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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第16章 天使の息吹
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16-6.消耗

 開け放った窓から、明るい日差しが風と共に流れ込んでくる。光に透ける白いレースのカーテンがふわりと揺れ、ベッドに横たわったままのフィルに花の香りを運んできた。

「……ん」

 もう昼近い。影の短さにそう悟ってフィルは身を起こした。ここに来てから既に五日。ずっと寝不足なせいだろう、ひどくだるい。

(……もううんざりだ)

 身につけている白い絹のナイトドレスがふと視界に入って、フィルは長々と息を吐き出した。


 広い部屋のこれまた無駄としか思えないほど広いクローゼットの中、一番手前にかけられているドレスを見て、フィルはまたため息を吐く。

 仮面の男の今日の好みはこれらしい。肩の細い白地のドレスは、胸の下あたりで薄い緑の布で絞ってある。

 ドレスに、レイチェルがヨールだかシールだか言っていた、同色の薄い布がかかっているから、これを後で肩から羽織らなくてはいけない。透けていて、開いた胸や肩を隠してくれるわけでもない。邪魔なだけで何の意味があるのか、さっぱりわからないが、そうしなくてはまずいことになる。

「白、白、白、白、白……ちょっとの違いはあっても全部白。どれだけ好きなんだ」

 太ももに巻きつけたナイフのバンドを一端外し、ぶつぶつ言いながら不承不承着替え始める。

「ああ、もう、あとどれだけこんなことが続くんだろう……」

 そう呟いて、フィルは顔を歪めた。


 この五日間の収穫は、ここは本当にメーベルド公国の外交用の官邸で、女性たちを麻薬づけにして侍らせているあの仮面の男こそが、大使その人、しかも現メーベルド公の弟だということ。

 知って、「世の中どうなってるんだ……」と呻いてしまったフィルは、今回ばかりはきっと正しい。

 それからふと気付いて蒼褪めた――アレックスも仲間たちも多分ここに簡単に来られない。

 攫われた当初は、アレックスも騎士団の皆もあそこにいたのだし、すぐに助けが来るとなんとなく楽観していた。だから剣がない状況で、おそらくかなりの使い手だろう仮面の男に対峙して、人質の女性三人を連れて館の警備を突破、背丈の三倍はあろうかという塀を乗り越えるなんて無茶をしなくても大丈夫だ、と。

 けれど、ここが外国公館となれば、話はまったく違ってきてしまう。


 着替え終わったフィルは、南に面した広い窓に寄って、そこにおいてある白と銀の猫足の椅子に腰掛けると、窓枠に顎をのせてため息をついた。足元がスースーするのには何とかなれてきたけれど、腰に剣がないのはひどく居心地が悪い。


「確か外国の大使館には、基本的に入れない……んだったよね?」

 騎士団の講義、最初の最初の方にそう習った。巡回の最中になにか起きても不用意に入ってはいけない場所というので。

 元になっている何とかという条約があって、講師の先生がそれを詳しく解説していたけれど……。

「よく覚えてないんだよなあ……」

 フィルは情けない声を上げた。頭に残っているのは、『ええと、つまり……何かあったら、アレックスとか小隊長とか副団長に言えばいいってことだ』という能天気な要約。今回ほど自分の頭を呪ってしまったこともそうない。


 三階のこの部屋は館の正面、つまりは本館に位置していて、東西に別館がある。

 建物の外には警備の兵士が常に巡回していて、場所によってはたくさんの犬と数匹の従虎が放たれている。

 敷地の外周は石積みの高い塀でぐるりと囲まれ、さらにその周りには青々とした森が広がっていた。

 遠く、森の向こうにカザレナの町並みが見えるけれど、この辺は人の気配がほとんどしないから、王都北東の高台、いわゆる超高級住宅街のあたりだろう。

 その森の一角、右手にオレンジ色の屋根が見えたので、そこの住人と何とか連絡がつけられないかと思ったけれど、どうやらあそこもここの関係者が出入りする離れのような場所だと知ってあきらめた。

 フィル一人なら逃げることはできる。が、人はともかく、動物に一切気付かれずに動くというのはとても難しい。

(そうなったら騒ぎになる。私が逃げ出した、もしくは逃げ出そうとしたと仮面の男が知れば……)

「……」

 ここ五日間、何かと共に時間を過ごす羽目になっている男の粘りつくような視線を思い浮かべて、フィルは暖かな日差しの中、ぶるりと身をふるわせた。


 本人が言っていたように、紳士は紳士なのだ、フィルが彼の言うとおりにしている限りは。

 作法も、男性に厳しかったフィルの祖母であっても満点を出さざるを得ないだろうというほどだし、教養もあって会話もいつもスムーズ。頭もいいのだと思う。けれど……やはりどこかがおかしい。

 その上、相当の剣の使い手……あれほどの力量だ、対峙すると想像したら、普通ならウキウキするのにぞわぞわするだけ。なんとなくだが、万が一ウェズがおかしくなったら、あんな感じになるのかもしれない――抜き身の剣が殺気を露わに、誰彼構わず切りかかる相手を探している感じ。


 フィルにとっての人質、けれど本人たちに人質の自覚は一切ないだろう、いつも笑っている茶髪・水色の瞳の三人の女性たちは、問題となっている麻薬『天使の息吹』にどっぷりと浸らされているようだった。

 仮面の男はそのために『天使の息吹』をたくさん手に入れているようで、アレックスたちが張っていた場所に現れたというのもすんなり納得できた。

「ほんと、メーベルド国の人は誰か彼を諌めたりしないのかな……」

 フィルは窓枠に顎を乗せた態勢のまま、呆れと共にぼやく。

 ちなみになぜそれがわかったのか?

 なんのことはない、女性たちに質問したら、望む答えはなんでも返ってくる――出身、年齢、家庭環境、いつどういう経緯でここに来たのか、毎日朝吸わされているタバコのような葉のこと、仮面の男の素性、白と母親が大好きだという性癖、などなど彼女たちが知る限りなんでもありだ。素直も素直、まさに噂に聞いていた『天使の息吹』の症状そのもの。


 フィル自身は幸いなことに麻薬を与えられてはいないし、出会った時の格好が幸いしてか、騎士だとばれていないらしく、そういった警戒もされていない。だから身体を検められたことも無く、ナイフもそのまま、見張りもなし……実はばれているけれど、大した腕じゃないから放っておこうと思われているのだとしたら、剣士としてこんな屈辱はないけれど。

 まあ、それはそれ。せっかく自由なのだし、何か手はないかと夜な夜な館内を徘徊して回ったところ、本館と東西の館、どれも内部の見張りは人数、質共にたいしたことは無かった。やはり問題は外の犬や従虎たちだろう。

 それからこういう館には珍しくないのかもしれないけれど、祖母が好きでザルアの別邸にもたくさんあった隠し通路や隠し部屋なんかが結構あった。使われているのとそうでないの、探すのがちょっと楽しかったのはここだけの話だ。

 あとは、ここに来た時に庭で見つけた紋様がメーベルドのそれに紛れて、目立たない部分のそこかしこに。

 確かにどこかで――多分王宮――で見た記憶がある。どこかの家の家紋だろうかと疑っているのだが、これもまた良く思い出せない。


(アレックス、心配しているだろうな……)

 晴れた秋口の空の下、眼下に広がるカザレナの街のどこかにいるだろう彼を思って、フィルは口と眉をへの字に曲げた。

 彼はいつだってフィルのことを考えてくれる。だから、最大限したいようにさせてくれる。でもいつも心配してくれていると、今は知っている。

(ヒュドラの時だって、私が怪我をしたことであんなに自分を責めてた……今、どうしてるだろう……)

 最後に自分の名を呼んだ彼の声を思い出すと、フィルはとてつもなく居た堪れなくなる。すぐにでも帰って、大丈夫だと、心配かけてごめんなさいと言いたい。

 一人ならできる。けど、あの三人を思うと……。

「うー、ごめんなさい、アレックス……」

 呻き声を上げて突っ伏したところで、開け放した窓からちょっとしたざわめきが流れ込んできた。


「……?」

 誰か大事な客でも帰るのだろうか? 視界の斜め下、正面の大きな扉が開いた。

 周囲の者が頭を下げる真ん中を出てきたのは、この館の実質上の支配者らしい天辺禿の外交次官ともう一人。

 フィルは視力を活かして、その顔を詳細に見つめて首を傾げた――あの人、はフェルドリックの部屋の前で出会ったことがある。

 そう、フェルドリックを訪ねたフィルとナシアを見て露骨に眉をひそめ、ロンデール副団長と話していたのを切り上げて、足早に歩み去っ……。

「おお、そのロンデール副団長だ」

 あの紋様。確か彼の近衛の制服のボタンにあれが刻まれていた。文字通り金でできた近衛の制服のボタンには、持ち主の家の家紋が刻まれるとミレイヌが言っていた。

「つまり……ロンデール家??」

 フィルは目を丸くした。一体何がどうなっているのだろう……?


 物思いの最中にいきなり響いたノックの音にフィルは、「みぎゃっ」と叫んで飛び上がった。

「フィルさま、ご主人さまがお見えになります。一緒にご昼食を、と」

 アリスの声に息をのむと、フィルはベッドに放り出してあった薄布を取りに走った。不格好ながらも慌てて肩に巻きつけ、入り口の見える位置に立ち、顔に引きつった笑みを貼り付ける。

 そしてスカートの内に隠したナイフの感触を確かめた。

 ――もうすぐフィル史上、最強で最凶に壊れた人がやってくる。


「やあ、フィル、機嫌はどうだい?」

 そう言う仮面の男は、今日は機嫌がいいらしい。仮面の向こう、目が珍しくちゃんと笑っている。悪いよりは扱いやすくていいけれど、なんだか面白くない。

 だから「良い訳はないでしょう」とこっちの本音を言ってやりたくなったけれど、そこはぐぐっと我慢。

 前に一度本音をさらしたら、目の前でレイチェルが殺されかけた。絞める方も笑っていたが、レイチェルの方も首を絞められているというのになお笑っていて本当に怖かった。夢に見そうだった。

「ええと、それなり、です」

 仮面の男は嘘にも敏感。ここで、『最高です』などと言おうものなら、本音と同じ危険が待っている。

 仮面の男の斜め後ろで今もにこにこと笑っているアリスにちらりと目を向け、フィルは眉尻を下げた。


 男に手をとられるまま、大人しく席に向かう。

「あの、お客さまだったのですか?」

「うん? 何か気になるのかい?」

「え゛」

 横を歩く男に質問を返され、思いつくまま疑問を口にしたことをフィルは後悔した。

(ど、どう答えよう? 下手な答えは許されない……)

 のはわかるが、何が下手な答えで何が上手なのかフィルにはよくわからない。

「い、いえ、気になるというか、その、さっき人を見かけたものですから……ああ、でもこうやってわざわざ訊いているということは、気になっている、のでしょうか」

 しどろもどろになりつつ答えたフィルに、仮面の男は小さく笑ったようだ。椅子を静かに引き、そこにフィルを座らせた。

「持ちかけて来る話は少々俗物だが、それなりに面白い人でね。女性の話になった時に君の話をしたら、ひどく興味を持っていたよ。なんでも彼が強く思い入れのある人に良く似ているのだそうだ」

 この美しい髪とかね――彼はそう言って、フィルの短かめの金の髪を指に絡め、口付けを落とした。

「……」

 同じことをアレックスにされた時は、全身に血がめぐって大変だった気がするけど、今はまったく平気。それどころか「うげ」となっているのはなぜだろう……?

 思わず眉を寄せたフィルに、男は声を立てて笑った。「大丈夫、あんな醜い年寄りのところにやる気はないから安心するといい」と。

 はぐらかされたのだろうかと思ったけれど、あれが誰なのかを怪しまれずに聞き出す方法をそれ以上思いつけなかった。


 食事の載ったワゴンが運ばれてきて、アリスが給仕を開始した。白のエプロンが昼の日差しを反射して眩しい。

「? 今日レイチェルは?」

 いつもフィルの部屋に食事を運んできてくれるのは三人の中で一番古く――とは言っても半年らしいのだけれど――にさらわれた彼女なのに。

「休んでいる。胸が苦しいらしい。人は脆いね」

 まあマリーベルが見つかったことだし、彼女にはもう用はないけれど、と仮面の男は口だけの笑みを作った。

(用はないって……いや、それより胸――末期の中毒症状じゃないか)

 まさかこんなに早く出てくるなんて、と蒼褪める。続いて焦りが生まれた。

「――フィルもいてくれることだしね」

 そう呟いた男は機嫌を一転させると、そのまま黙って食事を開始した。沈黙が落ちた室内にカチャカチャと食器を扱う音だけが響いた。


 彼に神経を向けつつ、フィルも黙って酢漬けの野菜を口に運ぶ。

 一度フィルが招かれた彼の執務室には、たくさんの肖像画が飾られていた。その中にいたただ一人の女性――仮面の男の母親だというその人に、三人はどことなく似ていた。髪の色、瞳の色、中背ですこしふっくらした、女性らしい体型。確かにマリーベルがあの三人の中では一番似ている。

 母親の面影のある女性を探して麻薬漬けにし、監禁する――病んでいると言ってまったく差し支えないと思う。

 普段の彼は、それこそ大使に相応しい大人の男性だが、何かの折に子供のように振るまう。そして三人やフィルに、まるで母が子に接するかのように振るまうよう求めるのだ。

 口調が変わり、癇癪を起こして、それを宥めさせ、何の脈絡もなくいきなり子守唄を歌わせる。ベタベタと甘えてくることもある。中でもマリーベルにはべったりだ。

 切り替わるタイミングがまったくわからないし、はっきり言ってめちゃくちゃ気持ちが悪い。けれど――実際には助かっているのだと思う。言う通りにしている限りは、何の危害も加えられないから。


「あの女さあ、」

 男が脈絡なく話題と口調を変えるのはいつものこと。男の声がいきなり殺気をはらんだ。

 慌てて手元から顔を上げると、仮面の男は両手のナイフとフォークを皿にだらりと落とし、正面からフィルを、いや、正確にはフィルの向こうを見ている。仮面に開けられた二つの孔の奥にある瞳がひどく虚ろで暗い。

(……ど、どの女?)

 聞き返すべきか聞き返さざるべきか――。

 頭を使った駆け引きはフィルの最も苦手なことのひとつだ。アレックスの能力の十分の一、いや、百分の一でもあれば、とここに来てから何度願ったか。このまま更に五日ここにいたら、確実にはげると思う。

(そうなったら、頭部の防御力が減る……!)

 第十一小隊のゼンゲル補佐が、ちょっとしたものがぶつかるだけで傷になると嘆いて……わかっている、現実から逃避した。

 フィルは気力を総動員して、目の前の男に意識を戻す。

「あの時……襲われた時、僕を差し出して逃げたんだよね……かわいい、かわいいって言ってたくせに……。その後は僕を見る度に、気味が悪い、近寄るな、だって……」

 声音の異常さにフィルは額に汗が滲み出てくるのを感じた。

「せっかくもう一度チャンスをあげたのに、それも理解できないような愚かな人だったんだ……」

 くつりと彼は笑ったが、仮面の奥、瞳はまったく笑っていない。

「でも……フィルは違うよね?」

(も、もういい加減限界だ――)

 クツクツと笑いながら向けられる視線に、フィルは引きつった笑顔を向けつつ、冷や汗を流す。

 何とか逃げる方法を見つけなくては。レイチェルは恐らく医務室、アリスは自室だろう。マリーベルは……自室、それとも男の居室だろうか?


「もうすぐ、だ……」

 男の笑いが哄笑に変わっていく。

 アリスが差し出した湯気の立つ茶を前に男は立ち上がり、対面するフィルに近寄ってきた。横に立ち、白い手をフィルの頬に伸ばしてくる。

「っ」

 フィルは出そうになった悲鳴をすんでのところでのみ込んだ。

「約束はちゃんと守ってね、フィル……」

 男が逆の手を仮面にかけた。ゆっくりとそれを取り払う。

「!」

 人形のように整った顔だった――左耳の際から頬にかけての部分が抉れて、その周辺の肉が歪に盛り上がっている以外は。

「痛かったんだよ……あの魔物、僕を食べようとしたんだ」

 ――でも、今度は大丈夫だよね?


 フィルの手を取って、その傷跡に触れさせ、彼はにいっと微笑む。赤い唇が、出会いの晩の道化の仮面とまったく同じ弧を描いた。

 仮面を脱ぎ捨ててなお、不気味な笑い顔だった。


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