17-3.煩悶
――同じ晩。
地位と繁栄に似つかわしくないと嫌み混じりに噂されているらしい小さめの、だが長い歴史に相応しく古い造りの実家、フォルデリーク邸をアレックスは後にした。
久しぶりに宿舎で夜を過ごすべく、夜の王都へと歩を進める。闇の中でなお黒い自分の影が、足元の石畳を青黒く染めていた。
貴族や裕福な商人たちの邸宅が広がる付近は、夜更けということもあって静まりかえっていて、どこからか夜鳴鳥の声が響いてくる。
父と兄に協力を仰ぎつつ調べた、ロンデール公爵家とザルアナック伯爵家――中でも嫡男ラーナックとフィルの関係は単純で、だが厄介なものだった。
「敢えて隠していた、という訳か……ステファンめ」
一昨日出会った父はひどい顔をしていた。
「確かにうちがすぐどうこうできる話ではないが……」
そう呟いて黙り込んだ彼は、ひどく傷ついているようにも見えた。すぐに気を取り直し、いずこかに連絡を取ると言って出て行ったが。
「あいつ、気付いたようだ。わざわざ妹には絶対に伝えるなと連絡してきた」
フィルの兄ラーナックと親交があるというアレックスの兄スペリオスは、先ほど苦みと悲しみが混ざった顔を見せた。
「ただ意外なのはザルアナック伯爵だったな。こう言うとなんだけど、彼は娘に、その、あまり興味がない、と僕は思っていた。息子のためであれば、娘をロンデールにさっさと差し出しかねないと思っていたのに」
それから兄は視線を床に落として沈黙し、最後に「あの人は本当に変わったんだろうか? それとも……」と独り言のように呟いた。
ザルアナック伯爵がフィルに興味がない、とはアレックスは思っていない。
昨年の剣技大会での彼の様子然り、何よりアレクサンドラの件で、フィルが実家に篭ってしまった時のことだ。翌日の晩、フィルを迎えに行ったアレックスを出迎えたのは彼だった。
フィルに会わせてほしいと頼んだアレックスに、彼は「そんな者は知らぬ」と言い放った。
だが、二言目は「ラーナックが預かったものなら、二階の南西の角の部屋だ。引き取りたくば、勝手に持っていけ」だった。
そして、戸惑うアレックスにも苦笑する執事にもかまわず、奥へと引き上げてしまった。
かと思うと、アレックスが再び階下に下った時には彼はそこにいて、「引き取っていかないのか」と苦虫を噛み潰したかのような、安堵したような不思議な表情をしていた。
アレックスが「明朝改めてお伺いします」とアレックスが言った時の表情も、それはそれは複雑なものだった。
フィルは「いえ、父は私があそこにいたことを知らなかったはず、ですが……」と困惑していたが、そんなはずはない。
今回の件も根底にあるものは同じなのではないか。
だとすれば、ザルアナック伯爵は彼女の兄と同じように、フィルを自分たちの問題に巻き込むまいとしている――アレックスはそんな推測を抱いている。
フィルのほうも、確かに父親に馴染んでいるようには見えない。
『で、でも勘当されました。その……父の、父が、き、期待する様な子では……ご覧の通り……無くて……い、いらない、と』
フィルはあの日、本当の名を名乗った後、小さく震えながら、そう父との関係を告げた。
彼女は伯爵に嫌われていると思っている。彼女の口から積極的にザルアナック伯爵の話題が出たことはないし、その辺の話題になるとあからさまに空気が硬くなる。
だが……それが、フィルが彼を慕っていない証拠だとどうして言えるだろう? 逆に、思うところがあるから、あのフィルが彼に対してだけ、あれほど構えるのではないだろうか。
(どうすることが一番いいのか……)
アレックスは沈鬱な面持ちで夜空を見上げた。だが、街中に近づくことで増えてきた街灯の光のせいで、期待した星明りはまったく目に入ってこない。
「……」
十年前の夏のザルアでフィルと一緒に見た星空――アレックスは今は遥か昔となった遠い記憶を探る。
あの晩、新月の空の下、空気は高く高く澄んで、周囲の木々は闇に染まっていた。
足元の草花が夏風にさわさわと優しい音を立てて揺れ、それに応ずるように虫の声が四方から響く。
横から囁くように響いてくる声が愛しくて、視線をフィルに向ければ、白い顔は暗がりに浮かび上がっていて、こちらを見て笑っている。
その彼女と二人で草原に寝転がって手を繋ぎ、草いきれと暖かい地面の感触に包まれて、共に見上げたあの空からは、星が零れ落ちてくるのではないかと思った。
あの淡く、優しく輝く星空がどうしようもなく懐かしい。
「フィル……」
大切なフィル。あの頃と同じ、いや、あの頃よりずっと愛しい――。
その彼女を嫡男の誕生会に出席させるよう、ロンデール公爵がザルアナック伯爵に働きかけているらしい――そうフィルの口から聞いた時、心臓を槍で貫かれた気がした。恐れていたことがついに起きた、と。
これまでどこから声をかけられても公の場に決して出てこなかった伯爵令嬢が、ロンデール公爵家の跡継ぎの誕生を祝う会にだけは出てくる――二人は殊更に親しい、つまりは婚約するような間柄だと周囲に告げるようなものだ。
実際、ロンデール側はそれを狙っているのだろう。その後は噂を既成事実化していくだけ、彼らのいつものやり口だ。
フィルがそんなことに気付いているはずはないのだが、本音を言えば出席したいと言う彼女をなじり、縛りつけてでも腕の中に閉じ込めておきたいと思う。誰の目にも触れさせたくない、自分以外の誰の姿もあの緑の瞳に映したくはない。
アレックスは顔を歪ませる。
よく知らないなりに兄のためだとそんな催しに出ようとするフィルが、もし彼やザルアナック伯爵の本当の心情を知れば……?
嫌な想像ならいくらでも溢れ出す。
(どうするべきなのだろう……)
答えが出ない、もう何十回目かの自問を繰り返す。
フィルの父や兄の思いを汲んでこのまま知らぬふりをしているべきか、それともフィルが去っていく可能性を受け入れてでも彼女の思いを汲み、すべてを教えるべきか、それとも……。
息苦しさに眉間を寄せながら、アレックスは騎士団本営の門をくぐって宿舎へと入る。
静まりつつある建物の中を殊更にゆっくりと歩き、自室の前に辿りついた。
この扉の向こうにフィルがいる。
(彼女のために俺がなすべきこと、できること、は……)
静かに開けた扉の先、奥の光の中からフィルが駆け出てきた。
「お帰りなさい、アレックス」
「……」
目が合って、彼女が幸せそうに笑った。その顔を見た瞬間、沈んでいた気分が少し浮上した。我ながら単純だと呆れてしまう。
「あの、あのですね、今日ちょっと頑張って、それでさっきターニャたちに会って……って、ええと、そう言われてもわからないですね……それで、えと、あれ、何から話したらいいんだっけ?」
くるくると表情を変える彼女に、確かにあったはずの頭と体の強張りが自然とほどけていく。
(そうだ、難しく考える必要はない)
右手を横髪に差し入れて、左手を腰へと回す。
「ただいま、フィル」
そっと抱き寄せ、アレックスは彼女の耳元で囁いた。
「……」
甘い香りが鼻腔を突いた瞬間、腕に込める力が強まった。胸のうちの彼女に悟られないよう、そっと息を吐き出す。
求めるべきは、自分の決断の先に笑う彼女の姿があること――それだけだ。