17-2.対峙
(たのもう――じゃないな、間違いなく。試合でも挑もうというのか、なんせおかしすぎる)
(じゃあ……ただいま? ――これも私の場合は違う)
(お邪魔します――違う気もするけど、まだましかも)
(待てよ? ごめんください――これが一番普通かな……?)
王都の西方、実家であるザルアナック伯爵邸の扉前で、フィルは緊張した面持ちで直立する。
少し南に出ればザルアへと続く街道があるこの界隈は、往来がかなりあって、日の暮れた今も賑やかだ。
通りすがりの馬車の御者が怪訝な視線を向けてきたのを後頭部に感じ、フィルはふと、今不審人物に思われたかも、と苦笑した。
大きく息を吸い込み、ようやくドアノッカーに手をかける。金属製のそれは古びた風合いで、秋の夕暮れの風を受けてひんやりしていた。
(あ、四本角……)
ドアノッカーの形をとっているのは、ザルア山脈にしかいない四本角の高山ヤギだ。
思わぬところに故郷との繋がりを見つけて、フィルは少しだけ緊張がほぐれたのを感じた。
大丈夫、あの人は爺さまや婆さまに繋がる人でもあるんだから、そう思うことができた。
(自分でできることはする、アレックスに頼ってばっかりじゃダメだ)
今日ここに来た動機を再度確かめる。
あの晩からアレックスは、ほとんど部屋に帰ってこなくなった。
仕事――は相変わらずだけど、アレックス曰く「慣れた」らしく、今ではよほどの件でない限り時間がかかることもないらしい――ではなく、宿舎外に出ているようだ。
そうなると所属が別の今、フィルが彼と話す機会はほとんどなくなってしまう。なんせ姿を見ることさえままならないのだ。廊下ですれ違ったり、窓越しに目が合った時は笑ってくれるけれど……なんとなく様子がおかしい。元気がないというか、どこか上の空というか。
『ロンデール副団長の誕生会に行くと言ったから、怒っているのですか』
それでついに昨日、少しだけ部屋に寄ったアレックスに、思い余って訊ねてみた。
「……」
そうしたら、アレックスは一瞬目を見開いた。そのままじっとフィルを見つめる。
それから、真剣な顔で額に、頬に、唇に、何度も何度も、長い口付けを落とし、最後に小さく苦笑した。
本当に謎だった。アレックスは時々あんなふうになる。
怒ってはいない。けれど、表に出していないだけで、誕生会の件は嫌がっているような気がしなくもない。
でも、彼はいつもフィルの考えや意思を最大限尊重してくれる。今回もフィルが行きたいと望んだから、彼は反対したり自分の考えを押し付けたりせず、それどころかフィルを助けようとさえしてくれているのはないか。
(また迷惑をかけてるのかも……)
彼が去った後、情けなさにフィルは肩を落とした。
「……っ、じゃなくて!」
それからはたと落ち込んでいる場合じゃないと気付いたのだ――それならなおのこと、私は私のすべきことをしなくてはいけない。
(うん、怯んでいる場合じゃない)
フィルは扉の前できっと眦を上げると、新たな決意を胸に、ついに実家の扉を叩く。
が――。
「た、たのもう!」
勇んで出した声は、よりによって一番の不正解。
顔を引きつらせたフィルの目の前で、扉はすぐに開いた。
「……お嬢さま、さっきから玄関前で百面相をしていらっしゃると思えば……」
本心がまさに父との決戦という気分だったからとはいえ、顔を出した執事のオラールさんの視線がとても痛かった。
通された部屋は覚えがあるものの、やはり馴染みはなくて、どこか他人行儀な感じがした。実家ではあるけれど実家ではない、と感じる。けれど、木の温もりがある調度品といい、素朴な装飾といい、どこかザルアの別邸にも似ている気がした。
フィルがソファに腰掛けようとした瞬間に、扉の向こうで物音がした。一瞬でそれが誰の気配か悟って、フィルは直立して扉に向き直る。
「……」
予想通り――ノックもなく入ってきたのは、厳しい顔をした父だった。
「何をしに来た? お前などに不用意に我が家に出入りされては不快極まりない。さっさと帰れ」
挨拶もなく、口を開いたフィルに構うこともなく、いきなり発せられた声は地を這うように低い。向けられる目も言葉も相変わらず冷たくて、フィルは知らず息を詰めた。肌がピリピリする。
肩車されて自分の背の倍の高さから景色を眺めたあの夏の日、フィルが抱えた頭にあった髪は、今では白色が金色を凌駕している。
ぎゅっと脇の拳を握りしめると、フィルは彼に悟られないよう、口内にたまった唾液を飲み込んだ。
「……用件が済めば帰ります」
自分とほぼ同じ位置にある父の顔を見つめ返しながら、静かに、けれど深く呼吸して発した声は、フィルの恐れに反して、震えてはいなかった。
「今更、貴族の娘の真似事をしたいと?」
ロンデール家の夜会に出席したい――そう言ったフィルに、ソファの対面に座った父は目を眇めた。うかつに動かないほうがいい、そう感じる空気を前に祖父を思い出す。
「目的はそこにはありません。知りたいことがあるのです」
胃の腑がせり上がるような感覚は、相変わらず続いていた。
だが、やはり声は揺らがなかったし、膝の上で握った拳も震えていない。それどころか嘘までついている。
(……成長したと言っていいのかな、これも)
そんなことを考える余裕があると気づいたら、胃の痛みが少し紛れた。
「そのために一度は要らぬと言った家名を使おうと? ふざけるのも大概にするのだな」
皺の刻まれた父の顔が歪んだ。
「いわゆる貴族の娘らしい、ザルアナック伯爵令嬢を演じます。ご迷惑はおかけしませんので」
(乗ってくる、のではないだろうか……? 彼の大事な兄さまに本当に何かが起きていて、妹である『フィリシア』がその会に行くことで、彼を救うことができるのであれば……)
「お前にそんな真似ができるものか。愚かな申し出もそこまで来ると笑えるな」
皮肉な調子で一笑に付されて、胸に痛みが走った。だが、直後に父の視線が揺れたのを見つけて、何とか踏みとどまる。
「できます。これでも祖母に一通りのことは仕込まれました。一晩程度であれば問題ありません」
微かな変化も見逃すまいと、フィルはじっと父の瞳を見据えた。
(……ああ、祖母さまとまったく同じ色だ)
十八年経って初めて気付いた。本当に、これまで彼とまったく向き合ってこなかったんだ、と改めて思い知らされた気がした。
そのまま部屋には沈黙が流れた。
緊張と怯えを見せないようにするのに必死だったから、正確な時間はわからない。けれどフィルにはひどく長い時間だった。
「……絶対に……何があってもザルアナックに関わらないと、」
ギリっと歯を鳴らす音が聞こえて、睨みあっていた明るい茶の瞳がフィルから逸れた。
「何を言われようとも、何を見聞きしようとも、お前がザルアナックとは無関係でいると約束するならば、許可しよう」
苦々しさを隠そうともせず父はそう言い置いて、応接室を出て行った。
* * *
(……疲れた)
長々と息を吐き出しながら、フィルは崩れるようにソファに身を落とした。手のひらを開き、そこが汗で濡れているのに苦笑する。
それでも、進歩だ。ちゃんと話をして、こちらの意志を彼にのんでもらった。
二年前、父に言われるまま黙ってこの邸を出た朝のことを思い出したら、すごく遠くまで来た気がした。
「「フィルお嬢さま!!」」
「……え?」
緊張をほぐそうと伸びをしていたフィルは、突如響いた声に弾かれるように顔を上げた。
「……っ、オットー! ターニャ!」
あの二人だ、ザルアで祖父母と共に毎日一緒に過ごした、家族のような人たち――。
扉向こうからのぞいた顔に、ばねのように跳ね上がると彼らに走り寄る。
「我慢できなくなって王都にまで出てきてしまいましたが、ああ、本当に大きくなられて……」
「馬鹿ね、あなた、綺麗になられたって方が正しいでしょう。ああ、もう、そのお顔、ターニャによく見せてくださいませ、お嬢さま」
「馬鹿はおまえだ、そんなの当たり前だろう。お元気そうで何よりです、本当に一体あれからどれほど心配していたか」
「そうです、そうですよ! 何も仰らないで出て行かれて、挙げ句一体何をしていらっしゃるんですか! アドリオットさまから騎士団にいらっしゃるとお伺いした時は耳を疑いましたよ!」
「いや、私は妙に納得していたぞ?」
「あなた!」
「なんせご活躍は遠くザルアにまで。大旦那さまがお聞きになったらなんと仰ることかと……」
「アルさまなら大笑いなさって終わりよ、もちろんエレンさまも。心配するのはいつも私だけなんですから!」
が、同じように走り寄ってきた彼らに、一気に色々言われて固まった。
「え、えと……」
(な、何からだっけ……?)
そんなフィルの様子を気に留める風もなく、ターニャの柔らかい腕がきつくフィルの背に回った。その彼女ごとオットーの腕がフィルを包み込んで、そのままぎゅっと抱きしめられる。
「……おお、いかん」
「まあ、びっくりさせてしまいましたね」
また会えて嬉しかったりとか、色々言われたりとか、懐かしい二人の匂いに泣きそうになったりとか、とにかく頭はぐちゃぐちゃ。ただ、自分に回された二人の腕の感触がひどく幸せで、なすがままに抱きしめられているフィルに、夫妻はようやく気付いたようだった。
「――そうだよ、フィルは真面目だから、あなた方の山のような言葉全部にちゃんと答えようとして、今頭がいっぱいになってしまっているんだ」
そこに涼やかな声が響いた。
「……兄さま」
ターニャの腕の中で振り返ったフィルの視界に、ドアを開けたところで微笑んでいる兄ラーナックの姿が入る。
「……」
だが、この世のものと思えないほど整った兄の顔に、憂いが浮かんでいるのを見つけて、フィルはオットーたちとの再会の高揚を一気に萎ませた。
(ああ、本当に何かがあるんだ……)
あの父がフィルの申し出を受け、この優しい兄が心を痛める理由が。
横にいるオットーとターニャ、そして兄の背後に現れた、彼らの息子でもある執事のオラールの顔に同じ色が掠めたのを見つけ、フィルは眉根を寄せた。
「フィル、」
その顔のまま口を開いた兄に、フィルは咄嗟ににっと笑いかけた。ロンデール家の夜会に行くな、なんて説得はどうせ聞く気がないのだから。
「兄さま、今度の夜会、エスコートしてください」
「……」
「一生に一度くらい着飾って、貴族のご令嬢然と振る舞ってみるのもいいと思いませんか?」
言葉を詰まらせた兄に気付かないふりをして話し続ければ、彼は泣く寸前のような顔でフィルに笑い返してきた。
「アレックスに怒られないかな?」
「ええと、社交界へのお披露目は、普通父兄に伴われてするものなのでしょう?」
「随分と遅いデビューだね」
「『病弱』でしたから」
そう答えて舌を出す。
社交界でそんなふうに言われていると以前フェルドリックが言っていた。
それを聞いてフィルは「……へ? びょうじゃくって……びょ、病弱? 私?」と唖然としたが、フェルドリックは皮肉に笑っていた。
社交の場の噂話が実は大嫌いな彼は、ドムスクスのイラー・デン将軍の腕や足をつぶしたのが、『病弱で儚い』フィリシア・フェーナ・ザルアナックだと言いたくて仕方がないらしい。本当にそういうところが子供だ、とアレックスに呆れられていた。
「病弱で、消えそうに儚いザルアナック伯爵令嬢というあれだね。噂って本当に怖いよね」
やはり兄も知っていたらしい。彼はくすりと声を漏らして、今度はきちんと笑った。
こっそり胸を撫で下ろす。憂いを帯びた顔もやはり綺麗だけれど、明るく笑っていてくれるほうがいい。
そうして、兄妹二人で顔を見合わせて笑い合って――。
「じゃあ僕は妹の栄えある一晩を飛び切りのものにしなくてはね。ドレスと宝石と靴と他にもいっぱい贈るよ、一度こういうことをしてみたかったんだ」
「え゛」
兄はいつものように、にこにこしているのに妙に押しの強い性格に戻った。
「おお、それは素敵なお考えです。では、早速仕立屋を呼びましょう。オラール、添花堂はまだ懇意にしているのか?」
「宝飾品も折角なのですから、特注いたしましょうか。ラーナックさま、お見立て、お付き合いくださいな」
「えっ、あ、オ、オットー、ターニャ、そんなに張り切らなくていい、から……」
顔を引きつらせるフィルも何のその、二人は兄とオラールさんに声をかけると、部屋から小走りに出て行ってしまった。
「……え、ええと……なんだっけ? というか、オットー、ターニャ、話、いっぱいしたかったのに……」
ひとりぽつんと部屋に残されて、フィルは眉尻を下げる。
「それに……そうだ、ドレス……」
貴族の夜会なのだから、当たり前といえば当たり前。けれど、その当たり前を忘れるのが自分の頭だった、と今更に思い出して、フィルは蒼褪めた。
(あの忌まわしい代物――機動性に欠け、防御力にも耐久性も難がある上、剣も持てないあれを着て踊ったり、話したり……? しかも宝飾品って、金属臭とじゃらじゃら音のする……)
「……私の馬鹿」
もっと深く考えてから動けばよかった、と泣きたくなった。切ないかな、そこは進歩できていないらしい。