2-9.呼吸
小道を辿って、森の奥へと進んでいく。
時折、風に木々が歌うように揺れ、足元で木漏れ日がキラキラと踊る。草の陰からウサギが目の前へと飛び出し、フィルを見て目を丸くした。樹冠の合間に広がる青い空を見上げれば、白い雲が日の光に輝きながら流れてくる。道に落ちるその影を追いかけながら、どんどん奥へと駆けていく。
すると、突然視界が開ける。目の前の空間の中央に、石と木で出来た、温かい外観の二階建ての屋敷。周囲には春の可憐な花々がやはり風に踊り、ミツバチたちが忙しなくその間を行き来している。
屋敷の向こうにはフィルのお気に入りのルトナの大木があって、そのさらに向こうが未だに雪を冠したまま聳えるザルア山脈だ。
あと数週間もすれば、あの山に住む山守のロギア爺に会いにいけるくらいに雪は溶けるだろう。冬の間、必死で修行したのだ。今年こそは、あそこにいる根性悪の魔物たちの鼻を明かしてやれるはずだ。
屋敷の屋根に生えている煙突から、煙と共に香ばしい匂いが漂ってくる。『今日の夕飯は婆さま特製の鱒のパイだ』と悟ったフィルは、顔を綻ばせた。
駆け足で屋敷へと近づく。だが、途中で栗毛の馬が屋敷の影から姿を現し、フィルを見て嬉しそうな顔をした。それが幸せで、フィルは方向を変え、彼に走り寄った。
「ジャン、ただいま。後で一緒に出かけようね」
そして、彼と鼻を突き合わせてただいまの挨拶をする。
改めて屋敷の正面のドアへと駆けて行って、その大きな木製の扉を両手で押し開いた。
「?」
違和感が頭を掠める。取っ手の位置が随分低い気がする。首を捻ったが、聞こえて来た声に疑念は霧消した。
「フィル、おかえり」
「夕飯はフィルの好物よ」
ナツカシイ――その声に笑顔を零せば、なぜか涙腺が緩んだ。
(……?)
それにも違和感を覚えたのに、幸福が勝った。フィルは「ただいま」と言いながら、元気に声へと向き直る。
(どこ?)
けれど、そこに期待した姿がない。左右をきょろきょろと見渡し、それでも見つけられないことに顔から血の気が引く。
(あれ、だって確かにさっき……)
先ほどの幸福で温かい気分が嘘のように消え、次いで焦り始める。
「……爺さま、婆さま?」
早足で台所を覗く。そこから漂うのはやはりパイの香り。けれど、そこに誰もいなくて段々呼吸が早くなっていく。
食糧庫を覗き、居間を覗き、書斎を覗き、寝室を覗き、自室を覗き、書庫を覗き、客室を全て覗き、頭に1つの思いつきが頭を掠める。
――ダレモイナイヨ
それに体の芯が冷えるような感覚がして、頭を必死に振る。
「爺さまっ、婆さまっ」
きっと外にいる――音を立てて勢い良く玄関のドアを押し開く。
「……ジャン?」
さっきまでそこにいたはずの馬のジャンもいなくなっていることに気付いて、今度は慌てて馬小屋へと走る。
「ジャン……っ」
けれどそこにいたのは、ジャンではない白い馬。
「……っ」
呼吸が段々苦しくなる。
――シッテイルデショウ?
(知らない、知りたくない……)
何かから逃げるように裏戸から屋敷に駆け込んで、屋敷の廊下を必死に走る。
「あ」
廊下の奥に翻ったドレスの裾、あれは婆さまが好きだった色だ。
(ほら大丈夫……)
「婆さまっ」
笑みを浮かべてフィルは走り出す。きっと彼女は自分を振り向いて、『お帰り、今日はどんな冒険をしてきたの?』と笑うはずだ。
「?」
だが、必死に走るのに、その背はなぜか大きくならない。
「っ、爺さまっ」
遥か向こうで、祖父が両手を広げて祖母を迎え入れた。優しくお互いを抱きしめる。
大好きだったその光景が、今ひどく悲しいのは、彼らがさらに自分から遠ざかっていくから。そして――シッテイルから。
――イヤダ、オイテイカナイデ
必死で走って、もう一度玄関のドアをくぐる。
「っ」
開いたドアの先に見えたのは、豹に似た魔物二匹に背負われて山の奥に消えていく山守の老人の姿。
「あ……」
――モウワタシハ、ヒトリ……
思い浮かんできた言葉を振り払おうと、必死で首を振った。
それから逃げたくて屋敷に踵を返したのに、開いた戸の向こうは再び屋敷の外。森の間の、さきほど花に埋めつくされていたその空間を今埋め尽くしているのは、黒い服を着て泣き崩れる人々。
「……っ」
――コレハアノヒノコウケイ
呼吸が止まった。目の前の光景をこれ以上見続けるのが嫌で、顔を覆おうと両手を顔の前に広げる。
「ぁ……」
けれど、その手が思い描いていたものより遥かに大きくて、フィルはさらに顔を歪める。
(ああ、そう、だった、私はもう十六で、)
ミンナイナクナッタ――知っているでしょう……?
「……っ」
眦から零れた液体が耳に落ちた。フィルは両眼を見開く。
窓から漏れ入る微かな明かりが、夜明けが近いことを伝えてくる。だが、冬の明け方、冷え込みが厳しいせいもあるのだろう、外はいまだ静寂に包まれていて、小鳥すら鳴いていない。
「……」
フィルはゆっくりと両手を持ち上げて、その大きさを確認する。その手の向こうに見えるのは木製の天井だ。
(そうだ、ここは騎士団。私の部屋だ……)
フィルは目線を左に向けて、隣のベッドにアレックスの姿を認め、息を吐いた。
(こっちが現実だ。みんなもういない……)
「……馴染んできたせい、かな」
すっかり冷たくなってしまった頬の雫を夜着の袖で拭いながら、フィルは身を起こす。
緊張し通しだったここ数ヶ月は見なかった、けれど少し前までは何度も何度も見た幸福な夢。大好きだった人たちが、みんないた頃の夢。温かい空気に包まれていた、あの頃の……。
夢の最初はとても幸福なのに、せっかくの夢なのだから、ただ幸福なままでいられればいいのに、フィルはいつも最後に焦り始める。いなくなってしまうという焦燥に駆られて、ある時はみんなを探して闇雲に走り回り、ある時は必死でみんなの名を呼ぶ。寂しくて、怖くて、呼吸が止まったところで、いつも夢は終わる。そして、泣きながら目を覚ますのだ。
大好きな人たち――自分を見て笑い、自分のために手を差し出し、無条件で自分の幸福を願ってくれた人たち。その彼らは1人、また1人と逝ってしまって、今はもう誰もいない。
「……」
もう一度眠れる気もしなくて、フィルは膝を抱えてその間に顔を埋めた。そうすれば、こんな寒い朝でも少しは温かく感じられる。
祖父が生きていた頃までは毎日あった、自分を包んでくれる温もり。それがないことがこんな朝は無性に寂しくなる。
今日はきっと、現実こそが夢のように感じてしまう、そんな一日になるのだろう。
しっかりしなくてはいけないのに、アレクを探して、ここに居場所を作るために頑張らなくてはいけないのに、こんなことでは――。
* * *
フィルが巡回に出られるようになるまで、アレックスは小隊の中で相方が休みを取った者などと共にその任務にあたることになる。
今日の午後の巡回の相方は、フィルがここに来るまで組んでいたイオニア小隊長補佐で、特に問題なく任務を終えることができた。
夕方その彼と共に騎士団本営の門をくぐれば、ヘルセンとオッズがやって来て、自分達を見て眉を顰めた。
「フィルを知らないか? また消えたんだ」
「あの馬鹿、色んな奴に目ぇつけられてるってのに、危機感ねえんだよな……」
ヘルセンの声に続いてそう呻いたのはオッズだ。つられてアレックスも顔を歪める。
「あいつの腕なら滅多なことは起きねえだろうけど、色々抜けてるし、相手も一応騎士だしなあ」
「アレックスの時もそうだったが、胸の悪くなる話だ」
「心当たりがありますから俺が。補佐、小隊長への報告、お願いしてもいいですか」
そう三人に告げて、アレックスは中庭へと向かった。
中庭の大きな木の上。樹木に覆われて鬱蒼としている、人がほとんど来ないその空間が、フィルの騎士団でのお気に入りの場所だ。
四年前、アレックスが入団してこの場所を見つけた時に、『こんな木があれば、フィルなら絶対登るな』と思ったとおり、フィルは初日の初日にいそいそとその木に登って嬉しそうに笑った。「ザルアの匂いがする」と。
以来彼女が姿を消す度に、アレックスはここを最初に探すようになった。そして、それは彼女が何かしらの騒動に巻き込まれているのでない限り、十中八九あたる。
今もそうだ。彼女は夕日を横顔に浴びながら、その木の梢に腰掛けて、赤く染まった天を仰いでいる。
「……アレク」
「っ」
だが、声をかけようと口を開いた瞬間に、懐かしい呼び名が耳に飛び込んできて、アレックスは心臓を跳ねさせた。
今はもう誰にも呼ぶことを許していない名――無気力で、周囲の顔色だけを見て、彼らの望みに合わせてただ呼吸だけしていた頃の自分を象徴する名だ。
それを呼ぶのは、もうこの世に1人しかいない。そして、その人こそがその名を呼んでも構わないと思えるたった1人――そんな自分に手を差し出して、昏いその場所から抜け出させてくれた人だ。
(探している、のだろうか、“俺”を……)
高い梢に腰掛け、空を見ているフィルの表情は下からは窺えない。
『あの、妹さん、いらっしゃいますか?』
最初の休みの日にフィルが訊ねてきたあの質問は、だとしたら、やはり“アレックス”を“アレク”の兄と思ってのことなのだろうか?
喜びが湧き上がる。フィルが“自分”を思って、名を呼んでくれること。それから“自分”を探してくれていること。忘れられているかもしれない、そう思っていたから尚更。
同時に怯えが首をもたげた。
知られたくない――あの“アレク”が、自分だと。
フィルに恋をしていたのに、彼女を守れなかった自分と、自分を守ろうと体に大きな傷を負い、その自分を親友と決めたフィル。
まだ言えない、まだ彼女を守れるまでになっていない――。
『……いや、兄、はいる、が』
嘘ではないだけで、真実を告げたとは言いがたい、あの日の自分の答え。あれはただただ保身に満ちていて、彼女への思いやりを一片も含んでいなかった。気のせいでなければあの時も今もフィルはとても寂しそうな顔をしている気がするから。
「……」
自分の卑怯さを突きつけられた気がして、アレックスは知らず呼吸を抑える。
「……フィル」
息苦しさから逃げるように出した声は掠れていた。だが、昔そうだったように、彼女はちゃんと気付いてくれる。
「アレックス」
枝の上で振り返った彼女はアレックスを見て、何度か瞬いた後、笑みを顔に浮かべた。その表情に胸が詰まる。
「ご飯、食べに……って、アレックス?」
「結構難しいものだな……」
アレックスは枝を掴むと、この八年で増した筋力に任せ、上へと自分の身を引き上げた。ザルアでフィルと過ごして以来の木登りはやはり難しい。不安定な足元に眉根を寄せつつ、次の枝に取り掛かる。
「……っ」
「わっ、アレックスっ」
上がった枝の上でバランスを崩しそうになった瞬間、一段上にいたフィルが手を貸して支えてくれた。驚いた顔をしていたフィルは、次に「危なかったですね」とくすくすと笑い出す。
『あと少し、アレク』
『うん……ここに手をかけて、こうして……っ!』
『うわっ、アレクっ……あ、危なかった』
『本当、危なかった……ありがとう、フィル』
――それはまるであの夏の一場面。
「……ありがとう、フィル」
気付くだろうか? 本当は気付いて欲しくない。でも、あんな顔をさせておくくらいなら、気付かれたって構わない。
「下手だと思っただろう?」
「はい」
そんなことでしか合図を送れない自分への嫌悪を押し隠しつつ苦笑してみせれば、フィルは明るく肯定した。笑いながら一段降りてきて、横に並ぶ。
「木登り、やったこと、あまりなさそうですよね。なんで登ろうなんてしたんですか?」
『こっちこっち、山がきれいだよ、一緒に見よう』
――一緒にすればフィルが笑うだろうと思ったから。
「……」
その言葉にただ苦笑を返すと、アレックスはフィルの頭に手を置いた。
「夕飯、せっかくだし外に食べに行こうか、一緒に」
一瞬泣きそうな顔したフィルが、微かに笑った。それにやはり泣きたくなる。
「ついでに甘い物も。助けてもらったお礼に奢る」
その衝動を抑えようと発した言葉に、フィルは顔を俯けた。
「……ケーキ?」
「そう。やっぱりチョコレートがいいか?」
こくりと頷いた彼女の頬につい手が延びてしまって、そこにかかっていた柔らかい横髪を耳の後ろへと流すように梳いた。
「……よっ」
しばらくされるままになっていた彼女が梢から飛び降りて、まだ上にいるアレックスを仰いだ。
「はい、一緒に行きましょう、アレックス」
そう言いながら、フィルはどこか懐かしいものを見るような目をした。
あの夏にはなかった、どこか愁いを帯びた視線に思い知らされる。フィルはフィルのまま、アレックスが知らないフィルになっている。
「一度ちゃんと伝えておきたかったんです。その、私、アレックスと同じ部屋になって、相方になれて良かったです。いっぱい、いっぱい、本当にいっぱい救われてるんです」
ありがとうございます、木の下からそう告げてくるフィルに胸が詰まった。
「……俺の台詞だ」
何とか返せた言葉はごく短いものだったのに、フィルはさらに笑ってくれる。その事実に体が震えた。奥底から湧き上がって全身に広がっていくのは、あの夏にはなかった狂おしい感情。
再びフィルに恋をしている。まだそんな資格はないと思うのに、アレックスの中で初恋はずっと続いていたはずなのに、彼女に再び出会って、改めてまた。
昔と同じように愛しい。でも、彼女と共に過ごすようになって数週間経つ頃には、それにさらに別の感情が加わってしまった事に気付いた。
――欲しい、触れたい、誰にも渡したくない、俺だけのものにしたい。
嵌りすぎている、少し冷静になれ、そう理性は非難するのに、溢れ出てくる感情をうまく抑えることが出来ない。
愛しい、どうしようもなく。だからこそ――怖い。
自己嫌悪に顔をしかめたことを悟られまいと、アレックスも地へと飛び降りた。
「行こう、はぐれて迷子になるなよ」
「……うー、気をつけます」
平静を装うためにからかいを交えてみれば、フィルは口をへの字に曲げて返してきた。思わず微笑み、並んで歩き出す。
日はすっかり沈んだ。冷たい風が落ち葉を巻き込み、渦を描く。同じ風にフィルの前髪が巻き上がり、額の傷を露にした。
「……」
アレックスは唇を引き結ぶと、視線を伏せる。
(もうあんな目には遭わせない。今度こそ何からも守るから、どうかこのまま、いつか本当のことを話せる日まで、その勇気が溜まる時までどうか、どうか俺の側にいて――)
アレックスはもう何度目かしれない誓いを立てると拳を握り締めた。




