2.その後
東部料理を酒の肴に出す、若者向けの酒場の片隅で、フィルはその店の名物の強烈な酒をちびちびと舐める。目の前ではヘンリックが、同じ酒を給仕から受け取っていた。
店内はお世辞にも品がいいとは言えない冗談と会話で賑わっていて、周囲に気を配る必要がないのがありがたい。
喧騒とは対照的な落ち着いた照明が、使い込まれた色合いのテーブルの木目を薄く浮かび上がらせている。
「で? いつもなら『私もそう思う』って頷いて終わりなのに、今日はどうしたのさ?」
香辛料で真っ赤になった揚げ鳥を口にして顔をしかめたヘンリックに前置きなしに訊かれ、フィルは口を尖らせた。
「愚痴になるから言いたくない。情けない話になること間違いなしだし」
「そんなん俺、いつもだけど」
(……それはそうかも)
「今、それはそうだ、って思っただろう」
同じように口を尖らせたヘンリックに言い当てられて、フィルは思わず吹き出した。
ミレイヌの『こいつは女じゃない』発言に凹んだことを見抜いていたことといい、そのことに怒ってくれたことといい、さすが親友と言うしかない。
(本当にいい奴だよなあ)
飲み込むのも億劫で舌の上で転がしていた酒の香りが、不意に心地良いものに変わった気がした。
「……シャロン・ナ・トルタ嬢。ヘンリックたちがこの前まで護衛していた」
頬杖をついて、顔を窓の外の通りに向けつつ、フィルは呟いた。ヘンリックの目が泳ぐのを横目に捕らえる。
「……一応言っとくけど、アレックスは何もしてないよ」
あー、やっぱり仕事の最中から傍目にわかるような感じだったんだ、と思わず納得する。
「そりゃあ、仕事だからシャロン嬢と話ぐらいはしてたけど」と焦ったように続けるヘンリックに、フィルは「うん」と頷いた。
護衛無しでは出歩けないカザレナでも有数の資産家の令嬢は、今回非常に手の入り組んだ脅迫を受けたと言う。
そこで、ヘンリックが所属する第三小隊が彼女の護衛をし、その間にアレックスら第二十小隊が犯人を割り出して、めでたく捕えたらしいのだが……。
「その彼女が昨日騎士団にお礼に来ていたのを――というよりアレックスにお礼を言っている場面を、運悪く通りかかって目撃してしまったわけ」
「な、なんかあったの……?」
顔を思いっきり引きつらせ、我が事のように動揺してくれるヘンリックは愛い奴だ。
フィルは「なんにも」と呻くように呟いて、テーブルに両肘を突くと、両手の上に顎を乗せた。
「たださー、めっちゃくちゃ可愛かった」
と眉尻を下げて続ける。
「小さくて、華奢で、ものすごく可憐で、良い匂いがしそうにふわふわした感じがして、これは絶対守ってあげなきゃ!って思っちゃう感じ」
「……フィルって本当、時々男の子入ってるよね」
苦笑したヘンリックに、「だって庇護欲そそられるんだ」とフィルはごちる。
「そんな娘が、うるうるした目と赤い頬で、アレックスを目一杯見上げて、一生懸命話しかけてたんだ。あー、すっごくアレックスのこと好きなんだなあって傍目にわかる感じで」
「……フィル、『私より彼女の方がお似合いだから、身を引きます』なんて馬鹿なセリフ言ったら、酒、頭からぶっ掛けるぞ」
「言わないよ」
声音を低くしたヘンリックに、フィルは顔をあげ、口をへの字に曲げた。
そして、顔を歪ませて再び口を開いた。「その娘ね、私に気がついたんだ、その後」と。
「いっそ睨んでくれたり、優越感に浸って笑ってくれたりしたらよかったのに、その娘、泣きそうな顔で俯いちゃって……」
「あー……」
外見だけじゃなくて、きっと性格の良い娘なんだろうと思った。
それで、自分がアレックスの隣に居ることに疑問を持ってしまった。
なんで彼女じゃなくて私なんだろう? その可愛らしい子に比べて自分なんかのどこがいいんだ、そう思ってしまった。
「それがまた可愛くて可愛くて。アレックスも心配して顔を覗き込んでた」
「べ、つに、アレックスはそういう意味でしたんじゃ……」
もごもごと困ったようにフォローするヘンリックに、「多分そうだと私も思う」とフィルは苦く笑った。
「アレックスを責めてるんじゃないんだ」
フィルは我ながらの情けなさに眉根を寄せた。
「彼を疑ってるわけでもないし、あの娘を責めてるわけでもなくて、なんていうか……私自身の問題なんだと思う。こんなふうでいいのかって思っちゃうんだ」
フィルには彼女のような可愛らしさはない。それどころかミレイヌが言うように、女性らしさだって怪しい。そのせいで親に勘当されたぐらいだし、その辺は嫌というほど自覚がある。
剣を持ったことも、持ち続けることも自分で決めたことだから、結果としてこうなったことを後悔はしていないけれど、ふと自分を他人と比べて、劣等感を持ってしまうことはある。
比べること自体が誤りなのだと知っているのに、比べてしまう。不毛だと知っているはずなのに。
疑っているのはアレックスじゃなくて、むしろ自分なのだ。
あまりにも彼が好きで、本当にこんな自分でいいのか、と思ってしまう。彼に大事にされればされるほど、私は彼に、彼のこの好意にちゃんと相応しいのか、もっと相応しい人がいるんじゃないか、とふと考えてしまう。例えば、あの彼女なら、心配しながら彼の帰りを待つことはあっても、先日の私のような形で彼を心配させることもないだろう、そのほうが彼は幸せなんじゃないか、とか。
もちろん彼の意思を無視して、私が彼の幸せを勝手に量るのは、違うともう知っている。
(だから問題はアレックスじゃない、あの子じゃない――自分の劣等感に踊らされて、勝手に怯える私自身だ)
フィルは、なんてカッコ悪い、と顔を苦々しく歪める。
「愚痴だろ、完全無欠に」
ため息と共に、フィルはついた両肘の間に顔を落とした。
「開き直るなよ」
「ヘンリックが喋らせたんだ」
「俺のせいにする気か」
「でなきゃ、こんな情けない話、絶対しない」
自棄気味にフィルがグラスの酒を一気に呷れば、ヘンリックも同様にグラスを空けた。
そして、彼は空になった手元のグラスを見つめたまま、しみじみと口を開いた。
「想いが通じて、大事な人が手に入って、それでめでたしめでたし、じゃないんだよなあ。物語なんかはそこで終わっちゃうけど」
グラスの内に付着していたアルコールが蒸発していっているのだろう、手元の透明なガラスがひんやりしてきた。
「その人がいてくれて自信がついたり、逆に失ったり。その人のために強くなったり、弱くなったり。無敵な気分になったり、不安で死にそうになったり」
ヘンリックはヘンリックで何か思い当たることがあるのだろう、ひどく大人びた苦笑を零した。
「結局、相手だけじゃなくて、自分とも向き合い続けることになるんだと思う。その人に相応しくあるために、その人を幸せにするために、その人と一緒に笑っていられるようにするために、相手だけじゃなくて自分自身を見つめて、努力を重ねていく……」
(ああ、本当にその通りだ……)
フィルは薄明かりの下で、窓の外へと視線を向けた親友を見つめた。
『俺もフィルに追いつくように努力し続けないと』
その顔に、今年の剣技大会の後のアレックスの顔が重なった。
(想いが通じてそれで終わりじゃない。その後も努力は必要なんだ。相手との関係をよくする努力はもちろん、自分をよくする努力も――)
そうやって、みんな大事な人と一緒に必死に生きて行くのだろう。
給仕が新たなグラスを運んでくる。
店の中でただ一画、沈黙の降りたフィルたちのテーブルは、周囲の喧騒から薄幕で隔絶されているような不思議な感じがした。
こちらを慮ってくれているのだろう、給仕が静かに空いたグラスを下げていく中、フィルとヘンリックは黙ったまま外の通りを眺めていた。
「中々大変だよね」
「だね」
それからどちらからともなく目を合わせて、微かに笑い合った。
「でもヘンリックは総じて強くなったし、格好良くなったと思う」
「まあ、当然だけどね。僕とメアリーの愛は偉大だから」
「……」
この辺はまったく変わってない、とフィルは呆れと共に親友を見て、舌を出す。
「私より背はまだ低いけど」
「うるっさい、ちょっとじゃないか、それもそのうち追いつく」
「『追い越す』じゃないところが謙虚な上に現実的だ」
ヘンリックが「やな奴だなー」とケタケタ笑い、それにつられてフィルも笑った。
テーブルにおかれた二杯目の酒に手を伸ばし、意味もなく、互いのグラスを突き合わせる。
新たな客の来店で開いた戸から、身を震わせるような冷気を含んだ風が店内に入り込み、フィルの頬を撫でた。
そろそろ秋が終わろうとしている。
* * *
翌朝の食堂で、二日酔いを抱えたヘンリックをフィルが笑っているところに、ミレイヌがやってきた。
「お前もフィルのこと好きなのか?」
「「はあ?」」
開口一番、欠片の邪気も無く、不思議そうに呟いた彼に、フィルとヘンリックは声をそろえる。
「フィルは全然女っぽくないし、可愛くもないのになんでこんなに……本当、不思議だ」
彼は人の話を聞かないだけではないらしい。『何言ってるんだ、こいつ』というフィルたちの反応も無視して勝手に不思議がる彼に、フィルは顔を引きつらせる。
「ミレイヌ?」
「っ」
アレックスだ――すぐ背後から響いた低い声に、今のミレイヌの言葉を彼に聞かれたことを悟って、フィルは固まった。
女らしくなく、可愛くもない――事実だし、自覚もある。そもそも自分で選んだことだ。
(ああ、でも一番聞かれたくない人なのに……)
フィルは口角を下げる。
「そういえば、入団してきたんだったか」
アレックスは特に語調を変えることなく、食事のトレーをおいてフィルの隣に座った。
彼が内心で先ほどのミレイヌの言葉をどう思っているのか――怖くてその表情を確認することができない。
「お前、そのセリフ、この先一度でも言ったら、立てなくなるくらいまでぶっ飛ばしてやる」
目の前ではヘンリックが二日酔いの青白い顔で、ミレイヌに小声で凄んでくれている。
その彼との昨夜のやり取りを思い出して、フィルはなんとか顔を上げた。
(そうだ、私にはミレイヌや皆の言うとおりいわゆる可愛らしさはない。でも、だからといって卑屈になるのは違う。それでアレックスを困惑させるのはもっと違う。大丈夫、きっと私には他の良いところがある……はず。……な、なきゃないで、今から作る……!)
「えーと、朝の内にって言ってた仕事、片付いたんですか?」
精一杯平静を装ったつもりでアレックスに話しかけたけれど、声は裏返っていた。情けなさと恥ずかしさで涙目になる。
そんなフィルに、アレックスは微かに眉を跳ね上げた。ちらりとミレイヌを見る。
「ようやく。で、今日はこれから入団式だ」
それから心底うんざりしたように答えて、肩を竦めた。
「……」
そのまま彼は、その青い瞳でじぃっとフィルを見つめてきた。
「な、なんでしょう?」
何かを見通そうとするかのような強い視線が、今は少し居心地が悪い。頬が知らず上気していく。
「いや」
目の端を緩ませて微笑んでくれる顔は好き――でも視線の感じが、なんと形容したらいいのか、人前では絶対にやめて欲しい! という類のもので……。
(……駄目だ、限界)
恥ずかしさに耐え切れなくなって彼から顔を背ければ、その先でミレイヌがフィルに負けないくらい赤い顔で呆けたようにこっちを見ていた。余計居たたまれなくなる。
アレックスは意地の悪い笑みを浮かべて、そのミレイヌへと目を向けた後、フィルへと再び目線を戻した。
「え」
テーブルの下で隣り合う手を取られ、軽く引き寄せられる。
耳のごく近くに唇が寄せられて、いきなり色濃くなった彼の香りと、耳朶を撫でる呼吸の感触に心臓が跳ね上がった。
アレックスは動揺するフィルに気を払ってくれないらしい。鼓膜に直接低い声が届く。
「そんな顔するのは俺の前だけで十分――小猿の戯言を真に受けるなよ」
「っ」
顔を離した彼に意味深に流し見られながら、頭をポンと叩かれて、真っ赤になったままフィルは硬直する。
「一瞬でバレちゃったね」
ヘンリックがフィルに苦笑を向けた。
彼はそれから、「猿って、しかも小猿って、さすがにひどくないか……」と肩を落とすミレイヌへと、「ほんとのことじゃん」と舌を出して追撃を喰らわせる。
フィルのカザック王国騎士団での三年目は、こんなふうに始まった。