16-4.仮構
「う、ん……」
きつい日差しが直接顔に当たった。眩くて思わず顔を逸らす。
その拍子に頭がぐらぐらと揺れた。経験のない不快感に眉根を寄せる。
全身に奇妙な倦怠感があることにも気づいて、フィルは大きく息を吐き出しながら目蓋を開けた。金糸の刺繍のある布がぼんやり視界に入る。
(なにこれ……。ベッド、の天蓋?)
周囲に同色の飾り房がふんだんに垂らされているのを見てそう判断するなり、覚醒した。
「アレックスっ」
目の前の奇妙なものよりまずはそれ。
薄暗い倉庫の中、自分へと向けられた彼の悲愴な声を思い出して、フィルはガバッと飛び起きた。また眩暈がして、顔を歪める。
「あら、おはようございます」
「……へ? じゃなく……お、おはよう、ご、ございます?」
(あ、あれ? それもなんか違ってない?)
唐突に挨拶をよこされて反射で挨拶し返したものの、フィルは語尾をあげてしまった。そのままぽかんと口を開く。
少し離れた場所で、女性が微笑んでいる。窓辺に据えられた花瓶が反射する光を背に受けて、豊かに波打つ茶色の髪と薄い水色の瞳が美しい。
呆然と彼女を見つめるフィルを気にかけることもなく、騎士団の自室三つ分はあろうかという部屋の中、彼女はにこにこと笑っている。
「主人を呼んでまいります」
「……ええと、ご、ご主人?」
「目覚めたら一緒に食事をとるから知らせるように、と申しつかっております」
「ご飯……」
(は嬉しい。お腹空いた……じゃなくて、ええと、なんだっけ?)
目を白黒させているフィルにもやはり構わず、目の前の女性は笑顔のまま、「はい、ご飯です」と繰り返した。
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか」
「はい、待ちます」
混乱しつつも、踵を返そうとした彼女を咄嗟に引きとめた。断られるか困惑されるか、半ばダメ元の頼みだったのに、彼女は素直に足を止め、フィルを振り返って微笑む。
その彼女と見つめ合うことたっぷり数十秒――。
「あ、の……ここはどこでしょう?」
なんとか声を絞り出したフィルに、彼女は笑顔のまま答えた。
「ここはメーベルド公国の外交官邸です」
「メーベルド、外交官邸……?」
(なんだ、それ? いや、メーベルトも外交官邸もわかるけど……)
今の状況にまったく繋がらない情報を渡されて、ますます困惑する。
混乱を何とか収めようと右手を頭にやれば、髪はごわごわでしかもひどい寝癖がついていた。視野の下に入るのは白のドレス――昨日着ていたメアリーお手製の服じゃない。
「え゛」
フィルは蒼褪める。
慌てて最後の記憶をたどって思い出したのは、フィルの膝蹴りを顎に受けて、呻き声を上げて倒れていく大男の姿と、その直後に自分の左脇、煙の中からすっと伸びてきた白い腕だ。
驚いて目をやった先、薄闇と煙の中には道化師の顔が浮かんでいた。
気配がまったくなかったこともあって、お化けでも見たような気分になって、硬直してしまう。
その隙に布を口元に押し当てられて、それがこれまで嗅いだことのない匂いで……。
「それで……私、なんでここにいるんだ……?」
独り言だったはずの言葉にも、律儀に返事が返ってくる。
「ご主人さまがこの部屋と仰いました」
答えになっているようでなっていない答えを返してきた目の前の彼女は、相変わらず微笑んでいる――『茶色の髪の、空色の目の美人』だ。
直感だよりにフィルはもう一度口を開く。
「あの、ひょっとして、マリーベルさんですか? リーナ、リーナ・ホルスンの近所のお姉さん?」
「いいえ。私はアリスです。マリーベルさんは私の隣のお部屋です」
柔らかい陽だまりの中で彼女はまたにっこりする。
「……」
(ほ、ほのぼのしてる……場合だっけ??)
頭が真っ白になってしまったフィルに微笑み続けていたアリスは、その後しばらくして別の女性に呼ばれて、部屋を出て行った。
彼女らの華奢な背を呆然と見送って数十秒。そんな場合じゃなかった、とようやくフィルは我に返った。
「ええと、私は昨日非番で、メアリーと会う約束をしていて……って、昨日だよね?」
昨日のことであって欲しいと蒼褪めつつ、フィルは自分の身に起きたことの推測を試みる。
ヘンリックの都合もアレックスの都合もつかなかったから二人で会うことになり、ならこの機会に約束を果たそうと、彼女お手製の服を着ることにした。
気が進まないながら、一番簡素なドレスを不承不承選んで身につけ、当然帯剣できないので、代わりに太ももに巻き付けた皮製のバンドにナイフを数本仕込んで……。
(あれ? 奪われてない……)
そのナイフとバンドを新しくなったドレスのスカートの内に発見して、フィルは困惑に眉根を寄せた。服を着替えさせたなら、これに気づかないはずはない。なのになぜ?
「……と、とりあえずわかることから一つずつ」
新たな疑問を一旦脇に退けて、フィルは思考を元に戻す。
(それから、みんなに見られないように薄手の外套を羽織って宿舎を出て、メアリーの家に向かって……)
不思議なもので、服装を変えるだけで街の人たちは、フィルを騎士団のフィル・ディランだと認識しない。代わりに大柄な女が珍しいのか、女装が板についていなくて不審がられるのか、じろじろと見られることになる。いつもなら頻繁に声をかけられるのに、それもまったくだ。
メアリーの家では、これまた彼女が面白がってフィルに化粧をし、髪までいじった。なんの拷問と思ったけれど、かわいくて、これまたかわいい親友の大事な子が嬉しそうなので、結局されるままになった。
その後二人で買い物に出、ご飯を食べて、メアリーを家まで送って……宿舎に戻る途中で、不安そうな表情で辺りをきょろきょろと見回しながら小走りにかけているミルトさんの奥さん――アメリアさんと行き逢ったのだ。
「フィル、リーナを見なかった?」
彼女は声をかけたのがフィルだと気付くなり、泣きそうな顔をした。いつもと違うフィルの格好に言及する余裕すらない。
「マリーベルを連れて行った人を見たって、捕まえてやるって言って、おかしな男の人たちを尾けていなくなったらしいの。おやつにも夕飯にも帰ってこないのよ。時間を忘れているだけならいいんだけど……どうしよう、何か変なことに巻き込まれてるんじゃないかしら……?」
巻き込まれているかどうかはともかく、活発で正義感の強いあのリーナなら言いそうなこと、そしてやりそうなことだと思った。
マリーベルは、ミルトさん一家の向かいに住む夫婦の今年十七になる娘さんだそうだ。
お父さんの再婚のため、二年ほど前から一緒に暮らし出した義理のお母さんと相性が悪いらしく、ほとんど家に寄り付かないという。
その彼女が突然いなくなった、誘拐されたのだとリーナがミルトさんに訴えてきたのは、フィルが彼らの家を訪れた十日ほど前だっただろうか?
「リーナ、マリーベルが家に帰らないのは、今に始まったことじゃないだろう? あの子は友だちも多いし、ああ見えて分別もある。そのうちまたひょっこり顔を出すよ」
さらりと流そうとしたミルトさんに、リーナは食い下がった。
「いつもと違うんだってば! マリーベルお姉ちゃん、いなくなる前、変な仮面の男の人と一緒にいたんだから」
「ほー。なんか劇的だなあ、じゃ、駆け落ちでもしたんじゃないか」
そう言って相手にしないミルトさんの脛を蹴り上げて、リーナは憤然と自分の部屋へと戻っていった。
油断があったとはいえ、第一小隊の中でも腕利きのミルト・ホルスンを一撃で沈められるのだから、たいしたものだと思って……ああ、問題はそこじゃない。
仮面――ミルトさんは相手にしていないようだったけど、フィルはそこに引っかかりを覚えたのだった。
夕方、西区方面に向かうリーナを見て、心配して声をかけてくれた人がいたと聞いて、フィルはアメリアさんに家で待つよう告げた。とてもじゃないが、夜女性が行くような場所ではない。
少女ならなおさらだと急いでそこに向かったところ、悪い予感は当たるもので、リーナのものと思しき悲鳴が響いて、焦って廃倉庫に駆け込む。
そうしたらなぜかというべきか、予想通りというべきか、ナイフを持った大男に彼女は襲われていた。側にはリーナの言ったとおり仮面を被った男と、大きな鞄を抱えた男がいて、離れた場所に確かもう一人。
訳がわからないながらもとりあえずリーナを助けたら、なぜかアレックスを含む騎士たちがやってきて、なぜか煙が出てきた。
混乱と視界不良の中、フィルはそのまま大男と対峙していたのだが、ドレスとリーチの差、リーナの存在が災いして、大男に捕えられてしまった。
首を絞められ、力任せにそのまま持ち上げられたが、まあ、そういうのは珍しい話じゃない。息苦しくなる前に首に巻きつく男の腕をよりどころに全身を支え、腹筋と太ももに力を込め、その男の顎を蹴り上げた。
うまく入ってその男から逃れた瞬間、笑顔だけどまったく楽しくなさそうという実に気持ち悪い仮面が横から出てきて……そこで記憶が途切れている。
ただアレックスの声だけは耳に残っていた。間違えようのない、低く、よく通る声。
『っ、フィルっっ!!』
アレックスらしくない焦りを含んだあの声が頭にこだまする。ザルアでヒュドラに襲われた時や、タンタールでグリフィスに吹っ飛ばされて川に落ちた時と同じ――。
「……ああ、また心配かけてる」
頭を抱え込んで、ずずんと落ち込んだ。
だが、落ち込んでいても問題は解決しない――アレックスの心配を解消すべく、動き出さなくては。
フィルは深呼吸して気を落ち着けると、ベッドの上から足を下ろした。毛足の長いじゅうたんが素足をくすぐる。
ぐるりと部屋を見渡せば、壁際に螺鈿細工の施されたコンソール、その上に陶製のおそろいの花瓶とボウル。あっちには繊細な彫金で縁取られた大きな姿見、こっちにはいつだったか兄が有名な画家のものと教えてくれたサインの入りの大きな風景画。部屋の随所には、ベッドの天蓋の共布でできた華奢な椅子やソファが置かれている。
(高級そうな調度品ばっかり……)
メーベルト公国の外交官邸と言っていたが、信ぴょう性がある気がしてくる。
なんにせよ退路は確保しておくべきと判断して、フィルは足音を殺して窓に近寄った。そこを開けようとするが、びくともしない。
フィルはため息をつきつつ、館の周囲をうかがう。
外に広がる、丁寧に整えられたカザレナ様式の庭園に見覚えはない。ただひとつ、蔓バラの巻かれた石作りのアーチの頂上に刻まれた紋様をどこかで見た気がしたが、それも詳細は思い出せなかった。
「外交官邸って、ええと、確か本国の法制下にあって、在留国、つまりカザックの法制が及ばない……んだっけ?」
騎士団で受けた、外交に関する講義の内容を引っ張り出し、フィルは首をひねる。
姿を消した、攫われたとリーナが言っていたマリーベルがそんな場所にいるというのも不思議な話だが、その彼女がいる場所に、あの状況にいた自分がいるのは?
「ひょっとして……私も攫われたってこと?」
(……ああ、アレックスにかけているのは心配だけじゃない、迷惑もだ……しかも、また)
フィルは「最近ようやくましになってきたところだったのに……」と泣き言を漏らした。
だが、そのアレックスだ。彼はなぜあそこにいたのか――フィルは思いついた更なる疑問に眉間を寄せる。
リーナの危機を誰か、例えばアメリアに聞いたというのはない。時間が合わない。
マリーベルの捜索もない。ミルトさんですら取り合っていなかった話だ。他の小隊が動いていたという可能性は低いだろう。第一、あそこにいた騎士の人数は、家出した少女一人を探すには多すぎる。
アレックス個人がフィルを探していたというのもない。朝、今晩も仕事で帰れないかもしれないと言っていたぐらいだ。
「仕事……アレックスの仕事は確か今、ええと、新種の麻薬の件だっけ……って、待て」
そこでフィルは顔を引きつらせた。
(アレックスは麻薬の件であそこにいた。私をそこから連れてきたのは、アリスがご主人さまと呼ぶ人。で、今いるこの場所はメーベルト公国の外交官邸……それってつまり……)
「っ」
そこに響いたノックの音にフィルは文字通り飛び上がった。