16-7.焦燥
フィルが姿を消して既に五日、騎士団は沈鬱な空気に包まれていた。
誰もが、特にフィルの所属する第一小隊が必死に彼女を探しているが、今のところなんの手掛かりも掴めていない。
あの晩取り逃がした、『天使の息吹』の元締めと思しき仮面の男に連れ去られて囲われているか、もしくは既にこの世に居ないか――。
あの時、フィルが男装をしていなかったことで前者の予想をする者もいたが、フィル・ディランの腕で逃げられない相手などさほどいる訳はないのだからと、時間が経つにつれ、後者を思い浮かべる者の人数が増えていく。
(どのみちアレックスにとっては最悪なことに変わりはないよな)
ロデルセンは騎士団に備えられた書庫を出たところでため息をつき、第二十小隊の部屋に向かって歩き出した。
「よう、ロデルセン、男の足取りは追ってるのか?」
「フィルの所在、あたりはついてるんだろ? 気を失った大人を連れて運河沿いに行けるところってなったら限られるだろうし」
廊下などですれ違うたびに仲間たちが繰り返す質問。気持ちはわかるが、正直なところロデルセンはこれにもかなり閉口していた。
(うるさいな、ちゃんと動いてるっての。それでなお、こんなところでくすぶってるのには理由があるんだよ)
書類を小脇に抱えたロデルセンは、彼には珍しく、かけられる声をことごとく無視して足早に歩き去った。
(……どうしてんのかな、フィル)
人気のないところまで来て、ロデルセンは入団以来親しくしてきた同期を思い、眉尻を下げた。
フィルは恩人とも呼べる、大事な仲間だ。
ロデルセンは自分には剣術などの才能はあまりないと思っている。騎士になりたくて努力して努力してようやく入団にこぎつけたけれど、浮かれていられたのは一瞬で、同期を含めた周囲の騎士たちとの才能を目の当たりにして絶望した。
その時救ってくれたのはフィルだ。周囲より弱い上に上達も遅くて、くじけそうになるたびに「ロデルセンにはロデルセンの長所とやり方がある」と真顔で断言して、修練にも根気よく付き合ってくれた。用兵などの学問では、いつも手放しで称賛してくれる。彼女がいなかったら、きっと自分はとっくの昔にいじけて退団してしまっていたと思う。
粗末な要塞に新人三人だけになり、何倍もの敵に取り囲まれた時も助けられた。自分は絶望していたはずなのに、フィルが「大丈夫、なんとかなる、なんとかできる」と笑うのを見るうちに、なぜか『大丈夫』と思えるようになっていた。彼女が言い出したとんでもない作戦にだって、気付いたら同意してしまっていて、詳細な計画を一から作らされた。そして、それは本当に『大丈夫』になった。
女性だと知った時は少し驚いたけれど、ロデルセンにとってはたいした問題ではなかった。性別云々より、フィルはどこまでもフィルで、ロデルセンが幼い頃から憧れてきた、アル・ド・ザルアナックに象徴される理想の騎士像そのもの。一緒にいるといじけていた気持ちがいつの間にか消えて、また頑張ろう、立派な騎士になるためにもっと努力しようと思える。多分それはロデルセンに限ったことじゃなくて、だからこそ五十二期生の退団率は他の期生と比べて群を抜いて低いのだと思う。
――そのフィルがいなくなった、自分たちの目の前で。
ロデルセンは階段を上りきったところで、辺りに人がいないことを確認して、歯を食いしばる。
あの晩フィルがあの倉庫に来たのは、第一小隊のミルト・ホルスンの娘を探してのことで偶然。あの時フィルが制服を着ていなかったのは、ヘンリックの恋人との約束のためでやはり偶然。不幸な偶然の重なりに、気が滅入ってくる。
もう一度息を吐き出して、この先の廊下の中央、第二十小隊の部屋に入ったら真っ先に目に映るだろう、その部屋の今の責任者の姿を思い浮かべた。
目の前でフィルを連れ去られた、彼女の恋人でもあるアレックスの様子は一見して変わっていない。
いつも通り的確そのものの指示を出し、極めて冷静に事を運んでいる。目立った進捗がなくても声を荒らげることも小隊員たちにあたることもない。
そのせいだろう、ここ数日そんな彼の姿を詰る者が増えてきた。曰く、フィルを心配していないのかと。
「あんた、こんなとこで何してるんだよっ、今フィルさんがどんな目に遭ってるか、気にならないのか!? 涼しい顔しやがって!」
――ほら、こんな風に。
歩き出したロデルセンの耳に、前方の部屋から怒鳴り声が届いた。部屋の分厚い扉は開け放されていて、黒い制服の小柄な背がちらりと見える。
「フィルなら無事だ」
静かな、けれど何かを押し殺しているとはっきりわかるアレックスの低い声が響いた。
(一体、どんな気分で言っているんだ……)
ロデルセンは眉を曇らせる。
アレックスの今の言葉には今のところ何の根拠もない。それを彼が自覚していないはずはないから、あれは彼の願望そのものだ。
(そんな残酷なセリフをなんで言わせるんだ)
頭に血が上った。いつもなら抑えなくては、と思うのにその気になれず、ロデルセンは足音荒く部屋に入る。
「邪魔だ、失せろ」
蜂蜜色の髪をなびかせながら自分を振り返ったミック・マイセンの幼さの残る顔を、思いっきり殴りつけた。自分の拳にも衝撃と鈍痛が走ったが、苦にならない。
「なにすん――」
気色ばんで殴り返してこようとしたミックの後ろ襟を、バステクが無言で掴みあげて、部屋の外へと放り出す。続いて入り口脇にいるオーリーが、音を立てて扉を閉めた。
ミックが扉を叩きながら何かを罵っている。扉ががんがんと音を立てる中、誰もが黙々と与えられた作業を再開した。
「……」
自席についたロデルセンは、何事もなかったかのように机上の書類を捲るアレックスにちらりと視線を向けた。
少しやつれてますます精悍になった感がある以外、彼に変化はない。だがほとんど寝てないし、食事だってろくにとっていないはずだ。
見かねたうちの小隊や第一小隊の面子が部屋に食事を持ち込むと、アレックスはこちらの心中を考えてくれるのか、少しだけ口をつけるが、それだって申し訳程度だ。
レンセム補佐が寝てこいと部屋に帰そうとしたのも、頑なに拒否していた。横の小部屋で仮眠を取れ、判断が鈍るという副団長の命令にはしぶしぶ従っていたから、きっとフィルとの部屋に帰りたくないのだろう。
目の前の書類を睨むように見つめつつ、ロデルセンは机の下で赤くなった拳を握り締めて小声を漏らす。
「……ちくしょう」
あいつらは知らないのだ。あの晩、フィルの名を呼ぶアレックスの声がどんな音をしていたか。
それだけじゃない、仮面の男が逃走に使ったと思しき運河を睨んだ時、彼の瞳に浮かんだ悲痛な色も、倉庫に遺されたフィルの片方のサンダルを見た時の焦燥も何も知らない。
ほとんど寝ていないのに、判断を少しも損なわない強靭な精神力が何によって支えられているかだってわかっていない。
――すべてはフィルのためなのに。
一際強く扉が叩かれ、ロデルセンはうんざりとした表情を顔に乗せる。
オーリーが剣呑な視線で立ち上がって扉に向かい、アッシュはアッシュで指の骨を鳴らしている。
「朗報だ。フォルデリーク、お前の読みどおりだったぞ」
予想に反して、部屋に入ってきたのはアイザック第十七小隊長だった。だが、朗報と言うわりに彼の表情は明るくない。
「メーベルド公国の外国公館――旧ロンデール公爵邸で当たりだ。一年ちょっと前に売り渡されたらしい。その離れに元締めが出入りしていることも確認が取れた」
出てきた二つの名前に、ロデルセンはアイザックの顔の意味を理解した。
「離れと言っても敷地としては館の外、所有権は幽霊商会――それで間違いはないな?」
バステクがアッシュに確認を取り、彼が頷いたのを受けて、「証拠をそこで握ってそこから公館そのものに突破を図る、か――博打だな」と唸り声を上げた。
「向こうはいざという時の尻尾切りにするために敢えて敷地外を選んでるんだろうし、そこを叩くのに異論はねえが、問題はその先……アレックス、その離れとやらは公館に本当に繋がってるんだろうな……?」
レンセム補佐が重い口調で、アレックスに質問を投げる。
四十五年前に締結されたアルマナック条約に基づき、他国の外国公館で起きる事柄に、騎士団の権限はおろかカザックの法律も及ばないことになっている。例外として接受国の存続に根本的な問題が生じるような事項とあるが、それが具体的にどんな状況を指すのか、現段階では明確ではない。
その曖昧さをついて、メーベルドの公館に踏み入り、そこで国ぐるみでカザックに麻薬を流している証拠を挙げるという騎士団の方針に、当然ながらカザック国王はかなり慎重な姿勢を見せたという。最終的に、フェルドリック王太子が麻薬の流布は国の存亡に関わる事項以外の何物でもない、手遅れになる前に食い止める必要がある、と擁護してくれたおかげで、その方針が採用されたわけだが、元々証拠を見つけることができたとしても、間違いなく問題になるやり方だ。
(ましてそれが見つからなかったら……)
ロデルセンは部屋の奥に座ったアレックスの顔をうかがった。窓越しの光が影を生んで、表情の細部が見えないのがもどかしい。
「私事ではありますが、政敵の家ですから、元々構造は把握しています。念のためロンデール家に勤めていた複数の使用人にも確認を取りました」
アレックスは「強引だという指摘も懸念も理解しますが、押し切ります」と断言する。
「麻薬で国民が蝕まれる――戦争を仕掛けられているのとなんら変わりありません。どうせ外交問題になるんです。なら根本を叩いて病巣を除くことができ、かつそれ自体を証拠にできるこのやり方は悪くない」
「証拠が挙がれば、の話だ。万が一失敗したら大問題だぞ」
「このまま放置することこそ問題です。大丈夫、証拠なら挙がります」
硬い顔をしたレンセムに淡々と答え、アレックスはアイザックから渡された書類をめくった。
「メーベルトのほうはそれでいくしかないとして、今回の件、ロンデール家は関わってるのかな」
ワズが嫌悪を露わに顔をしかめた。
「メーベルド公の祖母が、カザレナ朝の最後の王ディッケンスの姉なんだったか……現状不満だらけの奴らがやりそうなことではあるな。ゼッセンベルがダメになったことだし」
「けど、尻尾は掴ませないんだよなあ。この前のハフトリーたちの件といい……」
「世間話としか言えない程度のやりとりで、体制への相手の不満を煽り、策謀を起こすよう仕向ける際も仄めかしを駆使。まったく関係のない事業を起こさせて自ら策謀の資金を作らせ、ロンデール家の関わりはその事業への投資という形のみ……いやらしいやり方だよ、ほんと」
「暇なわけでも困窮してるわけでもあるまいに、なんでそこまでするかねえ。権力への執着ってやつ?」
黙って聞いていたアレックスが、「それならまだいい」と独り言のように呟いた。
集まった怪訝な視線を振りほどくかのように、彼は首を横に振った。
「今集中すべきは、踏み込んだ公館で『天使の息吹』を見つけることだ。それから――」
そこまで言ってアレックスは、何かに耐えるように眉を寄せ、そのまま口を噤んだ。
誰もが彼の言いかけたことと同じことを考えたのだろう。部屋に沈黙が広がった。
アイザックがゆっくりとアレックスの机に近づき、別の書類を彼に手渡す。そして「色々探ってはみたんだが」と奇妙なほど平坦に告げる。
「そこにフィル・ディランが連れ込まれたかどうかについては確認できなかった」
アレックスが一瞬顔を歪め、彼以外の全員が息を止めた。
「……レンセム補佐、フェルドリック殿下へ連絡をお願いします」
だが、アレックスはすぐに落ち着きを取り戻し、今後の指示を下し始めた。その語尾がわずかに震えているのに誰もが気付き、気付かない振りをした。ロデルセンがそうだったように、他の誰もそれ以外の対応を思いつけなかったのだろう。
「ロデルセン、団長室に集合せよと一から八の小隊長たちに連絡を。メーベルド公国外国公館西方の邸、その後に公館そのものに踏み入る」
この数か月間証拠を積み上げ、根回しを重ねた結果だったが、やはり大事となった。王都で中隊を二つ出す異様さに、否応なく緊張が高まる。
誰もが慌しく駆けだして行く。そんな中、最後に部屋を後にするロデルセンの耳に、背後から擦れ声が届いた。
「……フィル」
暗く悲愴なその声音に、ロデルセンは大きく顔を歪ませた。