17-1.疑念
「誕生祝いの夜会? ロンデール公爵家? の嫡男……」
(って、確かロンデール副近衛団長だよな……)
なぜここでまたその名前を聞くことになっているのだろう。
因縁めいたものを感じてフィルは顔をしかめた。
「はい、そう仰っていました。その……本当に申し訳ありません」
南国を思わせる植物とスパイシーな香りに満ちた店内で、頭を下げているこの女性は、フィルの実家と言うか、元実家と言うべきか、とにかくザルアナック伯爵邸に勤める人で、エリーと言う。
今日の勤務を終えて事務の人から面会を求める人が来ていると告げられた際、咄嗟に誰のことかわからなかった。首をひねりつつ、とりあえず宿舎の来客用の間に行き、落ち着かなげにソファに腰掛けているその人を見て、ようやく思い出したのだ。斎姫襲撃の時、ザルアナックの邸内にいた住み込みの侍女の一人だ、と。
現れたフィルを見て、胸元で両手を握り締めていた彼女はさらに緊張を増したようだった。しどろもどろになってしまって、まったく話の要領を得ない。
どうやら込み入った話のようだと判断したフィルは、彼女の話を聞きがてら夕飯を外で食べることにし、雑多な雰囲気だが美味しいと評判の南国料理の店へと足を運んだ。
ここなら少々人に聞かれたくない話でも、喧騒に紛れてしまえる。気取ったところのない雰囲気は、彼女の緊張をとるにもきっといいだろうと考えたのに、フィルと向かい合って席についた後、彼女はさらに萎縮し出した。
「あなたが私を訪ねてきたのはその件。でも父に言われたからではなく、兄の用事でもない……」
「すみませんっ」
「なら、父も兄もあなたが今私に会っていることを知らない?」
「ご、ごめんなさい」
「あ、いえ、責めているわけではないです」
「本当にすみません……」
「え? い、いや、本当に責めてないですってば」
テーブルに額をこすりつけるようにして、ひたすら謝罪を繰り返す彼女にフィルは戸惑う。
運ばれてきて久しい彼女の分の料理は、手を付けられる様子がないまま、既に湯気を失っていた。
「本当に怒っていませんし、誰かに言いつけたりもしませんよ。むしろ会いにきてくださって嬉しいです。せっかくですから、温かいうちにお食事もどうぞ」
困ってしまったので、とりあえず微笑みかけてみた。
「っ、……はっ、ご、ごめんなさい」
これはこれで失敗したらしい。口を開けて真っ赤になった後、結局また顔を伏せた彼女に、フィルは眉尻を下げた。やっぱり世の中は難しい。
不意に彼女が沈み込んだ。
目の前に置かれた水滴の滴るグラスにおずおずと手を伸ばし、一口だけ水を口に含む。そして眉根を悲しそうに寄せて口を開いた。
「私のしようとしていることは、多分差し出がましいことなんです」
「?」
「伯爵さまもラーナックさまもお嬢さまに知らせまいとしていらっしゃることを……」
そう呟いてエリーさんは語尾を途切れさせた。
すすけた感じのする栗色の髪と、寂しそうに笑っていた印象とで、三十前後かと思っていた彼女は、間近で会ってみるとフィルより少し年上なだけではないかと思う。穏やかで優しい顔立ちをしている。
「私……数年前赤ん坊を抱えて行き倒れていた時に、伯爵さまに拾っていただいたのです。私と娘に行くあてがないと知った伯爵さまは、そのままお邸に私たちを置いて下さって……だから私たち、伯爵さまには返しきれないほどのご恩があります」
(……驚いた。兄ならともかく、あの人が困っている人を助けるなんて……)
ポツポツと語り始めたエリーの話にフィルは目を丸くした。フィルのイメージでは、「自分の力で生きられないなら、恥をさらす前に首を吊れ」ぐらい言っても不思議はない人だ。
赤の他人の乳飲み子に手を差し伸べたという話に少しだけ痛みが走った気がしたが、それには気付かないふりをした。
「だからご迷惑を承知で、お嬢さまにお願いを……」
――そして冒頭に戻る。
「ええと、エリーさん、私がロンデール公爵家の誕生祝賀会に出ることが、なぜ父と兄のためになるのか、私にはさっぱりわからないのだけれど……」
父はフィルを勘当した上で、家名を名乗るなと念を押したほどだ。貴族同士のそんな付き合いにフィルが出ることを喜ぶはずがないと思う。
さすがに困惑を隠しきれず、フィルはフルーツが添えられた魚料理のために動かしていた手を止めて、目の前の彼女を見つめた。
(私が勘当されていると知らないとか……?)
そう思ったところでそうかもしれない、とフィルは自嘲を込めて暗く笑った。
そんな外聞の悪い話を父自らわざわざ吹聴することはない。きっと兄あたりが気を使って、騎士をしてる関係で、とか適当に濁して説明してくれているのだろう。
「わ、私もよくはわからないのですが、最近伯爵さまはひどく忙しいご様子で、その上塞ぎ込んでいらして……そんな中、私、聞いてしまったのです。ここ一年ほどよくおいでになっていたロンデール公爵さまの使いの方がまたお邸にいらして、ラーナックさまの御身を思えば、お嬢さまをアンドリューさまの誕生祝いに出席させるぐらい訳はないはずだ、と仰っているのを」
「兄さまの? 身?」
穏やかでない響きに、フィルは強く眉間を寄せた。兄に何かが起こっているのだろうか?
「あまりに物々しいでしょう? だから、私、差し出がましいと思いつつも、騎士団に連絡いたしましょうか、と申し上げたんです。そしたら、伯爵さまは見たこともないほど怖いお顔をなさって……」
フィルがいつも恐ろしいと感じる、父のあの顔だ。同じ顔を思い出してか、彼女はさらに身を縮めた。
「本当に申し訳ないのですが、私、それだけしか知らないんです。でも伯爵さまはどんどん痩せていかれるし、ラーナックさまのご様子もなんだか……。それでいてもたってもいられなくなって……」
しきりに「ごめんなさい」を繰り返すエリーに、フィルは父との関係を考える時に付き物の苦味を押し隠すと、「大丈夫、悪いようにはしませんから」とにこりと笑ってみせた。
エリーを送ってザルアナック邸のごく近くまで行き、フィルは周囲、そして父に見咎められないよう、遠くから彼女が裏口に入るのを見届けた。
それから宿舎に帰るべく、王都中心近くの繁華街を歩いている。
「ロンデール家、ね」
(そうか、ザルアナック家とロンデール家には交流があったのか……。よく使者がくるって、仲がいい? いや、でもエリーさんの話だとどちらかといえば不穏な感じもする……)
前方から吹いてきた秋の終わりの冷たい風が、考え込みながら歩くフィルの金の髪を白い額から浮き上がらせた。
考えてみれば、私は貴族の間の事柄を何も知らないな、とフィルは片目を眇めた。
そう言えば、ザルアック伯爵家はアレックスの実家のフォルデリーク家とも交流が深いんだった、とふと思い出す。
フィルの祖父の親友だったヴァルことヴァルアスさんが、アレックスの祖父にあたると言う。その彼は早くに亡くなり、確か祖父はアドリオット爺さまと一緒に彼の双子の子供の後見人のような役割をしたと言っていた。
それで双子のうちの息子と父は仲が良くなったという話で、娘の方はアドリオット爺さまの息子と結婚した、と……。
「あ」
つまり、アレックスは現国王陛下の義理の甥だ。フェルドリックの従弟で、フェルドリックが王子なんだから、当然といえば当然だけど、王さまの、義理とはいえ甥。王妃さまの甥。
「いいところの貴族どころの話じゃないじゃないか……」
なぜだろう、フェルドリックの従弟と言われても『性格黒いのが似てたら……』と怯えるぐらいだったのに、国王の甥とか言われると、とたんに雲の上の人だったんだという気がしてくる。
「い、今更そんなことに気がつくなんて……」
街灯と店からの光に明るく照らされた繁華街の道の真ん中で立ち止まって、フィルは呻き声を上げた。
疑問に感じることがあれば、その理由を考えるようにしろと、必要な情報は何気ない日常の中にも隠れていると、アレックスは言っていた。
真実だ――なぜアレックスがあれほど遠巻きにされていたか、なぜ一介の騎士に不釣合いなほどの情報やら伝手やらを持っているのか、考えればすぐ行き着いた答えなのに。
「自業自得、か……」
解決すべき問題が出てきても糸口すら掴めない。情報がないどころか、最低限の知識もなく、これまでそれについて問題だと思ったことすら無かったのだから。
フィルは大きく溜め息をついた。そこかしこに掲げられた灯火に照らされ、足元の石畳には自分の影が四方に薄くのびている。その不明瞭さが今の自分に重なって見えて、小さく首を振った。
(愚痴ってないで整理しよう。今、手元にある情報は……まずロンデール副団長の誕生会)
誕生会なんて子供のためのものだと思っていたが、貴族の世界では違うのだろうか。一体そこで何をするのだろう。
「あとは……兄さまの身を思えば? つまり兄さまの安全に関わるってこと……?」
暗殺の脅しだろうか? でも家名を名乗った者がそんな堂々と脅迫するだろうか? しかも父だってそれなりに有力な貴族のはずだ。
「その二つと私に何の関係が……?」
――さっぱりわからない。
自問してみても、結局答えは得られなくて、フィルは情けなさのあまり肩を落とした。
(ロンデール副団長は、私がザルアナックの出身だと知っている……)
彼は父の公爵にそのことを話しただろうか? だとすれば、父や兄にさらなる負担となっているかもしれない。
『出て行け』『以後名乗るな』
勘当を言い渡された時の父の顔と言葉を思い出してフィルは蒼褪め――ふとロンデール副団長が自分に見せていた瞳を思い出した。
「……違う、な」
あの人は約束を守る人だという気がする。その勘が正しいのだとすれば、約束通り誰にも話していないだろう。
(じゃあ、公爵が私に、というより、フィリシア・フェーナ・ザルアナックに用事がある……会ったこともない人が何の用なんだろう?)
「わからない……」
またも行き詰ってしまった事に気付き、再びフィルは深く落ち込んだ。
通り過ぎ行く男の二人連れがフィルを指差し、「ディランだ」と囁いている。それに手を振って曖昧に返すと、フィルはとぼとぼと歩き出した。
このままじゃ埒が明かない、とフィルは口角を下げる。
「誰かに助けを仰ぐとして……」
(父――は無理)
顔を思い浮かべた瞬間に却下する。
エリーさんのことを内緒にしておくとしても、あの人と対面する勇気もないし、彼がフィルに教えたがっていないというのなら、訊いたところで教えてくれるわけがない。同じ理由で兄も教えてくれないだろう。
(アレックスは……)
聞きやすい……事がロンデールに関わるのでなければ。
それでも訊けば多分答えてくれるから、答えは得られる。フィルがそれまでに凍え死にしなければ、の話だが。
「怒るかなあ、やっぱり」
隙間のない石畳でできた路面を見ながらフィルは独り言を呟く。
自分の対応のまずさも原因だったと思うが、アレックスはロンデール副団長を好いていないし、自分が彼に関わることを快く思っていないと思う。聞くのは論外、それどころかこの話自体、出来れば知られないで済ませてしまいたい。
「お母さん、フィルが変」
「放っておいておやり。時々ああなるんだよ、あの子。下手の考え休むに似たりっていうのにねえ」
という親子の会話が通りに響いている。
「……いや待て。似たような話があったはずだ」
あれはヘンリックとメアリーと家具屋の馬鹿息子。馬鹿と言うのは悪いけれど、事実だからこの際まあいい。メアリーが家具屋の息子に迫られているのを黙っていたせいで、あの2人の仲は余計こじれた。つまり……、
「正直に話したほうがいい、いや、まだましってことだ……」
外気を軽く凌駕するだろう冷気を連想して、フィルは制服の襟をかき寄せた。
他に私と実家の関係を知っている人は、と思った瞬間に、フェルドリックが思い浮かんだが、脳裏に現れた彼の笑顔があまりに邪悪だったので、一瞬で消去した。
彼を頼るのと悪魔に魂を売るのなら、間違いなく後者を選ぶ。そのほうが絶対に被害が少ない。
あとは、ロンデール副近衛団長本人だ。
「連絡、どうやってとればいいんだろう……?」
そもそも最近避けられているようだし、とフィルは首を傾げた。だから剣技大会の後の話で、もうけりがついたんだと思っていたのに……。
宿舎へと戻るフィルの足取りは重い。
そんなフィルの真横を、幌馬車が街路の落ち葉を巻き上げて通り過ぎて行った。
* * *
「……あれ? まだ帰ってない?」
暗い室内に足を踏み入れて、フィルは首を傾げた。
さっき第二十小隊の部屋に寄ったら、ロデルセンがアレックスなら今日はもう帰ったと言っていたのに、と不思議に思いながら、ランプに明かりを灯す。
フィルは上着を脱ぐと、ベッドにごろんと横になった。
『おいで、僕がフィルの兄さまだよ』
フィルが最初に覚えている兄ラーナックの姿は、多分彼が十歳くらいのものだ。
見たこともない鮮やかな紫の瞳、光のようにみえる金色の髪、日焼けなど全く関係なさそうなどこまでも白い肌――絵本の世界から抜け出てきたとしか思えなかった。
その綺麗な人が優しく笑いかけて両腕を広げてくれて、嬉しくなって抱きついたら、彼はごく自然にぎゅっと抱きしめ返してくれた。
兄という言葉の意味も知らなかったくせに、当たり前というその感じも温かさも祖父母のものとそっくり同じで、それでフィルは彼が大好きになったのだった。
兄が療養に来ている間は始終彼に付きまとい、療養を終えて帰る時にはいつも半泣きになっていた気がする。
枕を抱えてころっと壁を向いたフィルは、ドアの開く音に再び半転してベッドの上に身を起こした。
「ただいま、フィル」
部屋に入ってきて目の端を緩めたアレックスを見て、「そうか」と呟く。
「あれって初恋だったんだ」
兄が来ると聞くとドキドキして寝られなくて、いつでも一緒にいたくて、笑いかけてくれると幸せで、別れが悲しくて……。
「――誰が誰の初恋だって?」
「兄さまが私の」
フィルは落としていた視線を再びアレックスに当てて固まった。
(あ、あああ、冷気が……本題に入ってすらいないのに……)
彼は笑っているのに笑っていない。
そんなに氷漬けになりたいのか、私……?と自分に突っ込まずにはいられない。
何が原因かわからないなりにあれこれ必死で説明して、何がどうなっているのかわからないなりにアレックスの機嫌が直って、最初の危機をなんとか脱出した後――。
「ラーナックさんの身……?」
窓際のテーブルでフィルが入れた茶を前に、アレックスは怪訝な顔を見せた。
アレックスでも咄嗟に察せないことなんだ、とフィルは小さく眉をひそめる。
「あの、ロンデ……いや、その誕生祝賀会とやらに、ちょっと、本当にちょっとだけ顔を出す、というのはあり、でしょうか……?」
ロンデールと連呼するのを避けつつ、フィルは自分なりの考えを口にしてみた。
もちろんフィル個人は、そんなものに出席したいと欠片も思わない。けれど出席すれば、何かを聞き出せるかもしれない。それにロンデール公爵の口ぶりを考えるなら、最悪フィルが行けば兄の身に何かが起きることは防げるのではないか――。
アレックスの様子を慎重に伺いながら、フィルはカップに手を伸ばした。
ロンデールの名を出した瞬間からアレックスはずっと無表情だ。とりあえず凍ってはいないが、宝石より遥かに美しい青い瞳を包む切れ長の目は、何かを考え込むように手元に注がれたまま。
黒い真っ直ぐな髪が、ふとした拍子にその瞳を隠してしまって、フィルは得体の知れない焦りを覚えた。
「わかった」
そんなフィルを一瞥することも無く、アレックスは一言だけ言って立ち上がった。
「え」
「少し出てくる。帰らないかもしれないから、気にしないで寝ておいてくれ」
長い腕がフィルへと伸びてきて、顎に指がかかった。そこを持ち上げられて、軽く口付けが落とされる。
そうしてアレックスは迷いのない足取りで扉を開くと、振り返りもせずに部屋から出て行った。
「……」
フィルはその背を呆然と見送る。
怒っている様子はなかった。なのに、なぜか不安になってしまった。