16-10.一
墓の中から出てきた茶髪の女性、天井に白い煙が漂う石造りの地下通路、突き当たりの石室、床に屈んでいる白い仮面の男、その下で蒼白な顔をしてぐったりと横たわる――、
「フィルっ!!」
アレックスは彼女を認識するや否や、男に切りつけた。
「触れるなっ」
だが、男は瞬時に腰の剣を抜き、アレックスの渾身の一撃を受け止める。噂どおりの使い手らしいと知って舌打ちすると、間合いを取ろうと試みる。
その隙を逃さず、男は切り返してきた。剣が地下室の淀んだ空気を割く。
「っ」
避けたはずの切っ先が奇妙な軌道を描き、アレックスの右腕を掠めた。焼けつくような痛みが脳に走る。
「邪魔をしないでもらおう……」
男はフィルから離れ、ゆらりと立ち上がった。男の向こうにいるフィルがピクリとも動かないことに、アレックスは焦燥を募らせる。太ももに小さなナイフが突き刺さっていて、白いドレスが徐々に赤く染まっていく。
「……っ」
最悪の想像をしてしまって、剣を握る手が震え出そうとするのを何とか抑えつけた。
「彼女は私……わ、たし? …………ぼ、く……僕、のもの、になるんだ、僕のなんだ……っ」
唐突に変わった口調に、アレックスは男に意識を戻した。同時にその言葉の意味するところに目を眇める。
脇では床を張っていた炎がぼろぼろのタペストリーに燃え移り、火勢が増した。火の粉が宙に舞い上がる。
上がり始めた黒煙が視界を奪う中、アレックスは正眼に構え直す。極限まで集中を高め、「悪いが」と低く呟いた。
「フィルは俺のものだ」
仮面の穴からのぞく男の双瞳に、殺気が宿った。
聞き取れない呟きを吐き出しながら、男が大きく踏み込んでくる。殺意を隠さない剣が喉へと迷いなく繰り出された。
二段突きを特徴とする剣術――南方様式と対戦するのは初めてだ。
アレックスはそれを避けず、刃を合わせて受け止めると軽く捻って弾いた。そしてその動きのまま、一気に間合いを縮めると男の首筋へと剣を薙ぎつけた。
二撃目のためにこちらへとさらに踏み込もうとしていた男は、足元で大きな音を立てて自身の勢いを止め、上身を逸らしてアレックスの刃を避けた。
首筋に赤い線が横に走り、そこから血の雫が滲み出る。
互いに半歩ずつ下がって、再び間合いが開いた。
火は絨毯を焼き尽くしていく。タペストリーに移った方の炎も勢いが止まらない。煙が室内に満ちる。
先にこの男に集中すべきなのはわかっているが、火災と石床に横たわったままのフィルの様子が気にかかって仕方がない。
アレックスは彼女に近寄ろうとじりじりと足を運んだが、仮面の男はそれに気付いたらしい。動線の先に移動し、邪魔をする。フィルを庇うように立つその行為に、神経を逆撫でられた。
「……なるほど。あの時の君か――フォルデリーク公爵の次男、アレクサンダー・エル・フォルデリーク、というらしいね? 騎士団で小隊長を務めているそうじゃないか」
首の血を指で拭い、色を確かめた男は、「とある人物が君のことを私に話してくれてね……」と小さく笑った。
またもやガラリと変わった大人びた口調に、アレックスは眉をひそめる。
「彼はこの国が嫌いなのだそうだ」
男は再び剣を正眼に構えた。右横から流れてきた煙にアレックスが気を取られた瞬間、今度は正中線を狙って、二段突きを仕掛けてくる。
「それで? お前はその男になぜ加担した? この国の王にしてやるとでも言われたか?」
後ろに下がって最初の一撃の勢いを殺し、二撃目を上段から叩き伏せると、アレックスは男の心臓を狙った。身を捩った男とのほんのわずかな差で、切っ先は空を切る。
「――ロンデールだな?」
アレックスの問いに男は目を丸くして、「彼が君を嫌うはずだね」と笑いを零した。仮面の下からのぞく歪んだ薄い唇に、血の気はない。
「国のためと言いながら、同じ国に麻薬を流し、西方交易を独占しようと私利に走るあの男は、カザック王家や君の一族がいたくお気に召さないらしい」
会話の合間も男の剣は、アレックスの急所を的確に狙ってくる。
「なぜ今更彼を裏切る?」
「残念ながら減点だね、フォルデリーク。私は君を利する気もないが、彼を裏切ってもいない。あの男はくだらない俗物だが、狡猾だ。私がここで何を言ったところで彼に影響が出るとは思えない」
嘲笑を浮かべてクツリと笑うと、男はアレックスに言い放った。その口調に滲む軽蔑に確信する。
「ロンデールの目的とお前の目的は異なる――そういうことか?」
もう一度目を見開いた男は、剣を持つ手を脇に下ろすと声を立てて笑った。「君のほうがあの男よりよほど賢いらしい。あの男は自分が価値があると思うものは他者にとっても価値があるはずと疑いすらなく信じている――愚者の典型だ」と。
「私はこの国の王位になど興味はない。この国が憎いわけでもない。憎いのは……庇護するべき者を持ち、本当にそうしようとする人間。その庇護を受けられる人間。庇護すべき者を見捨てる人間。そう……」
――僕はこの世のほとんどの人間が憎いんだ。
男の口調に、年齢に似つかわしくないあどけなさと、残酷な狂気が戻った。
天井にまで駆け上がった炎に、燃え上がったタペストリーがばさりと落ちた。それは木製のコンソールにかかって、しばらく後にそれをも赤い火に包んだ。
利き手手首を狙って繰り出された男の剣を避けたアレックスの全身に、火の粉が降り注ぐ。
「あの薬はとても面白かった。愛情だのなんだのを語っていたくせに、その相手のことをコロっと忘れてぼろぼろになるまで僕につくすんだ。その様の滑稽なことと言ったら! レイチェルなんて僕に言われるまま追いすがる母親を蹴り飛ばしたんだ、あの時のあの老婆の顔は最高だった!」
男はけたけたと笑いながらアレックスの胴を薙ぐ。その刃を受けて弾いたが、男はなおも笑い続けている。
「あの男の目には別の用途にしか映らなかったようだけれど、彼がこの国を壊すなら、ここに住む人間たちもみな道連れだ。くだらない三文芝居を演じつつ、ね――僕にはそれを止める理由が欠片もなかった。見ものだったよ」
他者を軽んじ、嘲る言葉に血が上った。そんなふざけた理由で、と。
だが、性質の悪いことに、この男はおそらく大真面目なのだ。アレックスは嫌悪に顔を歪めた。
「っ、フィルっ」
広がった炎が横たわったままのフィルに近づいている。
アレックスは胴へと切り込んできた男の剣を力任せに弾き、男の体勢を無理やり崩すと、彼女へと駆け寄り、左腕で抱き上げた。
(息は……――ある)
「返せ」
安堵のあまり力が抜けたところで、背後から殺気の塊が落ちてきた。
「っ」
半身を捻り、心持ち膝を落として、男の剣を片手で受け止めた。対する男は両手で剣を押し込んでくる。
力での押し合いに、擦れ合う金属が耳障りな音を立てる。最初につけられた右腕の傷が痛みを増し、アレックスは内心で舌打ちを零した。
かち合う剣の向こう、仮面の奥の目は笑っていないのに、唇だけはまた笑っている。
「彼女、フィルだけはやらない。彼女は変わっているんだ。赤の他人をかばって、そのために自分を二の次にする。薬に浸かっているわけでもないのにね。彼女はきっと私のためにもそうしてくれる。私を見捨てないで守ってくれる。だから連れて行って、あの女に見せつけてやるんだ。そうしてずっと一緒にいる」
「ふざけるな……っ」
「ふざけてなどいない。君には君を守ってくれる人が他にいくらでもいるだろう? カザック国王・王后両陛下も従兄の王太子殿下も随分と君に目をかけているそうじゃないか。加えて君の父上や兄上、そして……母上、も」
男の目に異様な光が灯った。
「……黒髪、の美しい人、乳母も付けず、病気の君に自ら付き添った、やさしい、あいじょうぶかい、ひじょうしき……」
ぼそぼそと呟きながら、体格の差をものともせず、剣を押し込んでくる。
「かの、じょ、彼女ぐらいはよこせ……っ。彼女ぐらいは僕に差し出せっ」
唾液を飛ばして言い募ってくる男をアレックスは間近で睨み返した。
「断る――『ぐらい』じゃない、フィルだけは絶対に渡せない」
アレックスは片腕に抱えたフィルを自分の背後に隠すと、剣を両手で持ち直した。
床に落としていた膝を立て、剣ごと男を押し退けようと力を込めた瞬間、相手は力を一瞬緩めた。
不意に止んだ押し合いに勢いに乗ったアレックスの剣を、男が外へと弾こうとする。その動きに合わせて、アレックスは腕を手元へと引き寄せた。
男の上腕はその変化についてこられない。上段が空いた。
アレックスはフィルを自分の身で庇いつつ、男の懐へと一気に踏み込む。
男は崩れた体勢の中で、頭上からアレックスの肩へと剣を振り下ろしてきた。
アレックスは脇を絞り、引き寄せた腕を真っ直ぐに男へと突き出し……男の剣の到達前に、彼の利き手肩関節を刺し貫いた。
アレックスが剣を引くと同時に、男の剣が石畳に落ちた。甲高い音が煙の篭る室内に反響する。
目の前から鮮血が噴き出し、艶やかな血の花が男の白い衣装に咲き、広がっていく。
アレックスが一歩近寄ると、男は同じだけ後ろへとよろめいた。
仮面の向こうの瞳をアレックス、いや背後のフィルに向けたまま、男は左手で自らの肩に触れた。そして、ゆっくりと手を眼前に戻し、手のひらについた血を見て――絶叫を上げた。
「っ、あ……ああああっ、まただ、まただっ、血が、血がこんなにっ、痕にな……っ、き、嫌われる嫌われる嫌われる嫌われる嫌われる嫌われる嫌われ」
瘧のように全身を震わせ、背後のガラスの箱に走り寄り、男は異臭とちろちろと炎を上げて燻っている物体に縋りついた。その拍子に黒こげとなった突起――腕のようなものが床へとぼろりと崩れ落ちた。
男は喉の奥で悲鳴を上げると、今度は「嫌わないで嫌わないで嫌わないで嫌わないで嫌わないで」と金切り声を上げ始める。
あまりの異常さに呆気に取られたアレックスの前で、棺の中の残り火が男の体に燃え移った。我に返って引き離そうとするも、絶叫と共に拒まれる。
「そこから離れろっ、死ぬぞっ」
「っ、ママに近寄るなっ」
素材の問題か、棺の中に油分でもあったのか、男の全身が瞬く間に炎に包まれた。血より鮮明に輝く赤い火が男の仮面へと駆け上る。
男は膝を崩し、両手で顔を覆った。
「駄目だ、これがないと、気持ち悪いって嫌われるんだ、嫌われ……」
黒煙と異臭が一気に強まる中、男は不意に口を噤んだ。それから顔を覆っていた腕を――フィルへと向けた。
ひどく悲しげに聞こえる声で何かを小さく呟いたようだったが、炎の音に紛れて意味を聞き取ることはできなかった。
(助からない――)
男が身を床へと崩し落とした。
炎の勢いが増し、吹き付けてきた熱い空気に黒髪が煽られた。空気ももう大分薄くなってしまっている。
アレックスはフィルを抱え直すと部屋から駆け出た。男を生きたまま連れ出せなかったことは心残りだが、仕方あるまい。
「……フィル……っ」
抱えた彼女から吐息の感触を感じて、全身が震え出した。自分がちゃんと走れているか、わからなくなるほどに。
歓喜か、安堵か、嗚咽がこみあげそうになるのを必死に堪える。そうしてフィルを横抱きにしたまま、視界の利かない通路を走って地上の光の下へと彼女を連れ帰った。
* * *
「中にアレックスはいるか」
「いいえ。残りの報告書は医務室で仕上げると言って出て行ったそうですよ、また」
「……ヘイラー医師は許可しているのか?」
「さあ? 医務室の続きの小部屋を実質占拠してるって話です。文句を言われるたびに、右腕の怪我の予後が良くないと言ってのけているとか」
「公館からディランをずっと抱えて帰ってきておいて、今更予後も何もないだろうに……」
第二十小隊がほほ居座っている状態の会議室から出てきたウェズは、同じくアレックスを探しているらしいポトマック副団長に問われ、肩をすくめた。
ウェズ同様、ポトマックも苦笑している。
騎士団がメーベルド公国外交公館に踏み入ってから丸五日。隠し部屋から大量の『天使の息吹』が押収されたことで、カザック王国は大騒動になっている。
延焼を免れた資料から、メーベルト公国が国ぐるみでカザックにそれを流していたことも証明され、いまやカザックとメーベルドは一触即発状態にある。近くメーベルドから代表団が派遣されてくるらしいが、結果次第で戦争となるのだろう。
王都の人々を恐れさせたメーベルド産の新種の麻薬は、痛み止めとして使われる南方産のシデンの花の変種が原料らしい。
目下の流通は騎士団によって徹底的に潰されたし、さらに今後も厳重監視対象として取り締まられることが決まった。
今回の決断をした王太子はもちろん、立役者の一人としてアレックスの名も王都に流れていて、さらに知名度が上がっているようだ。
事後処理やら何やらで忙しいはずのそのアレックスは、フィルが医務室に運び込まれて以降、偏屈で有名なヘイラー医師もなんのその、ずっとそこに入り浸り、甲斐甲斐しく世話まで焼いている。
そこで大方の事務をこなしながら。フィルが目覚めて既に三日経っているというのに、だ。
これまではあり得なかった露骨な密着と過保護ぶりに、一部では心配のし過ぎと睡眠不足で壊れたのだと評されている。
ちなみに、安静が必要で、そんなアレックスから逃げ出すことができない当のフィルは、『心配かけた私が悪かったです、本当に、ものすごく、心からごめんなさいっ、今度こそ反省しますっ。だからもう許してくださいっ、お願いだから普通に戻ってくださいっ』と半泣きになりながら訴えたらしいのだが、「――そう思うなら好きにさせてくれないか?」とアレックスに笑顔で言われて、涙目で黙らざるを得なかったそうだ。
さらにちなみに、それを聞いた第一小隊が「祝! アレックス、初勝利!」で沸いたことは言うまでもない。
つまりフィルは、安静が必要と言ってもそれなりに元気と言うことだ。
幸い天使の息吹の中毒症状にも悩まされなかった。運び込まれたフィルの症状にヘイラー医師が気付いてすぐに中和剤を施したのも、使用されたのが一回のみ、あの火事の場だけだったというのも幸いだったのだろう。
煙で喉を傷め、報告が筆談になったのが難儀そうではあったが、関係者全員が胸を撫で下ろしたのは、喉と太ももの刺し傷以外の被害がなさそうだ、という点に尽きる。さらわれた時点で誰もが命の心配をし、その次に殺されぬまでも女性ゆえつらい目にあっているのではないかと危惧したのだから。
なんせ事件から丸一日後に目覚めての初声が、声にならない声で『アレックス!』。
泣きそうに顔を歪めて息を止めたアレックスに気付くなり、フィルはがばっと跳ね起きた。勢いのまま彼にぎゅっと抱きつき、その後しばらくして出した掠れ声が……、
『……うー、おなかすいた』
一睡もしないでフィルの手を握ってずっと側にいて、ようやく目覚めた彼女を必死に抱きしめ返していたアレックスは、気の毒にも同じ彼女に脱力させられていた。
彼には悪いが、ウェズもその場にいた他の者たちもそれに大笑いしてしまった。事態をのみ込めていないフィルだけは不思議そうにしていたが。
加えて医師のお墨付きもあるし、恐る恐る見舞いに訪れる者を満面の笑みで迎え、相変わらずのずれを発揮しているのだから確かだろう。
第一、本人は皆がそんな心配をしていたなんて気付いてもいない。相変わらず鈍い。
第二十小隊員の話によれば、万が一を考えたのだろう、気を使ってフィルの聴取をアレックスに代わろうとしたレンセムに、フィルはぎょっとした顔をしたという。
『面倒くさがりのレンセムさんが、自分から働くって……レンセムさんも変な薬にやられてるのかも』と急いで紙に書いてアレックスに見せたらしい。
それに大笑いしたアレックスと、彼の手から落ちた紙を拾って絶句したレンセム――『二度は見られない貴重な光景でした。それにしても、フィルはレンセムさんさえ黙らせることができるんですね……』とはロデルセンの弁だ。
ポトマック副団長と二人並んで医務室へと向かっているのだが、横を歩く彼の歩調が殊更ゆっくりなのは気のせいではない気がする。
(どうも皆あの二人に甘い)
そう考えてウェズは苦笑を零した。
もっともフィルには、回復後今回の独走について、幹部総出で一日かけて順番に説教という罰が待っているのだが。
ウェズでさえ今回ばかりは滅多なことで許してやるつもりがないのだから、フィルにとっては一生忘れられない日になるだろう。
向かう先の医務室からへイラー医師の怒鳴り声が響いてくる。また誰かが医務室を訪れて、騒いだのだろう。
そろそろ秋が来る。中庭から響いてくるせみの鳴き声もいつの間にか消えかけている。
ウェズは束の間となりうる平和な空気を肺へと吸い込み、怒鳴り声の続くその部屋の扉を開いた。