16-3.仮面
陽が落ちて久しい今、辺りはすっかり夜の帳に包まれている。
王都西区の運河沿いにある倉庫街は、元々斜陽気味の地区だということを差し引いても驚くほどの静けさに満ちていた。
街灯はそこかしこにあるものの、手入れされているものはほとんどない。昇り始めた半月の光のほうが、よほどましに周囲を照らしている有り様だった。
例の薬物の取引が行われるという情報を得、アレックスはそんな界隈の一画で古ぼけて取り壊し寸前となっている運河沿いの倉庫を張っていた。
自分の属する隊と他の一隊が数名ずつ十ヶ所程度に散らばって、物陰で息を潜める。足元では経年により歪みつつある石畳が月明かりに鈍く光っている。
カザック王国は物資の輸送の多くを大河カザレナに委ねており、王都はその輸送の中心地として発展してきた。源流のある西部と河が流れ出る東方の海、北部諸地域に繋がるカザレナ川の支流エムス川、同じく南部からのトイナ川を通じて、国の各部はほぼ繋がっており、それらが会する王都の近辺では大小の運河がそれぞれの河を結んでいる。
外国や国内各地からいったん王都に運び込まれた積荷は、行く先の運河の大きさや深度に合わせた船に積みかえられ、東西南北様々な目的地へと運ばれていく。だが、ここ数十年のカザレナ河の水量の減少に伴って、王都内の運河も水位を下げ、輸送の中心地は、王都西部からより海抜の低い東部へと移った。
アレックスたちが今取り囲んでいる倉庫も、かつてはそんな王国の動脈の傍らで物と人と賑わいに満ちていたのだろう。だが、往時の面影はいまやすっかり失われていた。
防湿用の樹脂を塗った薄板で葺かれた屋根の所々には穴が開き、四面ある壁のそこかしこは崩れて、柱などが露出している場所もある。壁の一面は運河――いまや水位は倉庫床面より大の男の背丈ほど下がっている――に向かって大きく開かれ、その他の三面にもそれぞれ大きな入り口が設けられていた。その内の一つは両開きの分厚い木戸が半分ほど開かれた状態で固まっており、残る三つは扉すら失われ、上部の梁が傾いているものもある。
おかげで、アレックスたちが見張る外からでもなんとなく内部をうかがうことができるわけだが、同時に、戦闘となった場合の障害物も逃げ道も多い状態で、非常にやりにくい場所でもあった。
見張りを開始して半日近くを経て、ようやくアレックスたちの待ち人がやってきたようだ。
小太りの体型、とってつけたようにたくわえられたひげ、品のない、だが豪奢に見える衣服――絵に描いたような成金の外観を持つ中年の男だ。アレックスは離れた位置にいるアイザック小隊長がこちらに向けて頷くのを確認した。
トーム・フレズナー。最近急成長しているフレズナー商会の主で、貴族や大商家たちの間でもそれなりに名が知られるようになってきたという。一方で、暴力や脅し、詐欺まがいの取引など裏社会との繋がりも噂されている男だ。もっともそんな噂がたつ時点で、裏側の人間と言ってもまだまだ小物なのだが。
薄暗い倉庫の中、崩れた屋根から月明かりが注ぐ位置に、彼は場所を定めたらしい。そこに佇み、落ち着きなく身動ぎしている。
「取引相手が来たようです」
アレックスの背後にいるロデルセンが緊張を帯びた小声で呟く。
大柄な男二人を従えた長身の男が、フレズナーの立つ対方の入り口から倉庫へと入ってきた。背後からのか弱い街明かりを受け、細身の影とがっしりした肩を持つ二つの影が倉庫の床に長く伸びる。
(……仮面?)
アレックスは中心の男の顔を凝視する。
男は道化師の仮面で顔を覆っていた。両眉は黒く、口は耳元まで裂けた赤い弧、目の周囲は青く染まって耳上まで切れ上がり、左目下には黒い涙の模様がある。
その男は残暑がまだ厳しいというのに、全身を白の長い外套と手袋で被っていた。
「は、話が違うだろうっ、一人で来いと言ったのはお前じゃないか!」
奇妙に上擦った声は恐れを感じているがゆえだろう。それを隠すためにか、フレズナーが語気荒く仮面の男に怒鳴った。顔色が青く見えるのは、おそらく薄明かりのせいばかりではない。
「私は一人で行くなどとは言わなかったはずだ」
尊大で冷たい響きの若い声には、不自然なほど訛りがない。そのことにアレックスは眉を寄せた。
「……仮面をとれ、あんたが本人だと証明してもらおう」
「はて、貴君は私の顔を認識できるほどの人物だったかな」
明らかな嘲笑を含んだ響きに、フレズナーの顔は一転、薄闇の中でわかるほどに紅潮した。
(年若い、訛りがないのはそれを取り去る訓練を受けたがゆえ、かなりの身分もしくは地位にある……)
アレックスは二人のやり取りを見ながら、条件に該当する人物を頭の中で探る。
「まあいい――死にたいのならとってやろう」
そう呟いて仮面の男はくくっと喉の奥で哂った。奇妙な愉悦を含んだその音はざらりとしていて、途端に男の年齢がわからなくなった。
仮面の口の辺に描かれた真っ赤な弧が、天井から漏れ入る月光に映える。仮面の目、青い線の中に開いた穴の奥に得体の知れない光が見えた気がして、アレックスは目を眇めた。
仮面の男の「どうする?」という笑いを含んだ問いかけに、フレズナーは怯えたように一歩後退った。
運河からの風に仮面の男の白い外套の裾がはためいた。同じ風がアレックスたちのもとまで流れてくる。夏の運河特有の湿り気と臭気を含んだ空気に、覚えのある香りが含まれていた。確か貴族の男性たちの間で流行っている香水だ、南方の希少な香木から得た精油を用いた――。
「トーム・フレズナー、望みは取引ではなかったかな」
沈黙を経て、男が嘲りを露わにフレズナーに声をかけた。
「そ、そうだ、物さえちゃんとしているなら、それでいい。確認させてもらおう」
それで我に返ったらしい。フレズナーは負け惜しみの混じりに嘯くと、開いた距離をつめるべく、男へと一歩足を踏み出した。
その時だった。
小さな影が騒々しい足音を立ててアレックスたちの眼前を通り過ぎ、倉庫へと飛び込んだ。
「やっと見つけたっ。ちょっとそこの仮面のオジサン、マリーベル姉ちゃんを返してよっ」
アレックスを含む騎士団の面々は、予想にない展開に息をのむ。
「なっ、なんだ、その子供はっ!?」
「……さあ?」
仮面の男は少女を見、幼児がするように小首を傾げた。
「さあ、じゃないわ、ちょっと前にあんたがさらったお姉ちゃんよ。茶色の髪の、空色の目の美人!」
仮面の男の背後につき従っていたうちの一人が、無言でナイフを取り出す。仮面の男は、少女を一切無視して再びフレズナーに顔を向けた。
「殺せばすむ。さて、フレズナー、本題に戻るとしよう」
まるで天気を話すかのように死を告げられた少女は、その異様さにだろう、先ほどの威勢をなくして固まった。
少女を一瞥もせず、仮面の男は背後に控える大柄な男に合図を送った。男は仮面の男へと抱えていた鞄を差し出す。
仮面の男の唇の動きを読むべく、アレックスは目を凝らした。だが、直後に響いた悲鳴に思考を遮られる。
「っ、きゃあああ」
目の前に刃物が迫って逃げ出そうとした女の子が、ナイフを持った男に捕らえられた。あちこちが崩れた倉庫の中から、幼い金切り声が歪に外へと響いた。
(くっ)
取引内容を確認する前の行動になることに内心で舌打ちしながら、アレックスは周囲に突入の合図を出す。
「リーナっ!」
だが、騎士団の誰が飛び込むより早く、白い薄手のドレスをまとった女性がスカートの裾を翻しながら倉庫へと走り込んだ。
(フィル!)
アレックスはその声の主を一瞬で認識する。同時に青褪め、跡を追った。
(なぜここに? しかもあの格好……)
「ひっ」
フレズナーの上ずった声が聞こえる。
入り口をくぐったアレックスの視線の先で、フィルは女の子を抱えていた男にナイフで切りかかる。下から突き上げるように喉を狙われた男は退きつつ、喉を庇った。抱えていた少女を取り落とす。
小さな悲鳴と共に、少女は床にへたり込んだ。
「リーナ、立ってっ、早く逃げなさいっ」
フィルには珍しい切迫した声音。同時に、彼女は再び男へと攻撃を仕掛ける。
その状況に内心混乱しつつも、アレックスを含めた騎士団の面々は各々の武器を取り出し、フレズナーと仮面の男の確保、そして証拠となるはずの『天使の息吹』の押収へと動いた。
泡を食って左右へと視線を走らせていたフレズナーは、方々から迫る騎士の姿に目を留めたらしい。言葉になっていない悲鳴を上げて出口へと走り出す。
だが、もう一方の標的、仮面の男は走り寄ってくる騎士団員たちに目もくれず、ナイフの男と対峙するフィルをじっと見つめていた。
仮面に遮られて感情のうかがえないその視線に、アレックスは全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。
嫌な予感がした。フィルまでの距離を妙に遠く感じる。
仮面の男は視線をフィルに据えたまま、外套の内ポケットから左手で何かを取り出した。直後に右手が明るく光を放ち、その灯りに不気味な笑顔の仮面が暗闇の中で浮かび上がる。
歪な笑みの赤い口、つりあがった青い目、黒い涙――。
仮面の男は手元に顔を向けないまま、両手を重ね合わせ、手にしていたものを床に落とす。そこから瞬く間に白い煙があたりへと広がっていく。
「っ、フィル、どこだっ!?」
「へ? アレックス?」
アレックスは視界の効かない中、横から短刀をかざして襲ってきた男を躱す。直後に剣の柄で後頭部に衝撃を加えて失神させ、アレックスは男の持っていた鞄を押収した。
「フィルっ」
返事のあったほうに向けて彼女を呼んだのに、今度は応えがない。フィルが視界に入らないことにも苛立ちと――焦燥を募らせる。何かがおかしい。
「フレズナー、確保しました!」
煙の向こうで、馴染みの騎士団員の声が上がった。
視界の右端、煙の淡い部分に、大男に首を絞められながら持ちあげられるフィルの姿が見えた。無駄なく締まったふくらはぎが、軽やかなスカートの裾から宙に垂れている。
「フィル!!」
心臓が凍りついた。
後ろについてきていたロデルセンに咄嗟に鞄を押し付け、アレックスは煙で再び閉ざされつつある中、フィルへと向かった。
「ぐあっ」
「……っ、くっ」
鈍い打撃音と歯がかち合う音――行く先で二つの呻き声が響く。その一つがフィルのものだとわかって、アレックスは戦慄する。
「フィルっ、返事をしろっ」
「――そう、フィルと言うの」
一瞬だけ薄くなった白煙の向こう、仮面の男の腕に横抱きに抱えられているのは、ぐったりとしたフィル。首と四肢をだらりと投げ出した彼女を、男は仮面越しにじっと見下ろしていた。
「触れるなっ!」
瞬時に血を頭に上らせ、アレックスは仮面の男に切りかかった。男はフィルを抱いたまま、器用に飛び後退って、殺意交じりの刃を避けた。
白煙の濃淡が天井から入り込む月明かりに浮かび上がる中、仮面がゆっくりとフィルからアレックスへと向く。
――なぜだろう、仮面の下の顔が笑った気がした。
再びアレックスの視界は煙に閉ざされる。
方々で騎士たちの互いを確認する声、足音が響く。その雑音に紛れて、男の足取りを見失う。
「どこだ、フィルっ」
胃の腑が覆るような感覚を覚え、剣を握る指先が冷たくなっていく。全身が冷気に覆われていく。
「――もらっていく」
愉悦を含んだ声が投げられた。全身から汗が噴き出し、アレックスは必死に音の方向へと駆け寄る。
だが、直後に前方で大きな水音が響いた。
それは鈍く、廃れた倉庫街にこだまして……
「っ、フィルっっ!!」
残響が退くのと時同じくして、フィルの姿はアレックスの世界から掻き消えた。