16-9.罠
※ 残酷/グロ描写あり
「お墓……? 新しい……けど日付は十六年前?」
麻薬に侵されて言いなりになっているマリーベルを保護するべく、フィルはメーベルト公国外交官邸の敷地の北端のあたりにやってきた。館から遠く、人気のない木漏れ日の中に真っ白な石でできた墓所を見つけ、フィルはナイフを手に首を傾げた。
「……」
周囲を見回し、人や獣の気配がないことを確認する。
白く輝いていた絹のドレスは既にぼろぼろで、身体は従虎や犬に襲われた際の傷で、ところどころ朱に染まっている。
ああいう集団の生き物を相手にするときの常で一番強いもの、今回は従虎をできるだけ派手に吹っ飛ばしてきたのだけれど、そう人に躾けられているだけで本当は罪のない生き物を傷つけるのは、気分がいいものじゃない。死なないとは思うけれど、と重い息を吐き出す。
マリーベルを見つけて、さっさと連れ帰ろう。館がああなっている以上、メーベルド側の誰かがマリーベルを連れにくることはまずないだろうけれど、自分もできるだけはやくアレックスに会いたい。
フィルは視線を墓に戻すと、磨かれて陽光に輝く、大きな白い石に刻まれた墓標を読み上げた。古語の飾り文字、つまりはかなり身分の高い人の墓らしい。
周りには薄いピンク色の、丈の高い花がふわりふわりと風に揺れている。
「ルー、シア・カ、ザレ、ナ、……ええと、メー、ベー、ルト……ってことは、あの男の母親? の墓を移築した……」
亡くなっていたのか――あの男の執着やわざわざ彼がマリーベルだけ逃がしたことを考えると、それが自然な気がした。
木立の中は本来あるべき小鳥や虫の鳴き声が一切しない。今現在館で起こっている騒ぎもほとんど聞こえず、ただ緩やかな風がさわさわと頭上の梢を揺らしていく。
(ここに来るまでには、他に何もなかったし……)
きょろきょろとあたりを見渡すと、フィルはナイフを鞘にしまって持ち換え、金属製の柄でその墓をこつこつと叩いてみた。
場所を変えて繰り返すうちに、墓石の真下あたりで音が高く長く反響して、内側に広い空洞があることをうかがわせる。
「……ごめんなさい」
しばらく迷った末に、フィルは死者に謝ると墓石の根元に手を当て、体重をかけてその石をずらした。
ゴリゴリという重い音の後、かび臭い、よどんだ空気が鼻に届いた。墓石の基部には四角い穴があって、その奥に下方へと続く階段がある。フィルは息を吸い込むと、その穴へと足を踏み入れた。
二十段程度の階段の終わりには、天井の低い、狭い通路が奥へと続いていた。
地上の穴からの光はもう届かないけれど、代わりに廊下の右側に頼りないながらも火が灯っている。周囲には蝋の燃える臭いが充満していた。
(マリーベルはここに隠れているよう言われて移動した……)
燭台のまだ背の高いろうそくを見、フィルは全身の神経を尖らせながら、奥へと足を進めていく。
行き当たりに扉があった。その隙間から一際明るく光が漏れている。フィルは慎重にその扉を開き、瞠目した。
「部屋? なんで墓の中に……」
そこは窓がないことをのぞけば、どこにでもありそうな居住用の部屋に見えた。
埃にまみれているものの、床には絨毯が引かれ、壁にはタペストリーがかかり、コンソールも鏡台もあって……ただ一つ変わっていたのは、部屋の中央に置かれた、テーブルというには不自然な形の、白い石造りの台の存在だった。
その上には枯れた花の入った花瓶と大きなガラス製の箱があって、オレンジを帯びた燭台の明かりに照らし出されている。
「……」
そこを中心に奇妙な気配が漂っている気がして、フィルはゴクリと唾を飲み込んだ。嫌な汗が額に滲んでくる。
一歩、二歩と恐る恐る箱に近寄ってフィルは顔をこわばらせた。
ガラスの箱、いや棺に横たわっているのは、フィルの予想通りの女性だった――肖像画の通りの茶の髪と水色の瞳、あの男の母親だ。
フィルはぶるりと身を震わせた。
全身の青白さをのぞけば、その人はまるで生きているように見えた。外見もそう。だが何よりその表情だ――何か恐ろしいものに今まさに遭遇したかのような。
水色の目は眼球が飛び出るのではないかというほどにかっと見開いている。今にも叫びだしそうに口をぱっくり開け、頬が左右それぞれに歪み、顔全体を引きつらせている。顔に色濃く浮かんでいるのは絶望の色。右腕は、胸元で宙へと突き出されている。
「……っ」
フィルは気味の悪さに耐え切れず、顔を彼女から背けた。
顔を向けた先――壁に備えられた一対の燭台の下、ほこりを被ったソファにもう一人白い顔で横たわっている。
「っ、マリーベルっ」
駆け寄りながら呼びかけると彼女はぱちりと水色の目を見開き、フィルを見て「はい、なんでしょう?」と微笑んだ。
「へ……? って、そういえばそうだよね……」
彼女が見つかったことへの安堵と彼女の緊張感のなさに、フィルは思わず脱力したが、薬に侵されている彼女はもちろんフィルのそんな様子に構わない。ニコニコと笑いながら身を起こす彼女に、フィルはため息を吐きながらも手を貸そうと近づく。
「っ」
刹那、背後からなにかを投げつけられた。
振り向いた瞬間、足元がぐらりと揺らいだ。髪の間を額へと滴り落ちてくるのは、鼻を刺す臭いの液体。
(し、まった……)
三人からいつも漂っているのと同種の、けれど数段強い香りにフィルは、全身から血の気を引かせた――天使の息吹、しかも精製されたものだ。
「やっぱり、フィルだ。ちゃんと来てくれた」
無邪気な声とともに、暗がりの中から仮面の男がすっと姿を現した。その顔は歪んでいく視界の中で、なお歪に笑っている。
「なんで……? だって館、は今……」
「大騒ぎだろうね、いい気味だ」
心底愉快そうに笑う男をフィルは信じられない思いで見つめた。
(じゃあ、最初からマリーベルとここにいるつもりだった、ということ……? 責任者、が逃げ出すなんて……)
自分の読みの甘さにひどい後悔に襲われたし、お前のために来た訳じゃないと怒鳴ってもやりたかった。
だが――出来ない。フィルはマリーベルの座すソファに崩れ落ちた。
「君は来るって信じていたよ。だから――もうママは必要ない」
満足そうに言いながら、彼はこちらを見つめたまま、右手の手燭をガラスの棺の中に落とした。青白い炎が瞬く間に棺の中の彼女を包み込んで、ユラユラと石室の淀んだ空気中に立ち上る。
立ち上がる気力を失ったフィルを、ソファへとやってきた男は強引に抱き寄せた。それから逆の手でマリーベルを引き寄せると、彼女の腹へとフィルの頭を押し付けた。
「ほら――じっとしていなさい。それから天に帰っていくママにお願いしようね、そうすれば君の魂はマリーベルに入るよ、そうすればずっと一緒だ……」
髪の燃える臭気が鼻をついた。広がった炎の中で、棺の中の遺体の腕が引きつれて持ち上がっていく――まるで天に助けを求めるかのように。
棺の中の炎が枕もとの枯れ花に燃え移り、赤い火を上げた。炎の中で黒い影を見せていた花の茎が崩れ、床に落ちる。古びた絨毯の表面を、炎がチロチロと這い広がっていく。
まずい――そう思う意識までが、追われていく。
逃げなくては、と思うのに、じっとしているよう命じられた言葉が何度も頭の中で鳴り響く。それに緩く、けれど強くのみ込まれていく。
抵抗しようと指を動かそうとするたびに、ひどい頭痛がする。動きを止めると、打って変わって浮き上がるような幸せな気分になった。
眠りに落ちる寸前のような半覚醒の中で、徐々に思考が不鮮明になっていった。
仮面の男の白い服とその向こうで黒煙を吐く炎の赤、不意に目の前の光景がすり替わる。
『フィル、今日は稽古の後で、釣りでもしようか』
明るい朝の日差しの中、フィルの向かいで、朝ごはんを食べながら楽しそうに笑っているのは祖父だ。
『今日のご飯はマスのパイよ。フィル、好きでしょう?』
邸の台所でパイ生地をこねた手をふきんで拭きながら、陽気に片目を瞑って見せているのは祖母。
『ゾルドアック叙事詩、もう読んだの? まだ九つなのにすごいね、フィル。面白かったかい?』
古い本を片手に、本棚の間でフィルの頭を撫でてくれる美しい兄。
『また来たのか』
そう言いながら、長くて白い髭の向こうで、優しい目をしているロギア爺。
『おいで。同じなのに違う、そんな景色が見えるはずだから』
緑の輝く森の中、青空の下で軽々と自分を抱え上げ、肩に乗せようとしている父。
『また一緒に遊びに行こう』
熱に浮かされて苦しそうな息で、でもそう微笑んでくれているアレク。
祖父母もロギア爺も兄もアレクもあの父でさえも、みな自分を見て笑っている。ニコニコと手を差し伸べている。
ここで自分が頷いたら、きっと彼らはもっと笑ってくれるのだろう――そう想像してフィルは微笑んだ。
(そうしたら私もきっとすごく幸せになって、もっと笑えるようになって、だから言うことを聞いてさえいれば……)
「……」
抵抗をやめようと、フィルは仮面の男とマリーベルを押し返していた腕を緩めた。
『愛している』
突如、懐かしい人たちの笑顔の合間に割り込んできたのは、強くて、まっすぐな青い瞳。
『フィルが欲しい』
ひたすらに自分を求めてくれた言葉が、脳裏を掠める。
『そうすれば、二人とももっと強くなっていけるだろう?』
耳にした瞬間、泣きそうになった大事な、大事な言葉だ。
(それを言ってくれたのは……――)
「……アレックス」
音にならないまでも、フィルは唇を動かした。
「どうしたんだい、フィル?」
フィルはナイフを握ったままの右手をわずかに持ち上げた。
男の命令を聞いて動かないよう、頭のどこかが抵抗している。それに抗えと言う声も、脈絡のないみなの声も乱雑に響く。頭ががんがんして、ひどく気持ち悪い。
「っ」
喉を競りあがってきた吐瀉物を歯を食いしばり、ぐっと堪えた。
うまく動かせているかわからない。頭が揺れて焦点も定まらない。だが……――思い通りにはならない。
フィルは一気にその手を振り下ろした。
「!!」
激痛と共に、傷から血が流れ出す。その痛みで何とか神経を保たせた。
フィルは渾身の力で自分とマリーベルを抱えていた仮面の男を弾き飛ばすと、マリーベルを立ち上がらせる。
「起きなさい、起きてここから走って出なさい」
「マリ――」
「させないっ」
フィルは仮面の男に体当たりする。足元が覚束無い。だが必死に男の口をふさいで、その身体を石畳に押さえつけた。
その拍子に周囲に立ち込め始めた熱く臭い煙を吸ってしまって、喉を焼いた。激しく咳き込み、その隙に体勢が入れ替えられる。
「……ああ、そうか、そうだったんだ……」
仮面の男の白い手指がフィルの首にかかった。
視界がかすんでよく見えないけれど、白い仮面の向こうの顔がひどく嬉しそうな表情をしている気がする。
「君はそういう人だった……」
男のくすくすという笑いが次第に壊れたような哄笑に変わって、首に込められる力が増した。
「……くっ」
少しずつ空気が奪われていく。
「そうだ、マリーベルじゃない、ママじゃない、あんな薬なんかいらない、高貴な血も、美しい、いい子である必要もない――君みたいな人だったんだ」
仮面に開いた二つの孔から温かい液体が、フィルの頬に落ちた。
喉に絡みつく指をなんとかしようと、男の手を爪がはがれそうなくらいかきむしってもびくともしない。
「他人のために誘惑に抗い、自分をも犠牲にする……君さえいれば、僕はもう何にも怯えずにすむ……僕を、僕だけを愛して、守って、ずっと側にいて――」
気管が、肺が徐々に熱くなっていく。段々手指の感覚も心もとなくなっていく。
「……」
足音がして、目だけを動かせば、火と煙の向こうに誰かの足が見えた。
「っ、フィルっ!!」
(アレック、ス、だ……)
顔が見たい――そう渇望して、だが望みが叶えられぬまま、フィルは意識を手放した。