16-12.展望
フィルが仕事に復帰して最初の休みの前の晩、アレックスは彼女と共に王都西地区の住宅街の一角にある小さな庭付きの家を訪れていた。
秋の日はもう大分短くなっていて、足元はすっかり闇に包まれている。首元を撫でていく風が少し冷たい。
「おう、来たか」
「いらっしゃい、フィル、アレックス、久しぶりね」
「こんばんは、アメリアさん、ミルトさん」
「お招きありがとうございます」
木造りの玄関戸を叩けば、明るい声で返事があった。闇に慣れた目に温かみのある光が差し込み、そこに浮かぶ二つの影――ミルトと妻のアメリアが、アレックスたちを出迎えてくれた。
メーベルド公国の絡んだ麻薬事件は先ごろ目処がついて、アレックスの仕事もひと段落着いた。
幸い戦争は回避される見込みだ。フェルドリックが『天使の息吹』を抑えた際の手順をぼかし、食い下がられての追及も巧妙に煙に巻いた。それでいながら向こうの咎を針小棒大にして攻撃材料とし、事をすべてカザックのペースで進めた。
必然的にフェルドリックの人望はさらに高まったが、フィルに言わせると「笑顔でえげつなく脅したんだと思います。絶対そうです。なんであの胡散臭さ、ばれないんだろう……?」。
あたっていると思うが、相変わらず言わなくていいことをなぜわざわざ口にして自分の身を危険にさらすのか、それが謎ではある。
結果として、カザックはメーベルトから莫大な賠償金と、領土の一部を獲得した。新しい領土が落ち着くまで、第三中隊がそこに駐屯することになって、今騎士団は少々人手不足だ。
仮面の男に囚われていた人質のうち、マリーベルは今やほとんど回復したらしい。実家の父親の元で、面倒を見てくれている継母とも結構仲良くやっているという。
レイチェルとアリスは、天使の息吹にさらされていた期間が長かったために、今なおきつい中毒症状に苦しんでいると聞いた。
中でもレイチェルは、薬が切れているというのに仮面の男を恋しがって、よく泣いているらしい。
それを聞いてフィルは顔を曇らせていた。「人の心って難しいですね……。あの人――メーベルドの大使、元々は繊細で優しい人だったのかもしれないと思うんです。もちろんやったことの罪がそれでなくなるわけではないけれど」と。
「それにしても、アレックス、お前よく休み取れたなあ。いや、誘っといてなんなんだが」
「ええ。放っておくとろくな事が起きないことを忘れていて、ひどい目に遭ったので。同じ轍は二度と踏みません」
ミルトの感嘆に、アレックスは真顔で返した。
フェルドリック、ロンデール、アレクサンドラ、仮面の男……フィルに厄介ごとをもたらす人々は、皆アレックスが何かに気をとられている隙を狙ってきた。
特に今度のような事態に遭遇するのは、二度とごめんだ。一緒の時間を最大限確保するのはもちろん、それができない場合であっても、意識だけは100%フィルに向けられるようにしておく。そのために、他事は全力で効率を追求して、片手間の片手間で片付ける。
「……やっぱり苦労してるんだな」
「……」
露骨な同情に沈黙するしかなかったアレックスの背後で、アメリアがフィルの買ってきたケーキの箱を開けて歓声をあげている。
「きゃあ、アレックス! 会いに来てくれるなんて嬉しいわ!!」
二階からミルトとアメリアの娘であるリーナが駆け下りてきて、アレックスへと抱きついてきた。
何度か顔をあわせたことのある彼女は、確か十一歳だ。だが……
「ね? ね? 正式に夕飯に招待って彼女の親に紹介されるって感じじゃない?」
子供に懐かれているという雰囲気ではないのが、とても個性的な子だ。
(本人はまったく懲りてなさそうだな)
例の倉庫での件をリーナに謝罪させたいのだとミルトに言われて、フィルと二人ここを訪れたわけだが、当人にその気はなさそうだ。
ミルトに誘われて、「? お礼も謝罪もいりませんけど?」と、いかにも当たり前のことをしただけという顔で返していたフィルも同じように感じているのだろう、横で笑っている。
「リーナっ、そうじゃないでしょうっ」
「うわ」
「フィル、そんな顔をしていたら、ますますつけあがってしまうだろう」
穏やかなアメリアが怖い顔をし、いつも冗談ばかり言っているミルトも真面目な顔をしているせいか、フィルは慌てて気を引き締めたらしい。努力して怖い顔を作って見せた……つもりなのだろうが、眉間に皺を寄せて笑っているような奇妙な表情になった。
それを見てつい吹き出せば、今度はアレックスがミルトに足を蹴飛ばされた。
「リーナ、あなたが考えなく行動したせいで、フィルは危ない目に遭ったり怪我をしたりしたの。アレックスや他のみなさんの仕事の邪魔にだってなったのよ。だからちゃんと謝りなさい」
普段温和な母親にまでそう厳しく諭されて、リーナは口を尖らせた。泣いて誤魔化そうとはしないあたりが、らしいといえば彼女らしい。
「いいよ、リーナだってマリーベルをなんとか助けようとしたんだよね?」
くすくすと笑うフィルを、リーナがチラッと見た。
気まずそうな顔をして顔を伏せると、「ごめんなさい。それから……助けてくれて本当にありがとう、フィル」ともごもごと呟く。
それから、「で、でも、それと恋愛は関係ないんだからね!」としっかり叫んで、フィルを「ああ、それを気にしていたの」とまた笑わせていたが。
* * *
ミルトに促され、フィルはアレックスと共に食卓に向かう。木目の美しいテーブルの一端にミルトさんが座り、角を挟んでアメリアさん、逆の角をはさんだ席がアレックスらしい。
「こっちだ」
「?」
アレックスが隣の椅子を引き、フィルの腕を引いた。彼らしくない、少々強引な仕草に首を傾げつつ、そこに座る。
「ああっ、フィル、ずるい! 私がアレックスの隣に行こうと思ってたのに!」
リーナの叫び声に、「だからリーナにケーキを奥に置いてくるよう頼んだのね」とアメリアさんがくすくすと笑う。
「ちょっとアレックス、フィル特別扱いし過ぎ!」
「実際特別だから」
「うわ、今何気に惚気た! か弱くて可憐な、恋する少女への思いやりってものはないの? 少しぐらい夢を見させてくれたっていいじゃないぃ」
「か弱くて可憐な恋する少女は、フィルの口をあんなふうに開けさせないと思う」
「フィルはその辺の修業が足りないの!」
「……」
目の前で繰り広げられるアレックスとリーナのそんな応酬。それを見て、「リーナ、今日もめげないなあ、そういうとこ好きだけど」とフィルが思っているこれには、ちょっと逃避が入っているかもしれない。
食卓の真ん中では、その彼女が先ほど運んできたスープが鍋に入ったまま、美味しそうな匂いと湯気を立てている。
「おまえなあ、いい加減アレックスのことは諦めろって言ってるの」
スープ皿をアメリアさんに渡しながら、ミルトさんが頬杖をついて呆れたように娘を見遣る。
「うるっさいわね、パパは黙ってて。見込みがある限り諦めないんだからっ」
「見込みがないから言ってるんだ」
「年齢や身分なんて愛の前には障害じゃないわ」
「いや、年齢や身分以外にもっと色々あるだろう? 見た目とか性格とか」
「ちょっとっ、それが娘に言うセリフ!? 私が可愛くないって言うの? 言っておくけどフィルにだって負けてないわよ、この美貌、ちゃんと見てよねっ」
「性格が悪いのは認めたんだな」
「そんな訳ないでしょ! アレックスの前でなんてこと言うのよっ」
(……すごい、ぽんぽん会話が進んでいく)
アメリアさんのお手製だというパンを千切っていたフィルは、二人のやり取りにまたも呆気にとられる。
騒ぐ父娘を前に、フィルは正面から笑った顔を見たことのない自分の父を思い浮かべた。眉間に皺の刻まれた厳しい顔、それから――自分を見る時の冷たい視線。
(十八年間、私が父と話した量は、この父娘の一日分よりきっとはるかに少ないだろうな……)
フィルは知らず視線を伏せる。
あの時――『天使の息吹』に身体を侵された時、父に肩車をしてもらったあの夏の日の光景が思い浮かんだ。
(嬉しかったんだよね、あの時すごく……)
ほとんどの子にいた『オトウサン』。自分にはいないはずだったその人が、ある日やってきて、自分を見て少しぎこちなく、けれどちゃんと笑って抱きあげてくれた特別な日。
あの時高い場所から見た光景は今も鮮明に思い出せる。手に触れた髪の感触が柔らかくて、自分と同じ色でそれがひどく嬉しかった。
なのに、今思い出して悲しくなるのはなぜだろうか……?
「フィル? どうした?」
アレックスの右人差し指の背が、左の頬に柔らかく触れた。フィルははっとして彼を見た。
「……」
優しく綻ぶその青い目に、なぜか泣きたくなる。
「ちょっとそこっ、いちいち見つめあわないっ」
――リーナのおかげで、泣かずにすんだけど。
* * *
誰のせいでとは言わないが、賑やかな食事を終え、デザートに皆で土産のケーキを食べ、しばらく話をした。
自分たち、特にアレックスに「泊まっていって」とねだっていたリーナだったが――なお、彼女は他に「こういう時は、『好きにしていいわ』とか言えばいいんだっけ」などとミルトに訊ねて彼を呻かせ、フィルに向かって「それぐらいのことはちゃんと言ってる?」「大人なら言わなきゃ!」と言って、彼女をまた唖然とさせていた――、ついに睡魔とアメリアの小言に負けたらしい。二階の自室へと上がって行くことになった。
だが、彼女は寝る前にフィルに話があるから、一緒に部屋に来るように、と言い出す。なんでも『女同士』の大事な話らしい。
「女同士、の大事、な……」
「そう。大事な話」
「いーい? 私が諦めない理由は、アレックスがフィルにラブラブでも、フィルがアレックスにラブラブじゃないからよ! それについてとことん話をつけてあげる!」
「ラブラブ……ってあれか、公害ってヘンリックが言う最近の……。あれを、私にも、しろと……? それって、羞恥で死ねって言われているのとあまり変わらないような……」
「なにぶつぶつ言ってるのよ? 私、見たのよ? 目の前でアレックスにちょっかいかけられて、ボーっとしてるの! 今もそうだし、悔しくないの!?」
「ええと……」
「いいから、ほら行くわよ」
顔を引きつらせたフィルが「今度は何を言い出す気……」とぼやきながら少女について階上に上がっていくのを、アレックスは残る二人と共に笑いながら見送った。
とたんに静かになった室内で、ミルトが居心地悪げに身動ぎする。何度か口を開け閉めしてから、おもむろにアレックスへと話しかけてきた。顔は階段に向けたままだ。
「なあ、アレックス、お前さ……結婚、しないのか……?」
「いずれします」
言いにくそうに口にしたミルトに、アレックスは即答した。
「……相手は?」
「フィルです、当然」
そう返して、アレックスは彼女が今苦戦しているだろうリーナの部屋の方向を見つめて微笑んだ。
「彼女以外欲しいとは思えない」
そう思うからそう口にしただけ――真顔でのアレックスの返事にミルトが赤くなり、横のアメリアは目を輝かせた。
「お前、本当に壊れたな……そういうセリフをしれっと言うなっ」
ちぇ、お前の家のこと心配したのに損した、とミルトがぼやいたのを耳ざとく拾い、アレックスは眉を跳ね上げる。
そして、なるほど、言われてみれば、普通貴族とはそういうものだ。フィルのことを貴族らしくないと言える義理ではないらしい、と苦笑する。
「素敵よねえ、そんなふうに言われてみたいわ」
食後のお茶のカップをソーサーに置き、うっとりしたような声で呟いた妻に、ミルトはぐっと言葉を詰まらせて赤くなった。
第一小隊員のご多分に漏れず、いつも余裕の顔をしている彼には珍しい顔に、アレックスはつい吹き出してしまう。即気付かれて小突かれてしまったが。
アメリアは「結婚が決まったら教えてね。お祝いするから」と少女めいた微笑みを見せ、それからそのミルトへと顔を向けた。
「私があなたと結婚したのがアレックスの歳で、翌年にリーナをおなかに授かったのよ。いいわねえ」
過去を思い出し、今度は自分へと微笑みかけてきた妻に、ミルトは照れを隠そうとする微妙な表情を見せる。そしてアメリアにぎこちなく近寄ると、アレックスへとチラリと視線を向けた。
アレックスは彼のために、小さく笑いながら部屋の外へと顔を向けた。
住宅街ということもあって、辺りはすっかり静まっている。窓辺に寄れば、明かりを少し落とした室内からは、小さいながらもミルトがこだわっている庭とが見えた。庭木の向こう、夜空にはぽっかりと半月が浮かんでいる。
「結婚、か……」
アレックスはミルトに言われた言葉をくり返し、緩んでいた口元をすっと引き締めた。
(俺たちの場合は、片付けなくてはならないことが色々あるな、その前に)
アレックスの実家であるフォルデリーク家のみならず、王家、そしてこの国をも嫌悪しているというロンデール公爵を思い出し、アレックスは眉を顰めた。
そのくせ、その国の成立と維持を支えてきたザルアナック家に近づこうとしている、蛇のような目つきの男だ。続いて、その息子を脳裏に思い浮かべる。
かの家は、今回の騒動も末端の末端に責を負わせ、結局知らぬ存ぜぬで逃げ切った。
あの親子は基本的に似ていないが、共通していることがある――恐ろしくしたたかだということと、目的は違ってもフィル、フィリシア・フェーナ・ザルアナックを欲していると言うこと。
アレックスは、流れてきた細い雲を月が白く浮き立たせるのをじっと眺めた。
そんな中、どの道をどう辿っていくのが、フィルと自分にとって最良か、見極めなくてはならない。
だが……、
「絶対に離さない」
どんな道になろうと、彼女を自分の側から離すことだけは絶対にしない――。
窓の外に目線を向けたまま、物思いに沈むアレックスと、落とした照明の中で、静かに語らっているこの家の主夫妻。
「……?」
静寂に満ちた夜の室内に、突如何かが階段を転がり落ちてくるような音が響いた。
目をみはって視線を向ければ、フィルが口を押え、あわあわとこっちにやってくる。
「アアアレックス、リーナ、じゅ、十一歳……!」
(……なるほど、彼女にまた何か衝撃を食らわされたのか)
思わず苦笑した。フィルはいつも人の気を知らない。だが、それに救われている気もする。
「キキキキス……キスって、人前でって、しかも、その、あの普通のじゃないの、そ、それって普通? こ、恋人ならそれぐらいしろって、アレックス、盗られないようにって、しかも、れれれ練習って、」
よほどのことだったのだろう、赤い顔でしどろもどろになるフィルを前にアレックスは再び苦笑を漏らす。
「恋人の普通……はこれぐらい?」
「う」
腕を伸ばし、その彼女を抱きしめると、アレックスは甘い香りと柔らかい感触に微笑んだ。
背後では、階段の途中まで降りてきて、フィルを見ていたリーナが「まあ、最初はあれぐらいか」と呟き、それを階下で耳にした彼女の両親が顔を見合わせてこっそり苦笑しあっている。