであっても、フィルは少しは母を知っている。


 でも、父のことは直接にも間接にもほとんど知らない。生きている人なのに。

 祖父母もオットーたちも兄もアドリオット爺さまも、みな彼については話してくれなかった。父について訊ねた瞬間に、彼らの明るい表情がわずかに曇る。そこに同情があるのを見て、フィルはいつからか父の話題を避けるようになった。

 フィルの嫌がることはなんだってしていたフェルドリックでさえ、父の話題は避けようとしている。そう気付いてからは、ますます口にできなくなった。


 私が父と暮らしていなかった理由。

 私に父の話を誰もがしなかった理由。

 私に出て行けと父が言った理由。

 それらからわかるのは、彼が自分を疎んでいるということ。

 そして、その原因は、自分が生まれたことによって母が死んだためだろう、とフィルは推測している。



「それでは私どもはこれで。フィリシアさま、お会いできて光栄でした」

 別室で作業をしていた老齢の仕立て屋さん――フィルを一目見るなり、「……シンディさまによく似ておいでで」と感慨深げに微笑んだ彼が、まだ見習いだという息子さんとともに、フィルたちの部屋に顔を出した。

 ターニャが彼らを見送りに部屋を出て行った後、フィルは背後のソファに倒れ込んで息を吐いた。


 自分と父は、他の親子がするように会話をしたことがない。

 今回の件にかかる隠し事だって、結局何ひとつ訊ねることができていない。話しかける隙すら見せてくれない。

 父が独善的で会話を否定する人という訳じゃない。彼と兄は仲がよくて、色々話をしている。彼の兄に対する眼差しは、いつだって本当に優しい。

 どうしようもない原因があったとは言え、血のつながった親にここまで疎まれるのが自分――。


「どうしようか……」

 いい加減ちゃんと向き合うべきだとわかってはいる。

 フィルはフィルで、彼が怖くて、彼を知ろうともせずにずっと避けてきた。

 父が自分を嫌がる理由も、今では少し理解できるようになったのだ。自分からアレックスを奪う人がいたら? と考えれば、なんとなく仕方のないことかもしれないとも思える。

 ちゃんと正面から話をして、してもらってそれで理解し合えないなら、もう仕方がない。

 でも……致命傷をもらうことになったら?

 どこか祖母に似た、兄に向けて優しそうに笑うあの顔に、憎しみを宿らせて、『お前など要らない』ともう一度言われたら……? それでも仕方ないと割り切れるだろうか? また傷つくのではないだろうか?

「……ほんと、情けない」

 その自覚はあるけれど、そこを踏み越える勇気と覚悟が出てこない。


 重い息を吐き出しながら、フィルは天井からの明かりを遮るように腕を目の上に乗せた。

 父はターニャの言うように、きっと悪い人じゃない。あの祖父母の息子で、優しかったという母が選んだ人だ。本当に悪い人なら、あの兄が父にあんな風に接するはずがないし、アレックスを育てたような人たちが、彼の親友であるはずもない。この邸の使用人の人たちだって、なんだかんだ言って彼を慕っている。

 でも……だからこそ余計怖いのだ、そんな人に否定されるのは。


 日はすっかり暮れてしまっていて、強めの風が邸の木立をさわさわと揺らし、色づいた葉を吹き散らしていく。


 ロンデール家の夜会はもうすぐだ。フィルは当初の予定通り、兄と出席することになった。

 フィルのせいなのか、それとも別の理由かはわからないが、父は欠席するらしい。ロンデール家の使いだという感じの悪い男に食い下がられていたが、ひどく険悪な雰囲気で断りを告げていた。

「……」

 カーテンの隙間から見える窓向こうの夜空の闇に、フィルはアレックスを思い浮かべる。

 あの晩、フィルがロンデール家の夜会に出席することになったと告げると、彼は「俺も出ることにしてきた」と言って、フィルの頭をポンと叩いた。

「何かの時は側にいるから、安心していい」

 そう言ってくれて、ほっとしてしまった。元はと言えば全部自分のわがままなのに、と鼻の奥がつんとした。

「アレックス、今日は宿舎に帰ってくるのかな……」

 身を起こして、ボソリと呟く。

 会いたい、顔が見たい――外の風の音を耳にしながら、強くそう思った。


 物思いに沈んでいたフィルは、突然響いたノックの音にソファの上でびくりと体を震わせる。

 努めて冷静な声で返事をすると、機嫌よさげに兄が顔を出した。

「フィル、終わったならお茶でも飲もうか? ケーキ、好きなんだって? ターニャは夜のおやつは身体に悪いって怒るけど、色々買ってきちゃった」

 くすりと笑って肩をすくめた兄につられて、フィルは顔を綻ばせた。

 彼は彼の憂いをまだ抱えていて、父同様それをフィルに話してくれる気はないらしい。けれど、その彼が自分を見てこうやって笑ってくれるのであれば、それはそれで嬉しい。

「ありがとう、兄さま。じゃあ、お茶は私が淹れ、る……?」

(あれ? フィル……?)

『フィリシアっ』

 アレクサンドラがここの門前で刺客に襲われて、それらの相手をするためにフィルが飛び出して行った時、邸内からかかった声を思い出す。心配を含んで悲愴な響きを含んでいたあの声だ。アレックスが窮地にいるフィルを呼ぶ時と同じ……。

「フィル、どうしたんだい?」

 兄の紫の瞳を、フィルは目をみはったまま見つめた。

 彼は私をいつもフィルと呼ぶ。邸の人はお嬢さまか、フィルさまだ。

(じゃあ、あの声、はひょっとして……)

「……」

 フィルは無言のまま、口に左手を当てた。あり得ないはずの思いつきに、体が芯へとぎゅっと縮んでいくような気がした。


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