16-8.騒乱
異様な昼食会に異様な男、異様な傷跡、異様な笑い――蒼褪めながらも何とか正気を保って、フィルは仮面の男を部屋から送り出した。
そして放心状態で、ベッドに座り込むことしばし。
「……うぅ、後数日どころか今にもはげそう……」
頭を抱え込んで、フィルは唸り声を上げた。ついでにガシガシと頭をかきむしる。
「もういやだ、こっちまでおかしくなる……」
それからボサボサの頭のままよろよろと廊下に出、せめて部屋の空気ぐらいは爽やかにしようと、風を部屋に通すために窓に手をかけた。
吹き込んできた風は、ほんのり秋の気配を帯びている。
「あれは……マリーベル?」
脱力感と共に何気なく北庭を見下ろすと、小柄な女性がいた。仮面の男が自分の身の回りを世話させるのに、自室に隠すようにおいている彼女だ。その彼女が珍しく外に出、迷うそぶりもなくまっすぐ森の中へ消えていく。
(どうしたんだろう……って、なんだ……?)
不意に空気が揺れた気がした。森に囲まれた館の静寂を損なう気配に、フィルは部屋に駆け戻ると、今度は逆側の窓から身を乗り出した。
異常の場所は――右手、離れのあの邸だ。
耳を澄ますと、喧騒と何かが壊される音が聞こえてくる。それも……段々近づいてくる。
(そういえば、あの男、「もうすぐ」と言っていた……)
先ほどの仮面の男とのやり取りを思い出して、フィルは目を眇めた。
その上で、彼はフィルに自分を守るようにと言い、彼が一番執着していたマリーベルがなぜか今館を出て行った。
よくわからないが、何かが起こっている――。
「なら乗じない手はない……」
フィルは密かに決意を固めると、隠し続けてきたナイフを取り出し、部屋を抜け出した。
いつも静かな館内はざわついていた。語尾を長く伸ばす南方特有の訛りを含んだメーベルドの言葉がひそひそと流れ、ある者は足早にいずこかに向かい、そうでない者は廊下に出てきて不安そうに顔を見合わせている。
混乱に紛れて、フィルは西館に向かう。目指すのは四階にあるアリスの部屋だ。まず彼女を連れ出して、それから二階の医務室にいるだろうレイチェル。その上でマリーベルを追う――。
「っ」
突如響いた轟音に、脇の窓がびりびりと震えた。慌てて顔をそちらへと向け、フィルは窓から見える光景に息を飲む。
(あれは、投石機……しかも大型が二機……?)
最初に様子のおかしくなった西の離れではない。本館の南、背の高い、石造りの正門に向かって大きな岩が放たれている。
「なんだ、一体何が起きてるんだ」
「リアネルさまはどこだ」
間を開けて続いていく大きな破壊音に、唖然とした顔で窓の外を眺めていた邸内の人々は、顔色をなくし、館内はいよいよ混乱の様相を呈してきた。指示を下すべき人間がいないのだろう。
離れたこの場所にまで伝わってくる轟音と震動、もうもうと立ち上る砂煙は、フィルの目から見てもまるで戦争のような光景だった。
こんなことを今のカザレナで起こせるのは、騎士団だけだ。
では、その理由は?
フィルがここに囚われているからではない。騎士一人程度のことで騎士団は動かない。万が一動くとしても、あんな派手なことは絶対にしない。
(じゃあ、マリーベルたちの救出? でも、場所が場所だ、それも怪しい。となると……)
「……麻薬だ」
勘違いをしていた。そう悟ってフィルは思わず口を押さえた。
仮面の男はあの倉庫に薬を買いに来ていたんじゃない――売りに来ていたんだ。
「……」
フィルは唇を噛んだ。
つまり、メーベルド公国がカザレナに麻薬を流していたということになる。
あの男は自分の欲望を満たすために、それを流用していただけなのだろう。
彼は確かにおかしな部分があるが、それ以外は基本的に合理的だ。となれば、麻薬の本拠地は隠すにたやすく、攻めるに難しいこの場所で、館内にあるいくつかの隠し部屋がその貯蔵場所だろう。
(マリーベルはこの事態を予想したあの男に逃がされたんだ……)
あの男が誰より彼女に執着していたことを思い出し、フィルは眉根を寄せる。
窓の外では、正門が破られた。倒れた鉄製の大扉と巻き添えで崩れた周囲の瓦礫を乗り越え、黒い制服の一団が敷地内に走りこんでくる。
「アレックス」
先頭の集団の中に豆粒ほどの大きさの彼を確認すると、フィルは再び走り出した。
(間違いない、アレックスだ、騎士団だ……っ)
彼と仲間たちのところに駆け下りて行きたい衝動を無理やりのみ込んで、フィルは西館に走りこむ。
(危ないのはレイチェルとアリスだ。はやく助けなきゃ)
こうなった以上、特にレイチェルとアリスは有無を言わさず始末されてしまう可能性が高い。
喧騒が広がっていく中、フィルは目論見どおり四階からアリス、二階の医務室から具合の悪そうなレイチェルを背負って連れ出した。
正面玄関のある本館から西館にも混乱が波及してきた。人々は右往左往している。ある者は裏口や窓から逃げ出そうと試み、警備や上の立場の者に阻まれて、フィルには聞き取れない言葉で罵り合っている。
アリスの手を取り、レイチェルを背負ったまま西館の階段を駆け下りる。
フィルは内心で仮面の男が見当たらないことにかなり安堵していた。彼女たちを庇いながら、あの男と対峙できるとは思えない。
辿り着いた一階裏口でフィルはレイチェルを降ろし、アリスから離れる。
裏口の扉を押さえて騎士団の侵入を阻もうとしていた警備の二人を背後から近づいて昏倒させ、扉を内側から開いた。
「うわっ」
問答無用で切りかかってくる剣を、すんでのところで避けた。
「っ、フィル!」
「ヘンリック!」
思わぬところで見知った顔、しかも親友に出会えた――安堵と喜びのままに彼に抱きついて、それからフィルは一気にまくし立てた。
横には彼の相方のフォトンさんと他に二名。皆ぽかんと口を開けている。
「彼女たちを外へ。証人になる。こっちの彼女は天使の息吹の中毒作用で心臓が弱っているから、医師を手配して欲しい。あと、その天使の息吹は、本館の地下一階の隠し部屋にあると思う。中央の階段を降りて正面、鷲の刻まれた壁石を右に三列、床から五つ目の石を押したら開く。押し間違えると多分落とし穴に落ちるから気をつけて。そうでなきゃ、東館の二階の突き当たりから二つ目と三つ目の部屋の間の壁を探ってみて。隠し部屋があるはずなんだ」
それから「もう一人連れてくる」と言い捨てて、北に広がる林へと駆け出した。
後ろで「フィル、ちょっと待てっ」と叫ぶフォトンさんに、「大丈夫ですっ」と軽く手を振って。
* * *
「アーロン・メーベルド、自室、執務室共に確認できませんでした」
「しらみつぶしに探せ。油断するなよ、貴族の坊ちゃんの手遊びというには過ぎた使い手らしいからな」
「使用人は正面の広場にまとめろ。脅す必要はないが絶対に逃がすな」
騒然とするメーベルト公国外交官邸本館。玄関ホールに待機して指示を下しているウェズ第一小隊長と第二十小隊長のアレックス、ボルト第五小隊長およびアイザック第十七小隊長の前に、両脇を固められた禿頭の老人が引きずられてきた。
「報告します。モルド外交次官を確保しました」
「これは一体なんのまねだ、カザックの野蛮人ども!!」
「野蛮ねえ。麻薬で他者の国を蝕もうという貴官の口から出る台詞とは、とても思えないな」
唾を飛ばしながら精一杯の威厳を見せようと怒鳴った老人は、ウェズの皮肉を含んだ声に一瞬沈黙に陥った。
その場に立ち並んだ四人の冷たい目線にか、それとも威圧的な空気のせいか、モルドは徐々に蒼褪めていったが、数拍後には顔を引き攣らせながらもくつくつと笑ってみせる。
「麻薬とは何の話だ。なんの証拠がある?」
「『天使の息吹』、厳密にはアビスアの亜種シデンの乾燥葉が三十四メゲル押収されている。知らないとは言わせない」
平静を装って答えたボルトに、モルドは片頬だけを歪めて笑った。
「ほお。それがどこで見つかったか、当然私には訊く権利があるのだろうな?」
「貴国公館の西の離れだ」
内心の舌打ちを隠したアイザックの返答に、モルドの顔に血色が戻った。「やはりな」というようにニタリと笑った後、彼は語気を荒らげた。
「これはこれは、浅薄もここにきわまれり。あれは離れなどではない。敷地外にあることからもわかるように我が国とは一切関わりのないものだ」
「白を切らないでもらおう。地下の通路でこちらとあの邸は結ばれている」
「そちらこそ妙な言いがかりを付けるでない。この館は貴国のとある貴族から譲り受けたものだ。その者がそれを伝え忘れたのだろう、我らはそんな通路のことなど知らぬ」
モルドは高い笑い声を上げた。
「笑止! 濡れ衣も甚だしい! 外交ルールも弁えぬ分際で、何が大国カザックだ! 呪われた覇者とどこの馬の骨ともわからぬ成り上がりの賤民が作り上げた、歴史の浅い国など所詮この程度――ああ、その賤民が貴君らの基であったか、最強などと謳われているらしいが、それならばこの不明のふるまいも納得できようというもの」
国と建国王、騎士団と創始者――敬愛すべきものを貶されて、周囲の騎士たちは一気に殺気だった。
だが、アレックスが片手を挙げて仲間たちの血気を鎮めた。冷えた視線をモルドに落とし、冷笑を零した。
「メーベルド公王陛下は違う見解をお持ちのようだが」
口汚く罵りの言葉を続けていたモルドは、一瞬にして押し黙った。
見る間に白くなり、「どういうことだ……」と呟くと、「陛下と何を話した?」「大使はどこだ」と視線を左右に走らせ始めた。
ウェズは片眉を跳ね上げる。
アレックスのあれはもちろん嘘だ。麻薬へのメーベルト公国の関与が発覚してからさほど時間は経っていない。つまり、メーベルド本国、つまりメーベルト公王の意志によるものか、それとも駐カザレナ大使である公王弟の独断によるものか、確認するだけの時間はなかった。
アレックスは、公王が麻薬流布について既に認め、その責任を自らの弟に押し付けて切り捨てる気でいると嘯き、メーベルド側の綻びを引き出す気なのだろう。同時に、騎士たちの動揺を抑えこんだ。
つまり、あの泰然とした様相は、敵味方の双方に未確認の事項を真実だと思い込ませるための演技――だが、その内心はどんなものだろう。
数年前に自分の背を追い越したアレックスの端正な横顔を、ウェズは横目に見つめた。
表情は静かだが、顔色はひどい。昨夜は昨夜で吐いているのを見たとオッズが言っていたし、無理に仮眠を取らせたら半刻もしないうちに汗をかきながら跳ね起きたとレンセムが言っていた――そろそろ限界だろう。
ここにいるのかいないのか――とにかくフィルは未だに見つからない。さきほどから、館のあちこちから状況を知らせる伝令がやってくるたびに、アレックスは顔をかすかに歪めている。
「ほ、本国がなにを言おうと、我々にはなんらやましいところはない……っ」
モルドは再び持ち直したらしい。異様な光を帯びた目で再びアレックスに詰め寄った。
「どうせ証拠も無くこのような振る舞いに及んだことを誤魔化すための詭弁だろうっ、卑怯者めがっ、恥を知――」
「報告しますっ。天使の息吹は本館の地下一階の隠し部屋。中央階段をおりた正面、鷲の模様の石から右へ三つ、床から五つ目の石を押したら開くそうです! そうでない場合は、東館の二階の突き当たりから二つ目と三つ目の部屋の間にある隠し部屋を!」
息を切らして走ってきたヘンリックが、アレックスらを前に声を張り上げた。
モルドが目を見開いた後、信じられないものを見る顔でヘンリックを振り向く。
「火が出ましたっ!」
「第二中隊は消火に専念、第三・第四小隊は第十七小隊長の指揮のもと、証拠の確保にあたれ」
ウェズの声に、ボルトは消火を指示すべく、アイザックは隠し倉庫を確認すべく、周囲の騎士たちと共に駆け出して行く。
「ウェズ小隊長、アレックス、フィルが……」
「っ!」
『天使の息吹』が地下倉庫で見つかり、歓声があがった。
その声がヘンリックの耳に届いたのと、話を聞き終えたアレックスが駆け出したのは同時だった。