16-11.実感
「あの、おろして、いただけないか、と……」
「却下」
腕の中のフィルは、真っ赤になって俯いている。
「……その、見られてます」
「今更だ。メーベルドの公館からずっと俺がこうして抱きかかえて帰ってきたんだから」
そう告げれば、フィルは絶句した後、全身を桃色に染めた。
フィルをこの手に取り戻して六日。
医師から自室に戻る許可を得たフィルを、アレックスは彼女の抵抗を無視して抱え上げた。
露骨な呆れ顔を見せた医師に微笑んで礼を述べ、そこかしこに散るギャラリーをこれまた無視して、アレックスは涼しい顔でフィルを自室に運んでいる。
「フィルが戻ってきてから本気で壊れてるな。今までは人前でフィルに触ったところでせいぜい頭だけだったのに」
「外れ。フィルがいなくなった時点で既に壊れてたんだよ」
「ああ、確かに」
騎士団本館から宿舎に向かう渡り廊下の端で、オッズとザルクがこちらに聞こえるだろうことを承知の上でそんな会話をしている。目が合うなり、にっと笑ってこちらに手を振ってきた。
「うぅ……」
腕の中で泣きそうになって俯いているフィルには悪いが、彼らの揶揄など今更痛くも痒くもない。
ふと視線を感じた。鍛錬場の隅にミック・マイセンを認める。
アレックスは殊更にフィルの頭を抱き寄せ、自分の胸へと密着させた。
「ア、アアレックス?」
驚いたのだろう、恥じらっていたフィルが伏せていた顔を上げる。その瞬間、唇に掠めるようにキスを落とした。
「っ! な、なななに考えて……」
顔を朱に染めたフィルに微笑みかける。
(……こっちの気も知らないで好き勝手に人を罵った罰だ)
それからミックが歯軋りしているのを視界の端に入れて、アレックスは内心で舌を出した。
秋口の夕暮れの空に、群青と夕日の赤に染まった細い雲が散っている。
周囲の空気はその色に合わせるかのように透き通って冷涼、一日に疲れた人々に憩いを与えてくれる。
左方から吹いてきた風に乗って、腕の中から愛しくて仕方のない香りが鼻腔をくすぐった。頭の芯が痺れるような陶酔感を味わう。
最初は取り戻したフィルの身に呼吸があることを確かめて安堵し、次に医師に暴行の形跡がないことを確かめて安堵し、そして彼女の目が開かれて安堵し、最後に彼女が「アレックス」と呼んで翳りなく笑ったことに安堵した。
(その後で「おなかすいた」はないだろう、とは思うが……)
本当に人の気も知らないで、と苦笑を零すと、抱えたフィルとまた目が合った。
目元を染めているものの、変わらず真っ直ぐ自分へと向けられる深い緑の瞳――そこに自分が映っているのを確認して、アレックスは今度はちゃんと微笑んだ。
騎士団宿舎東棟の自室前に辿りつき、アレックスは左足を補助に使ってフィルを支え、扉を開いた。
「……なんだか久しぶりな気がします。十日程度しか経ってないのに」
感慨深く呟いたフィルにアレックスも同意する。
命さえあってくれればいいと思っていたのも確かなのに、他にも怖れはあった。
他の誰にも彼女を触れさせたくない。それでも、もし彼女に他の男が触れていたら? 傷つけていたら? それは悪夢のような想像だった。
フィルがいない間、そして目を覚まさない間、眠らなかったのは、眠れなかったというだけじゃない。たとえ夢であっても彼女が冷たく横たわる姿も、傷ついて泣いている姿も、彼女が他の男に組み敷かれている姿も見たくなかったから。
フィルが見つかるのが後一日遅かったら? 彼女が目覚めるのが後一日遅かったら? ――狂っていたかもしれない、と真剣に思う。
フィルの髪の一筋さえも自分の元においておきたい、心の一片までも俺で埋め尽くしたい、誰にもフィルを、彼女に属するものを何一つ奪われたくないと言うアレックスの望みは、今回は運良く叶えられた。その事実に感謝しないではいられない。
奥の窓の外には透き通った上弦の月が薄く浮かんでいる。室内は迫る夜の色に青く染まっていた。
色のわからなくなった部屋の様子を無言で見つめていたフィルは、それからアレックスを見上げてきた。
「ちゃんと戻ってこられた……」
「ああ」
ベッドに彼女をそっと下ろし、こめかみにキスを落とした。
「? フィル?」
身は離れたというのに、フィルの白い腕はアレックスの首に巻きついたまま――微かな振動が伝わってくる。
「……放さないで、ください」
怪訝に思って横にある彼女の顔を覗き込もうとした瞬間、耳元でささやかれた言葉に心臓が跳ね上がった。
「あの時、もう戻れないかと思いました。アレックスに会えないまま死んでしまうかと思って」
フィルの唇は鎖骨に当たっていて、そのわななきをアレックスの身体に直接響かせてくる。
「そんなのは嫌だ、と思いました」
腕に力が入り、その震えが大きくなった。
「お願い、です。生きて、アレックスの側にいるって感じたいんです」
そして、「一晩中放さないで」という熱に浮かされるような声が鼓膜に直接届いた。
足の傷を損なわないよう、彼女の上に慎重に覆いかぶさる。緑の潤んだ瞳に、縋るように見上げられ、気遣いを忘れそうになる。
衝動に促されるままに彼女の後頭部を捉えて、艶やかな唇に自らのそれを重ね合わせた。
歯列を舌で割り入って、貪るように口蓋を撫で上げる。口腔を余すところなく触れ、性急に衣服を乱していく。
拙く動く舌を絡めとり、執拗にすり合わせれば、湿った音が耳に届いた。それにさらに飢えがひどくなる。抑制を欠けば、ようやく回復した身体に負担がかかってしまうとわかっているのに、うまく調整できない。
乱れた呼吸につけ込むように彼女の衣服を剥ぎとれば、さらけ出された肌は闇の中で浮かび上がるほどに真っ白だった。
「……」
つっと指で腹部をなぞれば、フィルはそれに応じて艶を含んだ吐息を漏らした。以前に肌に散らした所有の証しが失われていることに離れていた時間を思い、そしてそこに別の印が一つもないことに息を吐く。
目が合って薄暮の中で恥ずかしげに視線を伏せる辺りは同じなのに、フィルの身体はいつもよりずっと敏感だった。
形のいい胸の淡く色づいた頂に指を落とせば、それだけの刺激で嬌声が口から漏れる。確かめてみたくなって指を忍び込ませたその場所は、最初から潤っていた。ほんの少しの指と舌の刺激で、フィルは全身を震わせながら、背を反らし簡単に絶頂を迎える。
誰にも触れられていない――そうその反応が告げてくれる。
確かめるように、執拗に全身を愛撫した。指先から腕、脇、肩、うなじから背、脇腹から足の爪先にまで、指と舌、全身を絡ませる。同時に自分のものだという証を散らした。
自分の体の下で、高い声を上げて震える体がひどく愛しくて、同時に壊してしまいたいような衝動に駆られる。
「アレックス……」
それをどれぐらい続けただろう、フィルに乱れた吐息と共に名を呼ばれた。
ゾクリとするような潤んだ瞳と染まった頬――それに促されて、彼女の太ももの傷に障らないよう、彼女の体を押し開いた。
足の間の向こうで目が合った彼女は赤くなりながら、顔をそむけた。表情の変化を見ながら、ゆっくりと彼女へと侵入する。快楽を恥じているかのような表情に、体の芯がかき乱される。いつも通りわずかな抵抗と共に受け入れられて、与えられる刺激への反応に変わりがないことを確かめて安堵した。
わかっているのに――。
それでも彼女の身体が自分以外知らないと告げてくる、それに泣きたくなるような安堵を覚えた。
繋がったまま、彼女の上に覆いかぶされば、フィルは一際高い声を上げた。
「フィル、愛してる……」
名を囁きながら執拗にキスを繰り返す。同時に律動を開始して淫らな水音を立ててつつ、彼女を奪っていく。
自分の下でこちらの動きにあわせて、美しい姿態を揺らし、涙を零す――ここに、自分のもとにフィルがいる、そう実感した瞬間に自分までも泣きそうになった。
「ア、レック……」
達する瞬間に彼女が俺の名を呼び、縋るように腕を伸ばしてきた。
「っ、ここにいる。もうどこにも行かせない――」
背骨が折れるのではないかというくらい強く抱きしめることでそれに返し、そうして一緒に果てた。
気を失ってしまったフィルは、そのまま眠りについたらしい。
外からの明かりを頼りに、いつものようにその身体を清めた後、足の包帯を取り替えた。
彼女の横に身を横たえる。至近から届く規則正しい呼吸に口元を緩めた。
闇の中で自ら光を生む金の髪。その下へと腕を滑り込ませ、そっと抱き寄せれば、フィルは「ん……」と呟いてこちらへと擦り寄ってきた。
その仕草もあどけない寝顔もどうしようもなく可愛らしくて、アレックスは額にそっと口づけを落とす。
「……混沌、ね」
不意に、アレクサンドラが賜ったという運命神のお告げを思い出してアレックスは苦笑した。あれは確かなのだろう、と。
だが、彼女に振り回されるのは、自分が彼女を愛しいと思うから――彼女がいるのなら混沌だって構わない、そう思ってしまう。
「その思考自体が『混沌』なんだろうな……」
もう一度苦笑して、アレックスは彼女を抱きしめた。
「おやすみ、フィル」
再度額に唇を押し当て、眠りに落ちていく。
胸のうちから響く穏やかな呼吸音と、肌に触れる温かくて柔らかい感触――フィルはちゃんと自分のもとにいる。
ようやくちゃんと眠れそうだ。