2-10.ヘンリック観察記1
「ヘンリック、ごめん、待たせたか?」
雑踏の向こうから澄んだ声に名を呼ばれ、ヘンリックは視線をあげた。夕刻とあって、通りはかなり賑わっているのに、待ち合わせ相手であるフィル・ディランの所在はすぐに分かった。
なにせすれ違う人たちが、ある人は顔を赤くし、ある人は茫然として、小走りに駆けてくるフィルを振り返るのだ。が、フィルがそれを気に留める様子はない。
(あれだけかっこいいもん、いちいち気にしてられないんだろうな……)
夕陽にあたってキラキラ光るのは、無造作に整えられた濃い金色の髪。長い手足の動きを含め、身のこなしはしなやかで品がある。嫌味なくらい整った顔を鮮烈に彩るのは、ヘンリックがこれまで見たどんな宝石よりも綺麗な森の緑の瞳だ。身を包んでいるのは、濃い青地に白糸の刺繍のある従騎士の制服で、それも嫌味なくらい似合っている。
「ヘンリック?」
側にやってきて横に立たれ、頭半分以上の身長差が浮き彫りになった。引き立て役になる気がして少し寂しいけれど、仕方のないことだ。なんせその辺の舞台役者なんて目じゃないくらい整っているのだから。
その証拠にフィルと出かけると、女の子から声かけられることが明らかに増えるし、お店に入ればおまけはつくし、サービスも段違いに良くなる。フィルがにっこり笑って『ありがとう』と言うだけで、少女から老婦人に至るまでみな満足するのだから、ある意味すごい才能だ。
「どうかしたのか?」
「切ないなあと思って」
「?」
怪訝な顔をしたフィルに苦笑を返し、「行こうか」と声をかけて、ヘンリックは歩き出す。
ああ、また女の子の三人連れがフィルを指さして囁き合っている。
夏の終わりに行われた騎士団の入団試験でフィルを見た時、ヘンリックは呆然とした。強さ、容姿、気高さ……理想の騎士を思い描けと言われたら、こんな形になると思うそのまま。まさにひとめぼれだった。いや、自分にはメアリーがいるので、そういう意味ではないのだが、ぜひお近づきになりたいと憧れたのだ。
だから試験合格後、入寮日にたまたまフィルに会えた時は天にも昇る心地だった。緊張してハイテンションのまま話しかけても嫌な顔一つせずフィルは相手をしてくれたし、その後先輩に絡まれて、フィルが貴族と血縁にあると知って少し引いたヘンリックに対しても、態度を変えなかった。そうと気がつかなかったわけはないのに。
一緒に訓練するようになってからは、まっすぐ何かに挑もうとする姿勢にいつだって勇気付けられている。
「大分日が短くなってきたね」
フィルの声は低めで耳触りがいい。性格は基本的にはその声のように穏やかだ。けれど、こだわるところにはとことんこだわる。
フィルは剣を持つことに誇りと愛着を持っていて、強くあろうといつも顔をあげている。大抵の先輩達だって歯が立たないくらい強いから、少しぐらい得意になったっていいと思うのに、剣は人を殺める道具だと言い、だからこそ使い方を考え、精神も鍛えなくてはならないと言い切る。そこに見え隠れする、騎士に相応しい高潔さと優しさに見惚れて憧れて、『自分もこんな風になりたい』と何度も思った。
実際フィルはいい奴だ。口数が多いわけじゃないけど、フィルが自分で選んでいるとわかる言葉の一つ一つは、ちょっと、いや大分変わっていることも多いけど、それでも温かくてほっとする。
落ち込んでいる奴を意識しているわけではなさそうなのに、上手く引っ張りあげることも珍しくない。それもあってか、ヘンリックたちの同期は例年になく仲がいいし、退団率も際立って低い。もうすぐある、街に出るための試験だって、きっとみなで乗り越えられるに違いない。
(……あれ、多分やったことないんだな)
路地で子供が吹いているシャボン玉を目をまん丸くして見ているフィルに、ヘンリックは小さく笑った。
強くて気が良くて潔くて惚れ惚れする奴ではあるが、同時にフィルは驚くような世間知らずでもあった。あれだけ対立している近衛騎士団を知らなかったことは、その最たるものだろう。
そのせいか奇怪な行動(ひどいけど事実……ごめんって)もしょっちゅうで、時々呆然とする羽目になる。鐘楼の屋根に、しかも外壁伝いにのぼって、挙げ句落ちそうになったとか、その動機があの嫌味で怖いスワットソンをアレックスと仲良しにするためとか、本気で意味不明だ。
「あれ、シャボン玉。次の休み、作って一緒にやってみる?」
「っ、ぜひ!」
そう声を掛ければ、フィルは顔をぱあっと輝かせて頷いた。顔に「やった!」と書いてあるのが見て取れて可愛らしい。
さらにもう一つ、フィルについてヘンリックが知っていることは、その“可愛い”に関連していなくもないこと――即ち、フィル・ディランは多分女の子ということだ。
今のところそれに気付いているのは、多分ヘンリックともう一人だけ。見た目も言動も騎士の誰よりかっこよく紳士で、しかも新人らしからぬ強さまで兼ね備えているから、他の誰もフィルが実は女の子だなんて想像できないのだろう。
いや、女性というべきか。いや、微妙か。同い歳だからもうすぐ17で、“子”ではないはずだけど、一つ下のメアリーと比べても、女性というにはまったく色香がない気がするし……うん、失礼だよね、常識的には。けど、フィルにその常識が通じるのかという疑問があるんだ。色気がある/ないとか言っても、変なものを見る目を向けられて終わりな気がする。
それでも時々ドキッとさせられるのは事実だ。剣を持った時の周囲を威圧するような空気と普段の間の抜けた言動。黙っている時の彫像のように整った顔とふと笑った時のあどけない顔。そんなギャップはなんだか男心をくすぐるものがあるように思う。
誤解のないように誓って言うが、ヘンリックはメアリー命だ。そんなヘンリックでもそうなのだから、フィルに近しい他の人も、きっと同じように感じていると思う。カイトとか本人は自分で認めないようにしているようだけど、あれはもう結構やられている。
だから、最初は誰かに襲われてしまうんじゃないかとはらはらした。女の子だとばれてなくても、男でもかまわないって人は騎士団にもいるわけで。
事実、入団してしばらくの間、訓練に名を借りて、フィルに邪な企てを試みる連中がいた。彼らはその“訓練”で本人に容赦なく叩きのめされ、その後は完全に彼女に怯えている。
一人はヘンリックの目の前で肋骨を折られ、その後アレックスからも報復を受けたらしい。ちなみにフィルが二本、その後アレックスが二本、計四本の肋骨が駄目になったそうだ。それに加えて第一小隊、あのおそろしく濃い面々が彼を取り囲んで“説得”したらしく、その人はどこかの国境警備隊に転属希望を出したようだ。
一方で、自分の鬱屈を晴らすために彼女に絡むスワットソンのような連中もいた。だが、フィルは彼らに対しては普通で、同期たちにするように加減して稽古に付き合い、親切にアドバイスをし、彼らがくれるアドバイスを真摯に受け止める。
その差は何か?
フィルをじっと観察(……珍獣みたい、ごめんね、フィル。でも事じ……ごめんって)して、出した結論は『身体への害意がある相手を無意識に回避している』。
つまり圧倒的に不足する常識――普通なら、「この人は自分に気があるから気をつけなくては」などと思うところだ――は、剣士としての直感、つまり殺気(邪なものを含む)の検知で補われ、危険を回避しているわけだ。
だからフィルは身体的な害のない嫌味にはまったく反応しないし、逆にいくら好意的な態度をとられても、下心のある相手からは距離をとる。フィルが僕と2人で遊びに出かけても、カイトとは行かない理由もこの辺なのだろう。
……敢えて言おう、やっぱり動物っぽいよ、フィル。
「アレクサンダーさま、じゃなくて、アレックスは今日どうするって?」
「オッズと飲みに行くって」
(いつも一緒だよねってほのめかしてみたんだけど、反応なし、と。いや、むしろ当たり前って感じ?)
人にぶつかられそうになる度に音もなくかわし、涼しい顔で歩いていくフィルの横顔を見てみるけれど、特に変わったところはない。
もう一つ、フィルの身の安全が保障されている理由として挙げられるのが、今話題にしたアレクサンダー・エル・フォルデリーク“さま”だ。めちゃくちゃ嬉しいことに、本人はアレックスでいいと言ってくれるが、ヘンリックの心の中では未だ“さま”付けのまま。
無駄も隙も一切ない、鍛え上げられた身体は、男らしいけれど厳ついわけでは決してなく、神々しいまでに完璧。冷たく見えるほどの鋭利な気配と、フィルに勝るとも劣らない強さ。意識している訳ではなさそうなのに滲み出る男の色気と、穏やかなのに包容力のある気性。学術面でも完璧らしく、知識も思考力も専門の講師陣が舌を巻くほどらしい。しかも、机上の学問だけではなく、既に将校としてかなりの戦功を挙げている若手騎士きっての出世頭。
そんな彼は大貴族の息子という身の上や、見た目の冷たさとは裏腹に、とても親切だった。優しくて、一緒に食事をする時などはヘンリックにもさりげなく気を遣ってくれる。
ヘンリックの今の憧れはそんな彼だ。だって同性なのに見惚れるぐらい格好いい! 同性なのに惚れてしまいそうなくらい性格がいい! 同性なのに思わず目を奪われるくらい色っぽい!
そんな完璧に見える彼に弱点があるとすれば、相方であるフィルだろう。
正確にはいつからか知らない。けど、ヘンリックが気づいた時には、彼の目ははっきりとフィルを追っていた。そもそもヘンリックがフィルは女の子だと気付いたきっかけが、彼だったのだから。
しょっちゅうトラブルに巻き込まれるフィルに、彼はかなりの迷惑をかけられているのに、それすら苦笑と共に受け入れて……というのは言葉の綾で、絶句したり真っ青になったりしつつ、フォローに回っている。
それだけじゃない。フィルと目が合う度に、普段の怜悧な表情が嘘のように目元を柔らかく緩め、話しながら愛しくて仕方がないという風に微笑み、彼女が彼を見ていない時は、恋焦がれているとはっきりわかる目線を送っている。
ちなみに、アレックスが彼女に触れるのは子供にするように頭を撫でる時くらいで、そういう感じで彼女に触れている場面を見たことはない。でも距離を保ったまま為されるふとした仕草が、この世で一番繊細で触れることすら許されない大事な存在に対しているようで、傍で見ているだけのヘンリックまで思わず切なくなる。
だからだろう、彼はフィルに害をなす気配のある者に対しては、知り合う前の冷厳なイメージそのものになる。あの殺気とも言うべき圧倒的な気配を前にすれば、剣を志す者であれば誰しも身の危険を感じるはずだ。カイトとかフィルと話をしている時にアレックスが視界に入ると、無意識に緊張してガチガチになっているし。
ちなみに彼の視線は最初ヘンリックにも厳しかったが、一緒に話すうちに、フィルにとって無害だと伝わったようだ。……メアリー命とは言っても、男としてはまずいんじゃないかと、ちょっと思わなくもないのが複雑なところだけど。
そう、アレックスはフィルを本当に好きなのだと思う。そして本当にフィルが大切だから実行しないだけで、その年の男が好きな相手に望む自然な欲求も、多分ヘンリックと同じように持っている。
それでも彼に対する警戒はフィルにはなさそうだし、それどころか彼を見かける度にそりゃあ嬉しそうに、急いで彼に駆け寄っていく。それがどれだけ遠かろうとも、だ。
ヘンリックはそれを見る度に、フィルに尻尾が付いていないことが不思議になる。まるで犬……やっぱり動物っぽいよ、フィル。
(つまり彼女もアレックスを好いているってことだよなあ。まあ、まず間違いなく自覚はないんだろうけど)
ヘンリックは夕日に照らされた親友の横顔を掠めみる。
「あ、こっちに向かって手を振っているあの子?」
そんなフィルを今からメアリーに紹介しに行く。街でアレックスに並んですごい噂になり出したフィルが、同期で親友だと自慢したら、紹介して欲しいと頼まれて、断りきれずに。だってメアリーの笑顔には逆らえない。
ぜんっぜん相手にされてないってことだし、もちろん複雑ではあるけれど、あの完璧に見えるアレックスですらフィルに苦労していると考えれば、同情と同時に勇気も湧いてくる。
目の前で「はじめまして」と落ち着いた声で挨拶し、にこりと微笑んだフィルに、メアリーが顔を真っ赤にするのを苦笑して眺めた。
(あー、やっぱり女の子だとはわからないか……。まあね、背だってその辺の男の人よりずっと高いし、かっこいいもんね。しかも仕草がまた……)
「お話はよくお伺いしております。お会い出来て光栄です、メアリー・ギャリド嬢」
「!!」
(男の人なんだよな)
フィルは当たり前のようにメアリーの手をとって、その甲に口付けた。フィルが女の子だって知ってなかったら、ぶっ飛ばしてやるところだけど、それより何より……フィル、君は何だってそんな風なんだ……?
「あああ、あの、はじめまして」
動揺しながらそう返しているメアリーに、ふと意地悪をして見たい衝動が生まれた。だって、ちょっとひどくない? 明らかにフィルに目がハートになってる。
「っ!!」
だから、その紅潮した頬にキスをして、その赤みを全身に広げてみた。
(……いいね、親友。『頑張れ』って言ってくれてるの、ちゃんと伝わったよ)
目を点にしたフィルが、一瞬の後、目を合わせてにっと笑ってくれて、ヘンリックも同じ顔を返した。
「さて、3人で一緒にご飯でも食べに行こうか」
応援に促されて、ヘンリックはメアリーの小さな手を子供の頃のように握って一緒に歩き出した。
(いい加減、恋人未満兼幼馴染を脱出しないと)
自分よりさらに下にあるメアリーに視線を向ければ、心外と言えば心外、予想通りと言えば予想通り、安心と信頼の混ざった笑顔が返ってきた。
もちろんかわいいけれど、警戒も照れも見事にゼロで、複雑な気分になる。
(……けど、いつまでも前と同じだと思わないでね、メアリー)
僕だって色々影響を受けて大人になっていっている――まずはそこから知ってもらおう。




